「永井荷風」は女好きのお金持ち作家で奇人?不思議な文豪の本当の姿を探る!

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永井荷風と女

最近ネットサーフィンしていると、「永井荷風文アル」という不思議なワードに出会いました。これはDMMの女性向け文豪転生ゲーム「文豪とアルケミスト」の略で、「近代文学史を彩った文豪たちが登場する文豪転生シミュレーションゲーム」だそうです。「アルケミスト(alchemist)」とは「錬金術師」のことです。これは今の若い世代が永井荷風と出会うきっかけとなっているゲームのようです。

閑話休題、以前に「散歩の効用」の記事で永井荷風を紹介しましたが、今回は彼についてもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

1.永井荷風とは

永井荷風(1879年~1959年)は東京生まれで、明治・大正・昭和期の小説家・随筆家です。本名は永井壮吉、別号が「断腸亭主人」です。1952年には文化勲章を受章しました。

父親の久一郎は、プリンストン大学やボストン大学への留学経験もあるエリート官僚で内務省衛生局に勤務しており、後に日本郵船に天下りしています。

荷風は芝居好きな母親の影響で、歌舞伎や邦楽に親しむとともに、漢学や日本画、書も習っています。

1894年から1年間病気で中学を休学した時に、「水滸伝」や「八犬伝」「東海道中膝栗毛」などの伝奇小説や江戸戯作文学を耽読したそうです。これが後の文学活動への「充電期間」となりました。

1897年中学を卒業して旧制一高を受験しますが失敗します。同年9月に家族で上海旅行をしたときに書いた「上海紀行」が処女作です。1897年新設の東京外語に入学しますが、1899年に中退しています。

1898年広津柳浪に入門し、習作のかたわら、清元・尺八・落語の稽古をし、また福地桜痴に師事して歌舞伎作者の修業もしています。1900年、歌舞伎座に座付作者として入ります。このころまでは「江戸趣味」に徹しています。

1901年、暁星中学の夜学でフランス語を習い始め、エミール・ゾラの「大地」他の英訳を読んで傾倒しています。1902年に書いた「地獄の花」は、森鴎外に絶賛されています。

1903年、父の意向で実業を学ぶため渡米し、1907年までニューヨークやワシントンなどでフランス語を修めるかたわら、日本大使館や横浜正金銀行にも勤めています。しかし、銀行務めとアメリカになじめず、父親のコネを使ってフランスに渡り、詩人・評論家の上田敏とも交流を持ちます。

1908年に「あめりか物語」を発表します。1909年には「ふらんす物語」「歓楽」を書いていますが、「風俗壊乱」の理由で「発禁処分」を受けています。しかし1909年には夏目漱石の依頼で東京朝日新聞に「冷笑」を連載し、その他「新帰朝者日記」「深川の唄」などを発表して新進作家として注目されるようになります。

1910年には森鴎外と上田敏の推薦で慶応大学教授となり「三田文学」を創刊するなどマルチな活躍をしています。

慶応大学での講義は「フランス語」と「仏文学評論」が主でしたが、学生に大変評判が良かったそうです。佐藤春夫は、「講義は面白かった。それ以上に雑談が面白かった」と述べています。

夏目漱石の東大での「文学論」「文学評論」の講義が学生に不評だったのと対照的です。漱石の講義は、内容が分析的な硬い内容で学生には難解だったのが原因かもしれません。漱石の前任者のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の講義が荷風のように好評だったことの反動だったかもしれません。ただ、漱石が東大講師を辞めて小説家になったおかげで、我々は「文豪夏目漱石」を知ることができて幸運だったと思います。

「断腸亭日乗」は、荷風が発表を前提に書いた日記で、1917年9月16日から死の前日の1959年4月29日まで、激動期の世相とそれに対する批判を詩人の季節感とともに綴っています。なお「断腸亭」という名前は、彼が持病で腸を病んでいたことと、「秋海棠」(別名が「断腸花」)という花が好きだったことが由来です。

断腸花

彼は戦前まで、父親の遺産の株式の配当や預金の利息で生活し、お金を稼ぐこととは無縁の放蕩生活を送っていたようです。

2.ペンネームの由来

前に「面白いペンネームの由来」の記事を書きましたが、「荷風」というのも変わっていますね。

1894年に病気で中学を一時休学し、東大病院に入院していた頃、恋心を寄せた看護婦の名前お蓮」にちなんで、「荷風」という雅号を用いるようになったのが由来です。

蓮荷(れんか)」という言葉があるように、「にはハスという意味もあるのです。

「カフエ」をもじったわけではありません。

3.女性は自分を豊かにする存在

彼の初期の作品はエミール・ゾラの影響で、「自然の事実を観察して真実を追求し、ドラマチックに美化した描写を否定する」自然主義的手法を取っていましたが、やがて「美」に芸術性を見出します。「美」には単に「美しい物」だけでなく、「愛」や「肉体」も含まれます。

彼は華やかな大学教授職の一方で、芸妓との交情を続けていました。

美を重視する「耽美文学」は、後に彼が才能を見出した谷崎潤一郎の文学に引き継がれます。

永井荷風は「女好きな性格」ですが、彼にとって女性は「家庭にあって自分の生活をサポートしてくれる存在」ではなく、「人生を豊かにしてくれる存在」であったようです。

彼は家庭で一人の女性である妻に束縛されるのには耐えられない自由奔放な「自由恋愛主義者」だったようです。

そのため、結婚には不向きで2度の離婚を経験した後は独身を通しています。なお、二度目に結婚したのは、新橋の芸妓八重次でした。彼女(後の「藤蔭静樹」)は日本舞踊「藤蔭流」の創始者で、文化功労者にもなっています。彼は彼女を芸術家として尊敬していましたが、価値観の違いから離婚したようです。

彼が付き合った女性の人数は数えきれないほどで、「断腸亭日乗」によれば、主な女性だけでも16人はいたそうです。

1926年頃から、銀座のカフエ(喫茶店ではなく、「女給」のいる店)に出入りするようになります。

戦後は、浅草のストリップ小屋に入り浸っていることが多かったようです。「元祖瘋癲(不良)老人」といったところでしょうか?「香囲粉陣」でご満悦の写真が何枚もあります。

永井荷風を取り巻く女

彼は60歳を過ぎてから浅草通いに熱中し、玉の井、新小岩などの私娼窟にも足しげく通っています。彼は「人生に三楽あり、一に読書、二に好色、三に飲酒」と日記に記しています。

4.数々の奇行・奇人ぶり

彼は反骨精神の持ち主であるとともに、徹底した人間嫌い・付き合い嫌いで、自ら奇人であることを認めて「偏奇館主人」と称していました。これは1920年に新築した木造洋風二階建ての自宅が、「ペンキ塗りの洋館」であったことと、自らが「屈・人」であることをかけて命名したものです。

彼はそれまでの「江戸趣味の和服や浴衣を脱ぎ捨てて洋服へ」、「畳から椅子へ」と生活様式を一変させます。自らを「逸民」(世を逃れて暮らす人)と称して、世間との交わりを断ちます。

(1)いつも全財産をカバンに入れて持ち歩く

彼は生まれも育ちも東京で、「浅草」をこよなく愛し、毎日のように通っていたそうです。永代橋、深川などの隅田川周辺、三ノ輪、小塚原なども「断腸亭日乗」によく出てきます。

「濹東綺譚」は、隅田川の向こう側の私娼街「玉の井」を舞台にしています。

彼は散歩を好みましたが、外出する時は必ずカバンに権利書や預金通帳、小切手、現金など大事な全財産を入れて持ち歩いていたそうです。なお、印鑑は自宅に秘蔵しており、小切手は「横線小切手」だったので、盗難に遭っても銀行に届け出れば安全でした。

1954年75歳の時、帰宅途中に、電車にその大事なカバンを置き忘れた(あるいはスリに取られた?)ことがあります。幸い、在日米軍兵士が拾って警察に届けてくれたおかげで助かったのですが、彼がその時米兵に払った謝礼が当時のお金で5千円だったそうです。預金通帳の残高は15百万円もあり、他に文化勲章の年金50万円の小切手、450万円相当の小切手があり、総額20百万円くらいあったそうです。今のお金にすれば5億円くらいに相当する金額だそうです。カバンの中身にかかわらず、落とし物を拾った謝礼としてはその程度で十分という考えだったのでしょう。

この事件の結果、彼が大金を持っていることがわかってしまい、「借金の依頼」や「保険の勧誘」が殺到し、女性からの「再婚申し込み」も相次いだそうです。

(2)無賃乗車の常習犯

1945年彼が66歳の頃から、奇行は一層ひどくなり、「無賃乗車」を繰り返していたようです。乗る時は発車間際まで待って、切符を買わずに改札口を走って飛び乗り、降りる時もホームの便所に入って、駅員が交代するスキを見計らって改札口をさっと出る手口で、それを訪問客に自慢していたとのことです。

(3)猫を蹴飛ばす(動物虐待?)

ある時、彼が猫を蹴飛ばしているのを見て、飼い主が怒ります。

「そんなことをすると、猫が死にます」

「いや、大丈夫。この前も蹴飛ばしたことがあったが、こうして生きているじゃないか?」と澄ました顔で答えたそうです。

(4)なじみの店の同じ席で同じメニューを注文

雨が降ろうと、雪になろうと、毎日必ず正午になると、銀座松屋前のレストラン「アリゾナ」に姿を現したそうです。彼の「指定席」は決まっていて、この席に他の客が座っていると、他の席がガラガラでも、「今日はいっぱいだから帰ります」と言って引き揚げたそうです。いつも同じメニューで、それ以外は一切注文しなかったそうです。

浅草雷門近くの蕎麦屋「尾張屋」にもよく通ったそうです。この店は「天ぷらそば」が名物でしたが、彼は決まって「かしわ南蛮」を注文し、座る席も決まっていたそうです。そこに他の客が座っていると、蕎麦をすすっている真上で、「ごほん、ごほん」と大きな咳払いを何度か繰り返し、お客がたまらず席を替わると、彼は知らん顔でその席に座ったそうです。

市川市に引っ越してからは、毎日馴染みの「大黒家」でかつ丼を食べるのが楽しみだったようです。ここでも、毎回同じものを注文したそうです。

亡くなる前日も「大黒家」でかつ丼を食べたそうです。彼は今でいう「孤独死」でしたが、胃腸の持病があったとはいえ、「ピンピンコロリ」を実践した人でした。

(5)徹底した倹約ぶり

昭和20年代は「荷風ブーム」となり、彼は次々に作品を発表して原稿料・印税もたくさん入るようになります。最高28百万円の銀行預金があったそうです。

しかし、煙草の「光」を二つに折ってキセルに入れて吸い、部屋の中でも裸電球を1つしかつけていませんでした。たまに客があると、居間からその電球を外してきて使っていたそうです。

彼は自らの「倹約精神」について、次のように解説しています。

ぼくがお金をためているって、ケチだとかなんとか、言っているそうですが、ぼくがお金をためているからこそ、戦時中、10年間1枚もの原稿も売れず、一文の印税収入もない時代、僕は他人に頭1つ下げないで、思い通りの生活ができました。
いまは平和です。平和の声の裏には戦争がありません。それは紙一重のものなんですよ。だから、作品が売れる時は、売れるだけの貯金をしておきます。人間の一生には浮き沈みということがあります。

5.孤独を創造力の源泉にした作家

彼は「個人主義者」で、社会のやり方に縛られることを嫌ったようです。「発禁処分」を受けたりして社会からの疎外・孤独を味わいますが、「悲哀寂寥とは尽きることのない情である」と述べているように、孤独を創造力の源泉にした作家でした。

普通、「孤独」というとマイナスイメージで捉えられがちですが、彼のようにプラスに転じた作家もいたということですね。

6.荷風に学ぶ!長生きする老後生活3か条

NHKBSプレミアムの「偉人たちの健康診断」という番組で、永井荷風を取り上げた時、「荷風に学ぶ!長生きする老後生活3か条」が紹介されていました。皆さんもぜひ参考にしてください。

第1条 老後は「キョウイク」と「キョウヨウ」が大事

これは「教育」と「教養」という意味ではなく、「今日行く」と「今日用」のことです。

「今日行くところ」があり、「今日する用事」があることが大切だというわけです。

第2条 行きつけの店を持つ

彼は散歩を好み、行きつけのお店に行くのを楽しみにしていました。

常連の店や馴染みの店があると、孤独でもそこを「自分の居場所」にできるというわけです。

第3条 お金はあっても節約

彼は当時売れっ子作家でお金持ちでしたが、決して吝嗇(けち)ではありません。大金の入ったカバンを落とした時の拾った人への「お礼の金額」はわずかでしたが、女性との交際など自分が好きなヒト・コト・モノに対しては惜しみなくお金を使ったようです。

イエスキリストの教えに「倹約家は繁栄し、ケチは滅びる」(超訳)という言葉があるそうです。

「倹約家」とは、「死に金」には1円たりとも使わない人間のこと。しかし、その反対に「生き金」には惜しげもなくお金を使う人間のことです。

「ケチ」とは「死に金」「生き金」ともに使えない人間のこと。つまり、前者は「金を支配している」が、後者は「金に支配されている」ということです。

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