忠臣蔵に登場する人物は大石内蔵助を筆頭に人間の生き方についての示唆に富む!

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赤穂浪士

私は「忠臣蔵」の物語は今の若い人にはあまり人気がないのではないかと思っていました。

しかし2019年11月下旬には「決算!忠臣蔵」(主演:堤真一、岡村隆史)というコメディータッチの映画が封切られ、そこそこ評判も良かったようなので、いろいろと「切り口」を変えて新味を出せばまだまだ根強い人気があることがわかりました。ちなみにこの映画の原作は、おカネの面から忠臣蔵を見た山本博文東京大学史料編纂所教授の「『忠臣蔵』の決算書」です。

1.「忠臣蔵」の絵本

私は子供の頃、明治20年代に建てられた古い京町家に住んでいました。そのため、大正時代頃の子供向けの「忠臣蔵」の絵本が残っていました。紐で綴じた和綴じのかなり分厚い本で、忠臣蔵の名場面が錦絵風・武者絵風の挿絵で描かれていました。

討ち入り

2.「忠臣蔵」の映画・テレビ

かつては毎年12月には「忠臣蔵」の映画やテレビ放送があったように思います。私が特に印象に残っているのは、1958年の映画「忠臣蔵」(主演:長谷川一夫)、1964年のNHK大河ドラマ「赤穂浪士」(主演:長谷川一夫)と、1985年の日本テレビ「年末時代劇スペシャル忠臣蔵」(主演:里見浩太朗)です。

3.忠臣蔵にまつわる人々の生き方

忠臣蔵は、浄瑠璃・歌舞伎・講談・映画・テレビ・小説などで多くの作品が作られています。実際に起こった事件を題材にしているとは言え、ドラマチックにするために史実とは異なる誇張・脚色を施したり、人情噺にするために逸話を創作したりしています。当時の江戸庶民もそうだったと思いますが、日本人の「判官びいき」から、吉良を特に悪者に描いています。

そのせいか子供の頃は、四十七士による吉良上野介(きらこうずけのすけ)に対する勧善懲悪的な「仇討ち」と単純に考えていました。しかし、時代とともに忠臣蔵も様々の異なった視点で描かれるようになり、バラエティーに富む作品が生まれました。

私も大人になるにつれて、四十七士以外の討ち入りに参加しなかった「不忠臣」と呼ばれる大野九郎兵衛や、敵役の吉良上野介の生き方についても考えるようになりました。

中でも、大石内蔵助の生き方について特に興味を持つようになりました。

4.大石内蔵助の生き方

(1)大石内蔵助とは

大石内蔵助(くらのすけ)は通称で、本名は大石良雄(よしお/よしたか)(1659年~1703年)です。赤穂藩浅野家の国家老(城代家老)で、赤穂で山鹿素行に軍学を学び、京都で伊藤仁斎から儒学を学んでいます。「赤穂事件」は「武士道の鑑」と言われ、彼は「指導者の理想像」と言われたこともあります。

父が34歳の若さで亡くなったため、祖父良欽(よしかね)の養子となりますが、彼が19歳の時に良欽が亡くなり、21歳で筆頭家老となっています。

しかし平時の彼は凡庸な人物だったようで「昼行燈」とあだ名されていました。彼とは反対に老練で財務に長けた家老大野九郎兵衛(生没年不詳)が、実質的に藩政を担っていたようです。

(2)「松の廊下の刃傷事件」後の残務処理

主君である浅野内匠頭(たくみのかみ)(1667年~1701年)は1701年3月14日に「松の廊下の刃傷事件」を起こした罪で「即日切腹」となり、「赤穂藩改易(お家断絶)」が決まりました。一方、吉良上野介には「お咎めなし」で、これは「喧嘩両成敗」に反する処置でした。

江戸からの急報を受けて3月27日、彼はまず総登城の号令をかけ、3日間にわたって評定を行います。幕府の処置に不満で徹底抗戦を主張する「籠城派」と「城明け渡し」を主張する「恭順派」に分かれて議論は紛糾します。4月12日には恭順派の大野九郎兵衛が逃亡します。

しかし大石は「籠城殉死希望の藩士」たちから義盟の血判書を受け取り、城を明け渡した上で浅野内匠頭の弟・浅野長広によるお家再興を嘆願し、併せて吉良上野介の処分を幕府に求めることで藩論を統一します。

また、紙くず同然になるであろう赤穂藩の「藩札の交換」に応じて赤穂の経済の混乱を避けています。藩士に対する退職金のような「分配金」についても、下に厚く上に軽くする配分を行って、家中が分裂する危険の回避に努めています。

4月19日には「城明け渡し」を済ませ、5月21日に残務整理も終えています。そして6月25日に赤穂を去って京都・山科に隠棲することになります。

これは「危機管理」として見事な対応だと思います。

(3)お家再興運動と江戸急進派との軋轢

京都・山科に隠棲したのは、「お家再興」の政界工作のためと、親戚が住職を務める泉涌寺の檀家となって寺請証文(いわば身分証明書)を受けるためであったようです。京の都に近い山科は、遊び好きの彼には好都合の場所だったのかもしれません。

「お家再興運動」には多くの旧藩士たちが集まり、義盟への参加者は120名に達しました。大石は各方面にお家再興を働きかけますが容易ではなく、その間に浪人となった旧藩士らの生活も困窮し、脱落者も出始めます。

ただ、このころから高禄取りを中心とした「お家再興優先派」と、堀部安兵衛・高田郡兵衛らの武闘派や小禄取りの家臣たちに支持された「吉良上野介への仇討ち優先派」との対立が目立って来ます。前者は赤穂詰めだった家臣が多いのに対し、後者は江戸詰めだった家臣が多かったため「江戸急進派」と言われています。

(4)京都島原などでの遊興

彼はのらりくらりとどっちつかずの態度を取って分裂を回避しながら、実際には「お家再興」に力を入れています。

京都島原、伏見橦木町、祇園のほか奈良の木辻、大坂の新町などで遊興を重ねながら、江戸急進派の矢の督促には「時節到来を待つように」と自重を促しています。

彼は苦悩を重ね、相当なストレスが溜まっていたのではないかと想像します。彼の放蕩は「敵の目を欺くための演技」というのが半ば定説となっていますが、私は結果的にそう見えただけで、実際はストレスから逃れるために遊蕩していたのではないかと思います。彼は赤穂藩時代から自由な遊び人だったという話もあります。

1702年2月の山科と円山での会議において、「大学様の処分が決まるまでは決起しない」ことを決定しています。しかし同年7月18日、幕府は浅野長広に対して「広島藩お預かり」を言い渡し、お家再興は絶望的となり、幕府への遠慮は無用となりました。

(5)討ち入り決行と切腹

「お家再興」が絶望的となったのを受けて、1702年7月28日彼は堀部安兵衛なども呼んで円山会議を開き、吉良上野介を討つことを決定します。

彼は仇討ち決定に際して、同志の意向が今も変わらないかを確かめるため、義盟への誓紙を一旦返却(神文返し)しています。すると高禄の者をはじめ半数以上が脱落してしまいます。そして、誓紙の返却を拒んだ者にだけ仇討ちの真意を伝えます。その結果、同志は最終的に47人となったわけです。

彼が作った討ち入り時の「人々心覚」には、「武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置など」が事細かに定められ、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君へのご奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない」と明記しています。このような用意周到さは戦時や変事の際の司令官にふさわしいもので、現代の危機管理・対応に当たる指導者にも見習ってほしいものです。

そして、最終的に絞り込まれた義士たちによる討ち入り準備活動が始まります。多大な苦労を重ねた後、討ち入りの準備が完了した時点で、主君の未亡人の瑤泉院に「預り金の収支決算書」を提出して今生の別れを告げています。1702年12月14日吉良邸で茶会があることを察知し、翌12月15日未明に討ち入りを決行しました。

吉良上野介の首級を挙げた後、主君の墓のある泉岳寺に詣でます。その後、四十七士(正確には寺坂吉右衛門を除く四十六士)は幕府大目付に届を出し、細川家など4大名家に預けられた後、1703年2月4日に切腹しています。

「仇討ちを義挙とする世論」の中で、幕府は助命か死罪かで揺れましたが、結局室鳩巣らの「賛美助命論」を退け、「天下の法を曲げることは出来ない」「桜の花のように潔く散らせてやるのが武士の情け」とする荻生徂徠などの意見を容れて切腹を命じました。

(6)彼の本心

誰にも彼の本心を断定はできませんが、私は「出来れば討ち入りなどしたくはなかった」「安穏な人生を送りたかった」というのが本心ではないかと思います。そして「神文返し」に見られるように、他の旧藩士たちについても、「忠義という建前に縛られて、短慮だった主君のために命を懸けることの馬鹿々々しさを知らせて、討ち入りを思いとどまらせたかった」「浪人となって転職活動も困難だとは言え、もっと別の安穏で有意義な人生を歩ませて天寿を全うさせたかった」のではないかと思います。

しかし「船長の最後退船義務」のように「藩の最高責任者としての任務は全うせざるを得ない」ということで、逃げずにそれを果たしたということでしょう。

赤穂浪士たちの「主君の仇討ちへの執念」と、彼自身を含めた赤穂浪士たちの「幕府の仕置きに対する憤懣・抗議」が押しとどめられない流れとなって、「幕府に対する公然たる抗議行動」としての「吉良邸討ち入り」に至ったのでしょう。

これは自らが設立した私学校生徒らの旧薩摩藩士に担ぎ出されて西南戦争を起こし、結局敗死した西郷隆盛の立場に似たところがあるように思います。彼はもともと不平士族の暴発・暴走を抑える目的で九州各地から子弟を集め私学校を作ったのですが、彼らの新政府に対する不満を制しきれず、彼らとともに戦って敗れ死を選びました。この西南戦争は、近代装備を有する新政府軍に対して士族の武装蜂起では対抗不可能であること証明し、これを最後に不平士族の反乱がなくなったのは皮肉なことです。

(7)辞世

彼の辞世は次の二つが残されています。

①あら楽し思ひは晴るる身は捨つるうき世の月にかかる雲なし

②極楽の道はひとすぢ君ともに阿弥陀をそへて四十八人

なお、①の辞世の解釈については「月にまつわる話」の記事に詳しく書いています。