鳥獣戯画を描いた鳥羽僧正や、北斎漫画の葛飾北斎は時代や洋の東西を超えた天才

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北斎漫画

私が小学生か中学生のころに、学校の先生が言ったのか学者か評論家が言っていたのか、あるいは新聞などのマスコミに書かれていたのか忘れましたが、「日本人は物真似は上手だが創造力に劣っている」という誤った意見をよく聞きました。

それは、アドルフ・ヒトラーの著書「我が闘争」における差別的な日本人観の受け売りなのか、あるいは戦後日本がアメリカなどの欧米生まれの電化製品や自動車を改良して元祖より優れた製品をどんどん安価で生産し販売したことへの欧米諸国の「やっかみ」や「偏見」をそのまま信じ込んだのでしょうか?

しかし、日本の絵画の歴史を少しでも見れば、そのような考えが誤りであることはすぐにわかります。

日本には世界に誇れる画家が沢山いますが、特に天才だと私が思う二人を今回はご紹介したいと思います。

1.鳥獣戯画と鳥羽僧正(覚猷)

鳥獣戯画2

鳥獣戯画3

京都の高山寺所蔵の「鳥獣戯画」(正式には「鳥獣人物戯画」)という墨絵の絵巻物があります。国宝で、「日本最古の漫画」とも称されます。甲・乙・丙・丁の4巻からなり、内容は当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描いたものです。

後白河法皇(1127年~1192年、天皇在位:1155年~1158年)が宮廷絵師の常磐光長らに描かせた「年中行事絵巻(ねんちゅうぎょうじえまき)」は鳥獣戯画と似た部分がありますので、これも後白河法皇が発注したのかもしれません。

年中行事絵巻2

年中行事絵巻

後白河法皇は楽しいことや面白いことが大好きな人物だったようで、「年中行事絵巻」は本来宮廷・公家における年間の儀式・祭事・法会・遊戯などを描くものですが、民間の風俗もふんだんに盛り込んでおり、生き生きとした庶民の姿も描かれており、鳥獣戯画に通じるものがあります。

この絵巻物の作者は「鳥羽僧正(覚猷)」と伝えられています。「覚猷(かくゆう)」(1053年~1140年)は、平安時代後期の天台僧で、普通は「鳥羽僧正」と呼ばれています。当時としては超高齢の87歳で亡くなっています。

彼は絵技にも長じ、「鳥獣戯画」の作者に擬せられています。ユニークでユーモア溢れる作風から「漫画の始祖」とされることもあります。

彼は園城寺で天台仏教・密教を修めながら、密教図像の集成と絵師の育成に大きな功績を残したほか、自身も画術研鑽に努めました。

彼の絵は、写実ではありませんがユーモア溢れる軽快で躍動感のあるタッチで、鳥獣の特徴をよく表しており、独創的なものです。しかも世相を「風刺」する批判精神に富んでいます。現代の「風刺漫画」に通じるものがあります。

彼の人柄は、笑いのセンスに長けた人物であるとともに、悪戯好きで無邪気な一面もあったようです。当時の仏教界や政治のあり方に批判的な目を持っており、権力の横暴に対する当てつけも含まれています。

ほかに「放屁合戦」や「陽物くらべ」も彼の作と伝えられています。

2.北斎漫画と葛飾北斎

北斎漫画2

北斎漫画3

葛飾北斎(1760年~1849年)の名前は、誰でも知っているでしょう。

「富嶽三十六景」は、切手の図案にもなっているので、ご覧になった方も多いと思います。その中でも特に有名な「神奈川沖浪裏」は、2024年に発行される新千円札の裏側のデザインに採用されることになりましたね。(表は北里柴三郎)

新千円札デザイン

彼は、謎の多い「型破り」な人物で、「改号(改名)」すること30回、「転居」すること93回に及び、画業においては合計3万点を超える膨大な作品群を残し、当時としては超長寿の88歳で亡くなりました。

彼には「富嶽三十六景」以外にも「北斎漫画」という一連の作品群があります。これは「絵手本」として発行されたスケッチ画集で、海外では「ホクサイ・スケッチ」と呼ばれています。

人物・風俗・動植物から妖怪変化まで約4000図が描かれています。彼はこの絵のことを「気の向くままに漫然と描いた画」と呼んでいました。

この「絵手本」の「北斎漫画」は国内で大好評だったばかりでなく、1830年代に磁器・陶器のヨーロッパへの輸出に際し、緩衝材として浮世絵などとともに偶然に渡り、フランスの印象派の画家クロード・モネ、ゴッホ、ゴーギャンなどに大きな影響を与えました。

鳥羽僧正と葛飾北斎は、時代や洋の東西を超えた、独創的で天才的な画家であったと私は思います。また二人とも当時としては超高齢の90歳近くまで長生きしたのは、死ぬまで画業に打ち込んでいたからではないかと思います。


鳥獣戯画を読みとく (調べる学習百科) [ 五味 文彦 ]


葛飾北斎伝 (岩波文庫) [ 飯島虚心 ]