織田信長の遺体はどこへ消えたのか?本能寺の変のもう一つのミステリーに迫る!

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本能寺の変

1.大河ドラマ「麒麟がくる」の注目点

今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、高視聴率の滑り出しです。池端俊策の脚本がよくて分かりやすいことと、市川海老蔵のナレーションも聞きやすく、字幕での時代説明も親切で好感が持てます。

ただ俳優陣の多くが「総じてセリフが早口で、かつ滑舌が悪い」ため、何と言っているのか聞き取りにくい(これは私だけ?)点が少し気になります。ただし細川藤孝の兄役の谷原章介や、光秀の母役の石川さゆりのセリフ回しはゆっくりかつ明瞭で大変聞きやすいです。私は「耳が遠い」のだと諦めて、リモコンの「字幕」ボタンを押して「台本」を目で追って見ています。

閑話休題、「本能寺の変」(1582年6月2日)には、「明智光秀の謀反の動機」や「羽柴秀吉や徳川家康、朝廷などの黒幕が別にいたのではないか」といった謎もありますが、「織田信長の遺体が発見されていないのはなぜか」というのも大きな謎です。

この「麒麟がくる」で、「織田信長の最期がどのように描かれるのか?」が私の大きな関心事の一つです。従来通りの「幸若舞の敦盛を舞いながら炎の中で自害する」、あるいは「炎の中を去っていく」形になるのか、新説の描き方をするのか注目したいところです。

2.織田信長の遺体の行方

(1)明智光秀による懸命の捜索

敵の本命である織田信長の遺体が見つからなければ、「赤穂浪士の討ち入りで吉良上野介を見つけられずに夜が明けた」ような失態になります。

信長の首級を挙げなければ、本当に殺害された(あるいは自害した)のか証明できませんので、「信長が死んだというのは本当なのか?」という疑念を持たれたり、「実はどこかでまだ生きている」という噂(実際に羽柴秀吉は「信長様は生きているので、ともに光秀を討とう」と信長の遺臣らに手紙で呼びかけ、この噂を意図的に流しています)まで出てしまいます。

袋の鼠になったはずの織田信長の遺体が見つからないはずはありません。イリュージョンで天に上るわけはあるまいし、逃げる場所はないはずです。しかし、明智光秀の軍勢による懸命の捜索にも拘わらず、遺体は発見されませんでした。

このことが、明智光秀が畿内の諸将の協力を得られないまま、羽柴秀吉の「中国大返し」によって追い詰められ、殺害されて反乱が失敗に終わる一因となりました。

これが「本能寺の変」の最初のつまづきのように思います。

ちなみに、明智光秀を「山崎の戦い」(1582年6月13日)で破った羽柴秀吉も、信長の遺体を探させましたが見つからなかったそうです。そこで秀吉は同年10月に大徳寺で行った信長の葬儀では、等身大の木像を作らせた上でこれを焼き、遺灰の代わりとして骨壺に入れたそうです。

(2)当時の記録

①太田牛一の「信長公記(しんちょうこうき)」

「信長公記」は織田信長の旧臣で、豊臣秀吉・秀次・秀頼や徳川家康の軍記・伝記の作者でもある太田牛一(1527年~1613年)による「信長一代記」です。これが従来からの通説となっているものです。

信長は外の騒ぎを最初は下々の喧嘩と軽く考えていましたが、軍勢が乱入して来るに及んで小姓の森蘭丸から「明智光秀の謀反」だと知らされます。彼は「是非に及ばず」と言って、最初弓で応戦しますが弓の弦(つる)が切れたため槍に持ち替えて戦います。しかし肘(ひじ)に槍傷を受けたため建物の中に入り、付き添いの女たちを本能寺から逃げさせます。すでに御殿には火がかけられて燃え迫って来ます。彼は敵に最期の姿を見せまいと思ったのか奥に入って部屋の戸を閉め、切腹して果てたというものです。

②ルイス・フロイスの「日本史」

ルイス・フロイス(1532年~1597年)はイエズス会の宣教師で、織田信長とは18回も会見しています。

本能寺に侵入した明智勢は、手と顔を洗い終え手拭いで体を拭いている織田信長を発見したので、直ちにその背中に矢を放った。彼はその矢を引き抜いて長槍のような長い刀を手にして出て来た。

そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると自らの部屋に入り、戸を閉じそこで切腹した。また他の者の話では、信長はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。

火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだかは判っていない。

しかしこれは、あくまでもルイス・フロイスが「本能寺の近くにあった南蛮寺のイエズス会宣教師から聞いた話」が元になっています。

③小瀬甫庵の「甫庵信長記」

御首を求めけれどもさらに見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も其の恐れはなはだしく、士卒に命じて事の外尋ねさせけれども何とかならせ給ひけん。骸骨と思しきさえへ見えざりつるとなり。

④本能寺の近くにある阿弥陀寺の「信長公阿弥陀寺由緒之記録」

阿弥陀寺の住職・清玉上人が、僧侶20人ばかりを連れて本能寺に駆けつけ、敷地の裏の藪の中で織田方の兵が信長の遺体を焼いていたので、事情を話し頼んで骨をもらい受けた。

ちなみにこの阿弥陀寺には、織田信長・織田信忠、森蘭丸・坊丸・力丸の三兄弟、猪子兵助ら12名の家臣の墓があります。本堂には織田信長と信忠の木像もあり、本能寺の変との深い関りを思わせます。

(3)様々な推理

①誰かが持ち去り埋葬した

・かねてから信長と親交のあった京都阿弥陀寺の僧である清玉が遺骨を持ち去り埋葬した

これは上に述べた「信長公阿弥陀寺由緒之記録」にある話です。

・駿河国の日蓮宗の寺院西山本門寺の日順上人の父原宗安が遺骨を持ち去った

これは、本能寺の変の前夜に、本能寺で日海上人と鹿塩利賢との囲碁の対局があり、原宗安は日海上人に随行していて、日海上人から信長の遺骨を託され、本門寺に埋葬したというものです。

②本能寺の隣にあった「南蛮寺に通じる抜け穴」から逃げたが窒息死した

「南蛮寺に通じる抜け穴があった」というのは、加藤廣の「信長の棺」に描かれています。しかしこの抜け穴が何者かによって出口が塞がれていたため、信長は煙で窒息死したという話です。

もともと南蛮寺のイエズス会宣教師が、比叡山などからの攻撃に備えて避難するための抜け穴を作る許可を信長に求め、許可されます。抜け穴の出口は、南蛮寺のすぐ近くの寂れた小さい「本能寺」でした。

抜け穴の土木工事は信長の家臣の秀吉に任され、秀吉は土木工事の得意な前野将右衛門に工事をさせます。抜け穴は本能寺の空井戸に通じるようになっていました。

信長としては、たとえ敵の攻撃や謀反があっても「抜け穴がある」と安心していたのでしょう。しかし、「本能寺の変」の数日前に南蛮寺への出口が何者かによって壁で封鎖されていたのです。そのため、抜け穴に逃げ込んだ信長や森蘭丸らは出られなくなって窒息死したというわけです。

秀吉は諜報活動が巧みで、光秀の動向も逐一報告させていました。その結果、中国攻めの援軍をすぐに出発させず、愛宕神社で連歌会などを開いている光秀の不審な動きを察知し、「謀反の動き」を悟り、部下に命じてすばやく南蛮寺側の出口を封鎖させたのです。

これは信長の逃げ道を封じることで、その意図は明らかです。

そして、阿弥陀寺から駆け付けた清玉上人が、明智光秀の見張りの家臣に見つからないように夜陰に紛れて人足を使って封鎖された壁を取り除き、信長らの遺体を搬出して阿弥陀寺に埋葬したという推理です。

③羽柴秀吉に捕らえられて謀殺された

これはどこで読んだのか忘れましたが、「羽柴秀吉黒幕説」に関連した推理だったと思います。少し荒唐無稽な気もします。ただ、羽柴秀吉の「中国大返し」が、「本能寺の変」が起きるのを予め知っていたかのようでいかにも不自然なことや、彼が本能寺の変をうまく利用して天下を取ったことを考えると、まったくあり得ない話でもなさそうです。

上の②に挙げた加藤廣の仮説も「羽柴秀吉による明智光秀を使った間接的な謀殺」という考え方と思われるからです。


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