「月」にまつわる話

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中秋の名月

1.月を詠んだ俳句・和歌

名月をとってくれろと泣く子かな(小林一茶

この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば(藤原道長)

あら楽し思ひは晴るる身は捨つるうき世の月にかかる雲なし(大石内蔵助)

同じ月を見ていても、その人の年齢や境遇によってさまざまな受け止め方があるものです。

2.小林一茶(1763年~1828年)

最初の小林一茶の俳句は、秋の十五夜の名月を背中に負った子供が「取ってくれ。取ってくれ」とせがんで泣いている無邪気な様子を詠んだ句です。しかし、これは、小林一茶が自分の子供をおんぶしていた時に、マイホームパパのように楽しく即興で作った句ではありません。

彼は、この句を詠む数年前に結婚し、子供が次々と生まれますが、いずれも夭折してしまいます。長子は生後数週間で亡くなっています。

ですから、この句は、中秋の名月を見て、「もしも自分の子供が生きていたら『名月を取ってくれろ』と駄々をこねるような年頃になったであろうに・・・ 今の自分の心は満月とは程遠い」と、亡き子供を偲んで詠んだ句のようです。

それは、同様に子供を詠んだ次の句でもわかります。

名月や膳に這(はい)よる子があらば

3.藤原道長(966年~1028年)

次の藤原道長の和歌は、彼が三女の威子を11歳の後一条天皇の「女御」として入内させますが、その威子が「中宮」になった日に、自分の邸宅に諸公卿を招いて開いた祝宴の席で、即興でこの歌を藤原実資(さねすけ)に向かって披露したものです。藤原実資は、有職故実に通じた当代一流の知識人でしたが、権勢を振るう藤原道長に阿(おもね)らない筋を通した態度を貫いた人です。

そこで、実資は丁重に「返歌」を断り、代わりに一同が和してこの「名歌」を詠ずることを提案し、公卿一同は何度もこの歌を(お追従するように)詠じたそうです。

藤原道長の栄華は、他の公卿や天皇家との激しい権力闘争に勝利した結果であり、自分を邪魔する者は全て倒したという達成感・高揚感・驕りからこのような歌が生まれたのでしょう。しかしこの頃が「絶頂」だったようで、翌年には出家しています。

4.大石内蔵助(1659年~1703年)

最後の大石内蔵助の和歌は、彼の辞世です。彼は赤穂藩の筆頭家老ですが、「昼行燈」とあだ名されるように、藩政の実務は老練で財務に明るい家老の大野知房に任せており、平時は凡庸な人物と見られていたようです。また酒色にふける傾向もあったようです。

しかし、主君浅野内匠頭の吉良上野介に対する「松の廊下の刃傷」と、「赤穂浅野家断絶」となるに及んで、リーダーシップを発揮し、「お家再興運動」を精力的に行った後、「江戸急進派との軋轢」も乗り越えて、「討ち入り」を決行し、「本懐」を遂げるわけです。

私の個人的な勝手な解釈ですが、この辞世には次のような意味が含まれていると思います。

「あらたのし」は、ああ楽しいという「本懐を遂げた喜び、満足感」の意味もありますが、「新たの死」すなわち切腹を暗示しているようです。

「思ひは晴るる」は、「念願が叶って気持ちは晴れやかである」の意味もありますが、「主君の恨みを晴らした」という思いも込められているようです。

主君浅野内匠頭の辞世「風誘う花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん(とやせん)」の「春の名残」すなわち「吉良上野介を討ち果たせなかった(恨みを晴らせなかった)無念・心残り(名残り)」に対応したものでしょう。

「うき世の月」は、「現実のこの世の月」というよりも、辛かった討ち入りまでの「憂き世」の終わりという意味の「尽き」で、「かかる雲なし」は、「あの世では【かかる】(このような)【苦(く)もなし】」ということでしょう。

また、他の赤穂浪士たちの困窮した生活環境に比べて、筆頭家老の財力もあったからかも知れませんが、表向き吉良方の目を欺くためとは言いながら、京都で酒色にふけったということも事実で、そういう意味で、この世でやるべきことはやったという満足感も一部にはあったのではないかと思います。

もちろん、彼は藩士たちに応分の金銭分配をしていますし、上級の身分の武士に偏らないよう配慮したことも事実のようです。また、血気にはやって討ち入りに参加する者に、極力思いとどまらせるため、何度も「血判書」を返却して、再考を促す配慮もしています。

最後に、討ち入り前に「南部坂雪の別れ」で瑤泉院に対して、「結婚時の持参金」から「お家再興や討入の運動資金」を差し引いた残金を収支決算書とともに持参しており、戦時における立派なリーダーであったことは間違いないと私も思います。

しかし、「英雄色を好む」「英雄酒を好む」ということだったのかも知れません・・・