戦国時代に日本人が奴隷に売られた話。多くの日本人がヨーロッパに売られた!

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ルイスフロイス

「奴隷」と言えば、古代オリエントや古代ギリシャ・ローマ時代の奴隷、および植民地時代の南北アメリカでアフリカ大陸から連れてこられた黒人奴隷のことが頭に浮かびます。

しかし戦国時代に、日本人が奴隷に売られた話があったのをご存じでしょうか?

今回はこれについて考えてみたいと思います。

1.戦国時代の日本人奴隷

日本の「戦国時代」(15世紀末~16世紀末)は、ヨーロッパの「大航海時代」(15世紀半ば~17世紀半ば)に当たります。「大航海時代」はヨーロッパ人が、アフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海を行い、発見した土地で略奪や搾取の限りを尽くした時代です。

ポルトガル人たちは、世界各地で現地人を捕らえては売り飛ばし、自国の植民地などで強制労働をさせる非人道的な「奴隷貿易」を行っていました。

織田信長に仕えた黒人侍の「弥助」も、元はアフリカのモザンビークから連れて来られた奴隷で、ヴァリニャーノというイエズス会の宣教師に連れられて来日しました。

(1)戦国時代の「乱取り」

NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」にも出てきましたが、戦国時代は、戦国大名同士の合戦や野盗(野武士)の襲撃などで、農作物は刈り取られ、田畑は踏み荒らされ、建物は焼き払われるなど農民や一般庶民を巻き込む惨禍が繰り返されました。

それだけでなく「乱妨取り」(略して「乱取り」)された人々は束にされて人身売買の商品とされました。

戦が終わると「人を売る市場」(人身売買)が出来るという話は、NHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」にもありました。

ヨーロッパの宣教師が来るまでは、売られる先がせいぜい隣村か隣国どまりだったため、親族たちが行方を捜し、身代金を支払って買い戻すこともしばしば行われたようです。

(2)ポルトガル人による日本人奴隷貿易

しかし、ヨーロッパの宣教師が来てからは、奴隷をヨーロッパや自国の植民地まで連れて行き、元値の百倍くらいで売り飛ばしたそうです。奴隷貿易の相手(奴隷の提供者)は、キリシタン大名たちです。彼らは鉄砲や火薬を手に入れるために奴隷貿易に手を染めていたのです。

1555年の教会の記録によると、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り、性的目的でポルトガルに連れ帰ったり、マカオやマニラなどの東南アジアで売りさばいたそうです。日本の女性奴隷は、日本と交易を行うポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫にも妾として売られていたそうです。

ポルトガルへの輸送の途上では、奴隷たちは縛られ、手錠・南京錠・首輪によってお互いにつなぎ合わされ、人間用の「焼き印」も用いられていたそうです。

(3)豊臣秀吉の「日本人奴隷禁止」と「バテレン追放令」

このような状況に激怒した豊臣秀吉は、ポルトガルのイエズス会宣教師コエリョに詰問状を出しています。ルイス・フロイスの「日本史」には次のように書かれています。

予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連(バテレン)は、現在までにインドその他遠隔の地に売られて行った全ての日本人を再び日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが、遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。

豊臣秀吉は、当初織田信長と同様にキリスト教容認の立場を取っていました。しかし九州平定後の1587年に「禁教令」(バテレン追放令)を出しています。

その理由としては、①九州で日本人の奴隷売買が行われていると知り、それを禁止させるため、②外交権、貿易権を自身に集中させ国家としての統制を図るため、③キリスト教徒による神社仏閣への迫害を防止するためなどが挙げられています。

なお豊臣秀吉は、1596年にも再び「禁教令」を出し、京都で活動していたフランシスコ会(一部イエズス会)の教徒たち26人を捕らえて処刑しています。

二度目の「禁教令」を出した理由としては、「サン=フェリペ号事件」(1596年)が挙げられています。この事件は、漂着したスペインのサン=フェリペ号の船員が、「スペイン国王は宣教師を世界に派遣し、布教と共に征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、その後その信徒を内応させ、兵力を以てこれを併呑するにある」と発言したことが大問題となった事件で、秀吉がキリスト教を大いに警戒するようになったものです。

(4)「天正遣欧少年使節」の手記

天正遣欧少年使節」とは、「1582年に九州のキリシタン大名である大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4人の少年を中心とする使節団」のことです。伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアンという4人の少年と宣教師たち一行は1582年に長崎を出発し、ゴア・リスボン・マドリードを経由して2年6カ月後にローマに到着しています。イスパニア国王フェリペ二世との謁見やローマ教皇グレゴリウス十三世との謁見も果たし、1590年に帰国しています。

この遣欧少年使節を発案したのは、ヴァリニャーノというイエズス会の宣教師です。彼は使節の目的を次のように述べています。

①ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に、日本宣教の経済的・精神的援助の依頼

②日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光・偉大さを少年たちに語らせることにより、布教に役立てること

4人の少年の中で、唯一キリスト教を捨てたのが千々石ミゲルです。彼は、ヨーロッパ訪問時に現地でこき使われる奴隷を見て、キリスト教への疑問を抱いたと言われています。帰国の数年後、彼は正式にイエズス会から退会します。その後、江戸時代になってから彼は親戚の大村喜前(よしあき)に藩士として仕えます。そして藩主に対し、「キリスト教は異国を侵略するために使われているから、離れたほうがよい」と進言し、主君の棄教を後押ししています。

「天正遣欧少年使節」の報告書(手記?)には、次のようなことも書かれているそうです。

「行く先々で日本女性がどこまで行っても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万人という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の枷をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガルの教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている」

16世紀後半には、ポルトガル本国や、アメリカ、メキシコ、アルゼンチンにまで日本人奴隷は売られるようになったそうで、「天正遣欧少年使節」一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃して驚愕したようです。

日本中世史が専門の神田千里氏は「戦国と宗教」の中で、次のように述べています。

イエズス会宣教師の来日は、ポルトガル王室の海外進出政策によるものであった。ローマ教会はポルトガル・イスパニア両王室に、「異教徒」世界への宣教を援助する代わりに、現地での植民地経営のため、航海・征服・領有・貿易などを行う権限を認めた。

2.「奴隷」について

(1)奴隷とは

「奴隷」(slave)とは、「人格としての権利と自由を持たず、主人の所有物として、主人の支配下で強制・無償労働を行い、また商品として売買・譲渡の対象とされる『もの言う道具』としての人間」のことです。

(2)奴隷の発生源

奴隷は、家事労働だけでなく、鉱山・工業・農業・商業の労働者としても使用され、女奴隷は売春宿の要員にもなりました。

奴隷は、戦争などによる捕虜、あるいは暴力によって連行されたり、犯罪、債務不履行の懲罰、両親・保護者・部族の首長による売却、奴隷の両親からの出生などによって生まれました。

(2)古代ギリシャ・ローマ時代

奴隷の人格否認が最も徹底していたのが古代ギリシャ・ローマ時代で、ギリシャでは奴隷は「生きた道具」とされ、ローマでは「話す道具」とされました。アリストテレスは「生命ある道具」として奴隷制度を擁護し、ソフィストの奴隷制度批判に反論しています。

古代ローマでは、5万人を収容できる「コロッセオ」で皇帝が「奴隷の人間」と「ライオン」を闘わせ、それを貴族から貧民に至るまで熱狂的に見物していたことは有名です。

(3)近世・近代

16世紀から19世紀にかけて、「奴隷貿易」によってアフリカ諸地域から輸出された黒人奴隷が、主に南北アメリカ大陸で「プランテーション農業」などに無償で従事させられました。

「奴隷貿易」に参加した国は、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリス(アメリカの植民地州を含む)・フランス・デンマーク・スウェーデン・アメリカなどの国々です。16世紀から19世紀までの累計で約1100万人が奴隷として売買されました。

アメリカ合衆国では、南北戦争時代にリンカーン大統領の「奴隷解放宣言」(1863年)によって「奴隷制度」は廃止されました。


大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ (中公叢書) [ ルシオ・デ・ソウザ ]


戦国と宗教 (岩波新書) [ 神田千里 ]

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