天満の元与力大塩平八郎はなぜ乱を起こしたのか?またその結果はどうなったか?

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大塩平八郎

私は「大塩平八郎の乱」を歴史の授業で習いましたが、「大阪天満の元与力の大塩平八郎が、飢饉に苦しむ農民たちを救うために幕府に対して起こした反乱」という程度の理解しかありませんでした。

しかし、なぜ彼が反乱までしなければならなかったのか、また出来上がりとしてどういう結果を期待あるいは想定していたのかがよくわからず、気になっていました。

そこで今回はこれについて、少し掘り下げて考えてみたいと思います。

1.大塩平八郎とは

大塩平八郎(1793年~1837年)は江戸時代後期の陽明学者で、代々大坂東町奉行の組与力を務めていました。

奉行所時代は、西町奉行与力の汚職を「内部告発」するなど、汚職を嫌い不正を次々と暴きました。上司の東町奉行高井実徳が彼を認めて、その行動を後押ししました。腐敗役人糾弾のほか、切支丹摘発や破戒僧摘発も行い上方の綱紀粛正に努めました。

1830年、彼に理解のあった東町奉行高井実徳の転勤を機に与力を辞し、跡目を養子の大塩格之助に譲ります。

学問は陽明学をほぼ独学で学び、「知行合一」「致良知」「万物一体の仁」を信念として、私塾「洗心洞」で子弟を指導しました。江戸の陽明学者佐藤一斎(1772年~1859年)とは面識はないものの、頻繁に書簡を交わしていたそうです。

天保の飢饉は、全国的には1833年秋から1834年夏と、1836年秋から1837年夏が特にひどいものでした。

彼は、奉行所に「蔵米(幕府が年貢として収納し、保管する換金前の米)を難民に与えること」や「豪商に米の買い占めをやめさせること」などの難民救済を直訴しましたが、認められませんでした。

それどころか、時の東町奉行跡部良弼は幕府への機嫌取りのために大坂から江戸へ強制的に廻米し、豪商の買い占めが原因の米価の高騰を抑制する政策も実施しませんでした。

現代でも、政治家や役人、教育関係者や企業の経営者などで、「有言不実行の人」、「『風呂の水』のように『湯だけ(言うだけ)』の人」が多いですが、そういう意味で大塩平八郎の義挙は「知行合一」の陽明学の理念を具現したものと言えます。

「不言実行」が理想的ですが、せめて「有言実行」をしてほしいものです。「有言不実行」は言い逃れだけをして人を欺くという意味で「不言不実行」よりも悪質です。

2.大塩平八郎の乱(1837年)とは

(1)背景

天保の飢饉に対する適切な対応策を取らなかった結果、京の都は餓死者で溢れ、多くの難民が大坂に流れ込み、大坂市中の治安は悪化しました。

彼は民衆救済の提言を行いましたが、奉行所にことごとく拒否されたため、蔵書5万冊を売却した資金で難民の救済に当たりました。これは陽明学の「知行合一」「致良知」の実践と思われます。しかし、奉行所は、これを「売名行為」だと冷ややかに見ていました。

(2)大塩平八郎の決起

大坂の窮状を顧みない東町奉行跡部良弼や、さらに米の買い占めを図ろうとする豪商に業を煮やした彼は、止むに止まれず家財を売り払い、家族を離縁して大砲などの火器や弾薬を整え、門弟に軍事訓練を施しました。

「豪商に対して天誅を加えるべし」との「檄文」を門下生と近郷の農民に回付し、決起への参加を呼びかけました。

「檄文」(口語訳)とは次のようなものです。少し長いですが「大日本思想全集第16

巻」(昭和6年 先進社内同刊行会)から引用します。

天から下された村々の貧しき農民にまでこの檄文を贈る

天下の民が生前に困窮するやうではその国も滅びるであらう。政治に当る器でない小人どもに国を治めさして置くと、災害が並び起るとは昔の聖人が深く天下後世の人君、人臣に教戒されたところである。それで、
徳川家康公も『仁政の基は依る辺もない鰥寡孤児などに尤も憐れみを加へることだ』と云はれた。然るに茲二百四五十年の間太平がつゞき、上流の者は追々驕奢を極めるやうになり、大切の政事に携はつてゐる役人共も公然賄賂を授受して贈り或は貰ひ、又奥向女中の因縁にすがつて道徳も仁義も知らない身分でありながら、立身出世して重い役に上り、一人一家の生活を肥やす工夫のみに智を働かし、その領分、知行所の民百姓共には過分の用金を申付ける。これ迄年貢諸役の甚しさに苦しんでゐた上に右のやうな無体の儀を申渡すので追々入用がかさんできて天下の民は困窮するやうに成つた。かくして人々が上を怨まないものが一人もないやうに成り行かうとも、詮方のない事で、江戸を始め諸国一同右の有様に陥つたのである。
天子は足利家以来、全く御隠居同様で賞罰の権すら失はれてをられるから下々の人民がその怨みを何方へ告げようとしても、訴へ出る方法がないといふ乱れ方である。依つて人々の怨みは自から天に通じたものか。年々、地震、火災、山崩れ、洪水その他色々様々の天災が流行し、終に五穀の飢饉を招徠した。これは皆天からの深い誡めで有がたい御告げだと申さなければならぬのに、一向上流の人人がこれに心付かすにゐるので、猶も小人奸者の輩が大切の政事を執り行ひ、たゞ下々の人民を悩まして米金を取立る手段ばかりに熱中し居る有様である。事実、私達は細民百姓共の難儀を草の陰よりこれを常に見てをり、深く為政者を怨む者であるが、吾に湯王武王の如き勢位がなく、又孔子孟子の如き仁徳もないから、徒らに蟄居して居るのだ。ところがこの頃米価が弥々高値になり、市民が苦しむに関はらず、大阪の奉行並に諸役人共は万物一体の仁を忘れ、私利私欲の為めに得手勝手の政治を致し、江戸の廻し米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米を致さぬのみでなく五升一斗位の米を大阪に買ひにくる者すらこれを召捕るといふ、ひどい事を致してゐる。昔葛伯といふ大名はその領地の農夫に弁当を持運んできた子供をすら殺したといふ事であるが、それと同様言語道断の話だ、何れの土地であつても人民は徳川家御支配の者に相違ないのだ、それをこの如く隔りを付けるのは奉行等の不仁である。その上勝手我儘の布令を出して、大阪市中の遊民ばかりを大切に心得るのは前にも申したやうに、道徳仁義を弁へぬ拙き身分でありながら甚だ以て厚かましく不届の至りである。また三都の内大阪の金持共は年来諸大名へ金を貸付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠取つてゐて未曾有の有福な暮しを致しをる。彼等は町人の身でありながら、大名の家へ用人格等に取入れられ、又は自己の田畑新田等を夥しく所有して何不足なく暮し、この節の天災天罰を眼前に見ながら謹み畏れもせず、と云つて餓死の貧人乞食をも敢て救はうともせず、その口には山海の珍味結構なものを食ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引してゆき、高価な酒を湯水を呑むと同様に振舞ひ、この際四民が難渋してゐる時に当つて、絹服をまとひ芝居役者を妓女と共に迎へ平生同様遊楽に耽つてゐるのは何といふ事か、それは紂王長夜の酒宴とも同じ事、そのところの奉行諸役人がその手に握り居る政権を以て右の者共を取締り下民を救ふべきである。それも出来なくて日々堂島に相場ばかりを玩び、実に禄盗人であつて必ずや天道聖人の御心には叶ひ難く、御赦しのない事だと、私等蟄居の者共はもはや堪忍し難くなつた。湯武の威勢、孔孟の仁徳がなくても天下の為めと存じ、血族の禍を犯し、此度有志のものと申し合せて、下民を苦しめる諸役人を先づ誅伐し、続いて驕りに耽つてゐる大阪市中の金持共を誅戮に及ぶことにした。そして右の者共が穴蔵に貯め置いた金銀銭や諸々の蔵屋敷内に置いてある俸米等は夫々分散配当致したいから、摂河泉播の国々の者で田畑を所有せぬ者、たとひ所持してゐても父母妻子家内の養ひ方が困難な者へは右金米を取分け遣はすから何時でも大阪市中に騒動が起つたと聞き伝へたならば、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け馳せ参じて来てほしい、各々の方へ右金米を分配し、驕者の遊金をも分配する趣意であるから当面の饑饉難儀を救ひ、若し又その内器量才力等がこれあるものには夫々取立て無道の者共を征伐する軍役にも使たいのである。決して一揆蜂起の企てとは違ひ、追々に年貢諸役に至るまで凡て軽くし、都べてを中興 神武帝御政道の通り、寛仁大度の取扱ひにいたし年来の驕奢淫逸の風俗を一洗して改め、質素に立戻し、四海の万民がいつ迄も天恩を有難く思ひ、父母妻子をも養ひ、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ、支那では尭舜、日本では天照皇太神の時代とは復し難くとも中興の気象にまでは恢復させ、立戻したいのである。
この書付を村々に一々しらせ度いのではあるが、多数の事であるから、最寄りの人家の多い大村の神殿へ張付置き、大阪から巡視しにくる番人共にしらせないやう心懸け早速村々へ相触れ申され度い、万一番人共が目つけ大阪四ケ所の奸人共へ注進致すやうであつたら遠慮なく各々申合せて番人を残らず打ち殺すべきである。若し右騒動が起つたことを耳に聞きながら疑惑し、馳せ参じなかつたり、又は遅れ参ずるやうなことがあつては金持の金は皆火中の灰と成り、天下の宝を取失ふ事に成るわけだ。後になつて我等を恨み宝を捨る無道者だなどと陰言するを致さぬやうにありたい。その為め一同に向つてこの旨を布令したのだ。尤もこれまで地頭、村方にある税金等に関係した諸記録帳面類はすべて引破り焼き捨てる、これは将来に亙つて深慮ある事で人民を困窮させるやうな事はしない積りである。去りながら此度の一挙は、日本では平将門、明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類してゐると申すのも是非のある道理ではあるが、我等一同心中に天下国家をねらひ盗まうとする欲念より起した事ではない、それは日月星辰の神鑑もある事、詰るところは湯武、漢高祖、明太祖が民を弔ひ君を誅し、天誅を執行したその誠以外の何者でもないのである。若し疑はしく思ふなら我等の所業の終始を人々は眼を開いて看視せよ。
但しこの書付は細民達へは道場坊主或は医師等より篤と読み聞かせられたい。若し庄屋年寄等が眼前の禍を畏れ、自分一己の取計らひで隠しおくならば追つて急遽その罪は所断されるであらう。
茲に天命を奉じ天誅を致すものである。
天保八丁酉年 月 日        某
摂河泉播村々
庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ

一方で、大坂町奉行所の不正、役人の不正などを訴える手紙を江戸の幕閣に送りました。

新任の西町奉行堀利堅が東町奉行跡部良弼に挨拶に来る2月19日を決起の日と定め、両名を襲撃し爆死させる計画でした。

しかし、決起直前の2月17日になって、門弟の一人の町目付平山助次郎が裏切り、奉行所へ決起計画と参加者を密告します。(なお、平山助次郎は取り調べを受けた後、自決しています)決起前に捕縛される恐れが出たため、彼は2月19日朝に自らの屋敷に火をかけて門弟たちと武装蜂起したのです。

彼は狷介孤高(けんかいここう)で短気な性格で、自分にも他人にも厳しい人だったそうです。義憤を感じ、陽明学の「知行合一」「致良知」の信念に殉じて私財も擲(なげう)って反乱を起こしたのでしょうが、幕府転覆まで出来るとは考えていなかったでしょう。

言わば赤穂義士と同様、「幕府に異議を申し立てる」という「捨て石」のつもりだったのでしょう。

江戸時代の三大改革と言われる「享保の改革」(1716年~1745年)、「寛政の改革」(1787年~1793年)、「天保の改革」(1841年~1843年)を行っても、幕府の綱紀粛正や財政立て直しは成し遂げられず、幕府の屋台骨は傾いていました。しかもこれらの改革は「幕府ファースト」の改革であり、「経世済民(世を治め民を救う)」の「済民」は置き去りにされたものでした。

(3)乱の鎮圧

農民らを含む大塩一党約300人は、「救民」の旗を掲げて三井呉服店や鴻池屋などの豪商を襲い、大砲や火矢を放ちましたが、いたずらに火災(大塩焼け)が大きくなっただけで、半日で鎮圧されました。天満を中心に大坂市中の5分の1が焼失し、当時の大坂の人口(約36万人)の5分の1に当たる7万人が焼け出されたそうです。「救民」を旗印に決起したにもかかわらず、民の苦しみを増す結果となったのは皮肉なことです。

大塩父子は逃亡し、大塩家出入り商人宅に1カ月半潜伏していましたが、密告によって幕府方に見つかり自決しています。

3.乱のその後

大塩平八郎の乱の後、「生田万の乱」や「能勢騒動」など同様の乱が全国各地で起きます。この後、幕府の権威はますます低下し、相対的に朝廷の権威が上昇していきます。

彼の思想は、のちに吉田松陰(1830年~1859年)や西郷隆盛(1828年~1877年)へと引き継がれます。

そして、欧米列強が日本を虎視眈々と狙う幕末に向かって行きます。

ペリー来航(1853年)以前にも、1843年にはイギリス軍艦サマラン号が八重山諸島に上陸して測量を行い、1844年にはフランス軍艦アルクメーヌ号が琉球に来航し、宣教師を残しています。1845年にはサマラン号が長崎に来航し、アメリカ捕鯨船が浦賀に来航して日本人漂流民を送還しています。

最終的に「倒幕」は、薩摩藩と長州藩を主体とした人々の組織的な「倒幕運動」によって多くの流血を伴いながら達成されました。

4.大塩平八郎の名言

(1)身の死するを恐れず、ただ心の死するを恐るるなり

(2)自分自身の本性を欺いて勝手に自己満足していても、いずれ人様に見抜かれてしまう。正義と私利、誠と偽りの境目をごまかして過ごしてはならない


評伝/ことば 大塩平八郎への道 (IZUMIBOOKS 20) [ 森田康夫 ]