平賀源内とは?エレキテルやうなぎの宣伝で有名だが、殺人罪で獄死した!?

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平賀源内2

1.平賀源内とは

平賀源内(1728年~1780年)といえば、暑い夏の「土用の丑の日」に庶民がもっと鰻を食べるように、うまい宣伝方法(「本日、土用丑の日」という張り紙を鰻屋の店頭に出した)を考案した人として有名ですね。

それから。「エレキテル」(静電気発生機)を発明(正しくは、オランダ渡来の破損したエレキテルを修理し復元)した科学者としても知られています。

しかし、彼はそれだけでなく、「本草学者」「地質学者」「蘭学者」「医者」「殖産事業家」「戯作者」「浄瑠璃作者」「俳人」「蘭画家」「発明家」という多彩な顔を持っていました。

彼の戯作の代表作に「放屁論(ほうひろん)」があります。

日本のダヴィンチ」と言われるのも、なるほどむべなるかなですね。

2.多くの変名を持つ

江戸時代の人は、名前を頻繁に変えたようで、富嶽三十六景で有名な葛飾北斎は、生涯で30回も改名(改号)したと言われています。

平賀源内も、俳人としては「李山(りざん)」、戯作者としては「風来山人(ふうらいさんじん)」、浄瑠璃作者としては「福内鬼外(ふくうちきがい)」、殖産事業家としては「天竺浪人(てんじくろうにん)」、生活に困窮して細工物を作り売りしていた時には、「貧家銭内(ひんかぜにない)」と名乗っていたそうです。

どこか洒落のめしているようですね。明治時代の小説家の二葉亭四迷(父親から「くたばってしまえ」とべらんめえ調で罵倒された時の言葉を洒落てネーミング)の名前の由来に通じるものがありますね。

3.殺人罪で獄死?

しかも、彼は52歳の若さで亡くなっており、その死亡原因は、「殺人を犯した罪で獄に下り、破傷風で獄死」したそうです。

輝かしい業績がある反面、とても破天荒で波乱万丈の人生だったようですね。

4.殺人事件の真相

ただ、平賀源内の謎というのは、実はこの殺人事件の真相についてなのです。

一般には、大名の屋敷の修理計画(庭普請とも言われています)を依頼された彼が、その「修理計画書(設計図)」を盗まれたと勘違いして激昂し、大工二人を殺傷したというものですが、異説も多いようです。(大切な文書を内弟子に盗まれたと勘違いして、内弟子二人を殺傷したとの説もあるそうです)

さらに獄中死したとされていますが、実は彼が懇意にしていた老中田沼意次にひそかに救出され、遠江や出羽でその後の人生を送り、天寿を全うしたとの説もあるのです。

源義経が、兄の源頼朝の追討を逃れて、奥州から蝦夷地(今の北海道や樺太)を経由して、中国大陸に渡り、蒙古のチンギスハン(ジンギスカン)になって、蒙古帝国を作ったという「ジンギスカン伝説」ほど突拍子もない話ではありません。

ひょっとしたら、平賀源内は、天寿を全うしたという方が真実かもしれません。

そうだとすれば、彼がその後の人生をどのように過ごしたのか、そういう想像をするのも楽しいものですね。

5.平賀源内と田沼意次の意外な関係

平賀源内が田沼意次と親しくなったきっかけは、田沼意次が町人出身の女性を側室にしようとしたときの、「養女先あっせん」だったという話があります。

田沼意次は、蘭学医の杉田玄白とも親交があったようで、そちらの縁で平賀源内とも親交を持つようになったのかもしれません。

いずれにしても、田沼意次は、一般的には「賄賂政治家」とだけ理解されていますが、実は100年先を見通した幕府財政の立て直しのためには、従来の農業中心の「重農主義」ではだめと判断し、「積極財政政策」で公共事業を推進し、商業資本中心の「重商主義」(初期資本主義)を目指していたそうです。

したがって、平賀源内のような進んだ考え方を持った多才な人物を気に入り、殖産興業の政策、具体的には鎖国を破って海外との貿易を始めるとか、鉱山開発を始めるとか、国防政策としてロシアの脅威に備えるため蝦夷地開発を行うとかの知恵を得ようとしたのではないでしょうか?

ですから、平賀源内の「殺人事件」というのも、単純に設計図を盗まれたと勘違いして、かっとなって殺したというのでは、どうも腑に落ちません。

私の勝手な推理ですが、平賀源内は田沼意次の命を受けて、上記のような大胆な政策構想を模索し、文書にまとめて大切に保管していたところ、彼が酔いつぶれて寝込んだすきに、内弟子(これも、反田沼派の差し金で潜入したスパイのような内弟子か?)にそれを盗まれたと勘違いした。

「これは命に代えても秘密にしなければならない文書だから、彼らを抹殺するしかない」と思いきわめて、殺害したのではないでしょうか?

その後、「獄死」したとされる平賀源内の遺体は、親戚の人ではなく、親交のあった杉田玄白がひそかに引き取ったという話ですが、想像をたくましくすると、実はその「遺体」は、生きた平賀源内で、杉田玄白がいったんかくまった後、田沼意次が彼の領地である遠江や出羽に安全に逃がし、終生彼を庇護したという推理です。

何か小説が一冊書けそうですね。これは冗談ですが、歴史上の人物については、平賀源内にしても、田沼意次にしても、いろいろと謎が多いのです。

歴史に「if」はありませんが、あれこれ想像してみるのは楽しいものです。

「歴史は勝者によって作られる」という言葉があったように思います。ある国(集団または個人)が戦いに敗れた後は、それに勝利した国(集団または個人)が、自分たちに都合のよいように、歴史を塗り替えてしまうものです。「勝てば官軍」です。

田沼意次のように、「悪徳政治家」と思われていた人物が、実は将来を見据えた「偉大な政治家」であったと再評価される例もあるのです。

池波正太郎の小説「剣客商売」では、主人公秋山小兵衛の息子大治郎の嫁「三冬」が田沼意次の娘という設定で、政治家としての田沼意次を好意的に描いています。

山本周五郎の「栄花物語」も、従来の固定観念をくつがえし、田沼意次を高く評価した小説です。

一般的に人の評価は、「棺を蓋いて事定まる」と言いますが、歴史上の有名な人物については、一筋縄ではいかないようですね。死後も毀誉褒貶にさらされることになります。

興味のある方は、ぜひ読んでみてください。