「天正遣欧少年使節」の4人の少年の帰国後の人生はどのようなものだったのか?

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遣欧使節

前に「戦国時代の日本人奴隷」の記事を書き、その中で「天正遣欧少年使節」に少し触れましたが、この少年4人がその後どうなったのか気になります。

そこで、今回はこれについて考えてみたいと思います。

1.「天正遣欧少年使節」とは

「天正遣欧少年使節」とは、「1582年に九州のキリシタン大名である大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4人の少年を中心とする使節団」のことです。伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアンという4人の少年と宣教師たち一行は1582年に長崎を出発し、ゴア・リスボン・マドリードを経由して2年6カ月後にローマに到着しています。イスパニア国王フェリペ二世やローマ教皇グレゴリウス十三世との謁見も果たし、1590年に帰国しています。

「天正遣欧少年使節」が持ち帰った西洋の文物は、「活版印刷機」「西洋楽器」「海図」でした。

2.4人の少年使節の生い立ちと帰国後の人生

(1)伊東マンショ

伊東マンショ

①生い立ち

伊東マンショ(1569年?~1612年)は、「天正遣欧少年使節」の「主席正使」です。

父親は日向伊東氏10代目の伊東義祐に仕えた侍大将の伊東祐青で、母親は伊東義祐の娘「町の上」です。マンショが生まれた頃は伊東氏が宮崎県のほぼ全域を統治していました。

しかし1577年に薩摩島津軍に攻められ、伊東祐青も戦死したため、遠縁に当たる大友宗麟の支援を受けるべく、豊後(大分県)に逃れます。

切支丹大名の大友宗麟は南蛮貿易に力を入れていたため、豊後の町には教会が建ち、外国人商人や宣教師が行きかっていました。1580年に彼は南島原・有馬のセミナリオ(初等神学校)に入学します。

②遣欧使節としての欧州歴訪

ちょうどその頃、宣教師ヴァリニャーノが、「少年使節派遣計画」を立てていたので、大友宗麟の親戚である彼が「正使」に抜擢されたのです。

彼は2年半かけてたどり着いたヨーロッパで「正使」として華々しい活躍をします。マドリードで行われた国王フェリペ2世との謁見や、ローマ教皇グレゴリウス13世との謁見でも、彼が日本語で挨拶しています。また、イタリアでは「社交界デビュー」も果たします。

③帰国後の人生

1590年に帰国した彼らは、1591年に聚楽第で豊臣秀吉と謁見しています。秀吉は彼らを気に入り、マンショには特に強く仕官を勧めましたが、司祭になることを決めていたため、それを断っています。

1587年の豊臣秀吉による「バテレン追放令」で、先行き不安が広がり始めていましたが、司祭叙階を目指して天草の修道院に入り、コレジオに進んで勉学に励んでいます。

1593年には他の3人とともに「イエズス会」に入会しています。

1601年には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオに移っています。なおこの時点で千々石ミゲルはイエズス会を退会しています。

そして、1608年には伊東マンショ・原マルチノ・中浦ジュリアンの3人はそろって「司祭」に叙階されています。

彼はキリスト教弾圧の嵐が吹き荒れる中、小倉を拠点に萩・山口・日向・下関で精力的に布教活動をしていましたが、1611年に領主細川忠興によって追放されて中津に移り、さらに追われて長崎へ移り、長崎のコレジオで教えていましたが、1612年に病死しています。

少年使節の正使としての華々しい活躍に比べて、後半生は不運に見舞われた人生でした。

(2)千々石ミゲル

千々石ミゲル

①生い立ち

千々石(ちぢわ)ミゲル(1569年?~1633年)は、「天正遣欧少年使節」の「次席正使」です。彼も伊東マンショと同じように、有馬のセミナリオ(初等神学校)で学んでいます。

彼は切支丹大名大村純忠の甥で、有馬晴信の従弟でもあります。本名は千々石清左衛門です。

②遣欧使節としての欧州歴訪

4人の少年の中で、唯一キリスト教を捨てたのが千々石ミゲルです。彼は、ヨーロッパ訪問時に現地でこき使われる奴隷を見て、キリスト教への疑問を抱いたと言われています。

エドウアルド・サンデの「日本使節羅馬教皇廷派遣及欧羅巴及前歴程見聞対話録」によると、少年使節の間で次のようなことについて議論があったようです。

まず問題になったのは、ヨーロッパの国家間で戦争が起こって捕虜になるか降参した場合、どのような扱いを受けるのか、死刑もしくは苦役に従事させられるのかということです。これは海外の日本人奴隷が念頭にあったと思われます。

千々石ミゲルが次のように答えています。

・捕虜、降参人とも死刑や苦役に従事させられることはない

・捕虜は釈放、捕虜同士の交換または金銭の授受によって解放される

ただし、キリスト教の敵である「野蛮人」の異教徒については別で、彼らは賤役に従わなければならないということでした。彼らはキリスト教徒が奴隷にならないと聞いてほっとしたかもしれません。

それに続けて、彼は次のような感想を述べています。

「日本人は欲と金銭への執着が甚だしく、互いに身を売って日本の名に汚名を着せている。ポルトガル人やヨーロッパ人は、そのことを不思議に思っている。その上、我々が旅行先で奴隷に身を落とした日本人を見ると、道義を一切忘れて、血と言語を同じくする日本人を家畜や駄獣のように安い値で手放しているわが民族に激しい怒りを覚えざるを得なかった。」

彼の言葉に同意したのは伊東マンショでした。

原マルチノは千々石ミゲルの言葉に同意しつつも、次のような感想を述べています。

「ただ日本人がポルトガル人に売られるだけではない。それだけならまだしも我慢できる。というのも、ポルトガル人は奴隷に対して慈悲深く親切であり、彼ら(奴隷となった日本人)にキリスト教の戒律を教え込んでくれるからだ。しかし、日本人奴隷が偽の宗教を信奉する劣等な民族が住む国で、野蛮な色の黒い人間の間で奴隷の務めをするのはもとより、虚偽の迷妄を吹き込まれるのは忍びがたいものがある。」

これらの会話を見ると、彼らは不道徳な日本人の考え方を嫌い、キリスト教の教えを信じてポルトガル商人やイエズス会寄りの発言をしているということです。

しかし、千々石ミゲルだけは、今一つ納得できないスッキリしない気持ちを持ち続けていたようです。欧州見聞の際に、キリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を持ち、欧州滞在時からキリスト教への疑問を持ち始めていたのでしょう。

③帰国後の人生

1593年には他の3人とともに「イエズス会」に入会していますが、数年後には正式にイエズス会から退会します。

その後、江戸時代になってから彼は親戚の大村喜前(よしあき)(1569年~1616年)に藩士として仕えます。そして藩主に対し、「キリスト教は異国を侵略するために使われているから、離れたほうがよい」と進言し、主君の棄教を後押ししています。

なお、大村喜前は、1602年に棄教していますが、1616年に迫害を恨んだキリスト教徒によって毒殺されています。

千々石ミゲルは、1606年の大村喜前によるキリシタン追放の際に棄教していますが、弾圧を受けて大村から有馬に移り、さらに1620年には「異教徒」として長崎に住んでいましたが、その後の消息は不明です。

棄教したと言っても、本当に棄教したのかどうか疑われて弾圧・迫害を受けたのかもしれません。また、親キリシタン派からは裏切り者として命を狙われ続けたのかもしれません。

使節の一人としての華々しい夢は破れ、不遇な晩年だったようです。

(3)原マルチノ

原マルチノ

①生い立ち

原マルチノ(1569年?~1629年)は、「天正遣欧少年使節」の「副使」です。彼は肥前国出身で、大村領の名士原中務の子です。

両親がキリスト教徒で、司祭を志し、有馬のセミナリオに入ります。

②帰国後の人生

彼はラテン語が得意で、布教活動のかたわら、洋書の翻訳・出版活動にも携わっています。

1614年、江戸幕府のよる「キリシタン追放令」を受けて、彼は海外に活路を見出そうとマカオに渡り、マカオでも日本語書籍の印刷・出版を行いますが、1629年に同地で死去しています。

(4)中浦ジュリアン

中浦ジュリアン

①生い立ち

中浦ジュリアン(1568年?~1633年)は、「天正遣欧少年使節」の「副使」です。彼は肥前国中浦の領主中浦甚五郎の子です。

彼も司祭を志し、有馬のセミナリオで学んでいます。

②帰国後の人生

1608年に司祭に叙階された後は、博多で活動していましたが、1613年に黒田長政がキリシタン弾圧に乗り出したため、そこを追われて長崎に戻ります。

1614年の江戸幕府による「キリシタン追放令」発布時には、殉教覚悟で地下に潜伏する道を選び、九州を回りながら迫害に苦しむキリシタンを慰めていました。

彼は国外逃亡はせず、二十数年間にわたって潜伏生活を送ります。しかし1632年に小倉で捕らえられ、翌年に激しい拷問刑を受けて亡くなっています。

他の3人も帰国後の人生は苦難に満ちたものでしたが、彼の後半生が最も艱難辛苦が多く、一番悲惨な最期を遂げたと言えます。

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