福沢諭吉の「脱亜論」は、現代の中国や朝鮮との関係を考える上でも参考になる

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福沢諭吉

福沢諭吉と言えば、慶應義塾の創設者、一万円札の肖像、「学問のすゝめ」などで有名ですが、彼の「思想家」としての側面と、その一つである「脱亜論」(脱亜入欧)などはあまり知られていません。

今回はこれについて考えてみたいと思います。

1.思想家としての福沢諭吉

(1)「脱亜論」

脱亜論

「脱亜論」とは、1885年(明治18年)3月16日付の日刊紙「時事新報」の社説の題で、「無署名」ですが、筆者は福沢諭吉です。

要旨は次のようなものです。

①文明というものは利益と損害を伴う(「利害相伴う」)ものであり、むしろ利益の方が多いのだから、やみくもに文明の侵入を防ごうとするのではなく、むしろその蔓延するにまかせ、いち早く国民に文明の気風を一身に浴びさせるよう努めることが智者の為すべき任務である。

②西洋文明は日本の古くからのしきたり(「旧套」)とは両立しないものであり、旧套から脱するためには旧政府を廃絶するよりほかない。日本は旧政府を倒し、天皇中心の新政府を樹立することができた。日本国中、朝廷も庶民も全ての者がことごとく西洋の文明を採用し、アジアの中にあって日本のみが旧套を脱し、ひとり新機軸を打ち立てることに成功したのである。

③中韓二国の人々も、文明の事物について見聞していないはずはないが、耳に聞き目で見るだけでその心を働かすことはない。百千年以前の古い習慣への未練をどうしても捨てられない。私からこの二国を見れば、現在の文明が東洋に向かう(「文明東漸」)時代潮流にあって、その独立を維持することは到底できないと言うべきである。(西洋諸国に分割されてしまうだろう)

④中国・朝鮮の政府は古くからの専制政治を続け、法律を重んじることはない。彼らは旧習に惑わされて、科学的思考ができない。彼らが卑屈で恥知らずな人間であることを西洋人が知れば、日本人が正義を重んじ、強きをくじき弱きを助ける義侠心を持った存在であることにも思いが及ばないであろう。

⑤中国や朝鮮が西洋文明を受け入れるのを待って、一緒にアジアを振興させるという余裕はない。むしろその仲間から離れ、西洋列強と一緒に動こう。中国、朝鮮は近隣国だからといって特別扱いをする必要はない。悪友と親しい者は、ともに悪友とみなされてしまうのは仕方がない。私は少なくともその心中においては、アジア東方の悪友とは交友を断ちたいと考えている。

(2)西洋列強のアジアへの帝国主義的侵略への対抗

彼は決して「嫌韓論者」ではなく、西洋列強のアジアへの帝国主義的侵略に対して、明治維新によって近代化を成し遂げた日本こそが中国や朝鮮に力を貸し、ともに連帯して対抗すべきだと考えていたようです。

朝鮮については、清の属国から脱却させ、日本のように文明化させることの必要性を説き、尽力しています。李氏朝鮮の旧体制(血族や門閥による支配)のままでは、早晩清国やロシアの植民地になることが目に見えていたからです。

具体的には「開化派」のリーダーであった金玉均らの青年を個人的にも受け入れ、指導教育を惜しみませんでした。また慶應義塾の門下生を朝鮮に派遣する行動を起こし、清朝の体制に取り込まれるのを良しとする朝鮮王朝の「事大主義」の変革を促しました。

ベトナム領有を巡って清仏戦争(1883年)が勃発し、清国軍が京城から撤退したのを機に、金玉均らの独立党(急進開化派)が日本の援助により1884年に「クーデター」(甲申政変)を企て新政権を樹立しますが、清国軍の介入により3日間で失敗に終わります。これで福沢の「朝鮮の文明化」の期待は潰えます。

金玉均は日本に10年あまり亡命しますが、1894年に上海で朝鮮の刺客に暗殺されています。

(3)朝鮮人との約束は無効と覚悟せよ

彼は1897年(明治30年)の「時事新報」で次のように述べています。今の日韓関係を考える上でも参考になると思いますので、ご紹介します。

左れば斯る国人に対して如何なる約束を結ぶも、背信違約は彼等の持前にして毫も意に介することなし。既に従来の国交際上にも屡ば実験したる所なれば、朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して、事実上に自ら実を収むるの外なきのみ(『時事新報』明治30年10月7日)

(4)一身の独立なくして一国の独立なし

彼の根底にある思想は、「一国が独立するためには個人が自立する必要がある」というものです。封建的な奴隷根性から脱して、西洋人並みに自由な人間になる必要があるということです。「学問のすゝめ」の第3編に述べられています。

(5)彼は平等主義者・民権論者ではなく「実力主義者」

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(この言葉は、アメリカの「独立宣言」を意訳したもの)という「学問のすゝめ」の冒頭にある有名な言葉から、彼を「平等主義者」「民権論者」と思っている人がいるかもしれません。

しかし、この後に続く言葉を知れば、そうではなく「実力主義者」であることがわかります。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤きせん上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物をり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲とどろとの相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教じつごきょう』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役りきえきはやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。
身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々しもじもの者より見れば及ぶべからざるようなれども、そのもとを尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。ことわざにいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人げにんとなるなり。

ただし、現代は学校の勉強がよく出来ただけでは安泰ではありません。「社会に出てからの広い意味での勉強」が不可欠です。むしろこちらの方が重要かもしれません。「人間一生勉強」というところでしょうか?

(6)赤穂浪士の「不義士論」

彼は「学問のすゝめ」の第6編の「国法の貴きを論ず」で、「赤穂浪士の討ち入りは私的制裁であって、正しくない」と論じています。

 昔、徳川の時代に、浅野家の家来、主人の敵討ちとて吉良上野介きらこうずけのすけを殺したることあり。世にこれを赤穂あこうの義士と唱えり。大なる間違いならずや。この時日本の政府は徳川なり。浅野内匠頭あさのたくみのかみも吉良上野介も浅野家の家来もみな日本の国民にて、政府の法に従いその保護をこうむるべしと約束したるものなり。しかるに一朝の間違いにて上野介なる者内匠頭へ無礼を加えしに、内匠頭これを政府に訴うることを知らず、怒りに乗じて私に上野介を切らんとしてついに双方の喧嘩となりしかば、徳川政府の裁判にて内匠頭へ切腹を申しつけ、上野介へは刑を加えず、この一条は実に不正なる裁判というべし。浅野家の家来どもこの裁判を不正なりと思わば、何がゆえにこれを政府へ訴えざるや。四十七士の面々申し合わせて、おのおのその筋により法に従いて政府に訴え出でなば、もとより暴政府のことゆえ、最初はその訴訟を取り上げず、あるいはその人を捕えてこれを殺すこともあるべしといえども、たとい一人は殺さるるもこれを恐れず、また代わりて訴え出で、したがって殺されしたがって訴え、四十七人の家来、理を訴えて命を失い尽くすに至らば、いかなる悪政府にてもついには必ずその理に伏し、上野介へも刑を加えて裁判を正しゅうすることあるべし。
かくありてこそはじめて真の義士とも称すべきはずなるに、かつてこの理を知らず、身は国民の地位にいながら国法の重きを顧みずしてみだりに上野介を殺したるは、国民の職分を誤り、政府の権を犯して、私に人の罪を裁決したるものと言うべし。幸いにしてその時、徳川の政府にてこの乱暴人を刑に処したればこそ無事に治まりたれども、もしもこれをゆるすことあらば、吉良家の一族また敵討ちとて赤穂の家来を殺すことは必定ひつじょうなり。しかるときはこの家来の一族、また敵討ちとて吉良の一族を攻むるならん。敵討ちと敵討ちとにて、はてしもあらず、ついに双方の一族朋友死し尽くるに至らざれば止まず。いわゆる無政無法の世の中とはこのことなるべし。私裁の国を害することかくのごとし。つつしまざるべからざるなり。

(7)痩我慢(やせがまん)の説

元旗本の彼は明治維新後に明治新政府から出仕を勧められましたが断り、在野の教育者・啓蒙思想家に徹しました。彼は「痩我慢」をしたのも知れません。そのためか、旧幕臣ながら明治新政府にも出仕した勝海舟や榎本武揚の節操のない変わり身・変節を軽蔑していたようで、二人とは終生仲が悪かったとのことです。

彼は「痩我慢の説」という本で、勝海舟と榎本武揚を痛烈に批判しています。彼の言う「痩我慢」とは、「国家(日本国のこと)は必要悪ではあるが、たとえ小国(幕府のこと)であっても『忠君愛国の情』を持つことは『痩我慢』として必要」というものです。

勝海舟については、「江戸城を無血開城して内乱を避けた功績があると言う者があるが、それはとんでもない間違いで、単に腰抜けだっただけだ。勝敗の行方がわからないうちから、幕府は薩長に負けると決め込んで降参しただけだ。そんな輩は三河武士の本分(痩我慢)にもとると言うべきだ」と批判しています。

榎本武揚については、「一旦は幕府を維持するために戦ったにも拘らず、最後には降参してしまったのは痩我慢が足りなかったからだ」と批判しています。

2.福沢諭吉とは

福沢諭吉(1835年~1901年)は、江戸時代は中津藩士(後に旗本)・蘭学者で、幕末から明治時代にかけて啓蒙思想家・教育者として活躍した人です。

彼と同時代の歴史上の人物には、吉田松陰(4歳上)、橋本佐内(同い年)、坂本龍馬(1歳下)、高杉晋作(5歳下)がいます。

1854年に長崎に出て蘭学を学び、1855年からは大坂の蘭学者緒方洪庵の「適塾」で蘭学を学んでいます。

そして1858年には中津藩の命により、江戸で蘭学塾を開いています。このころ、英語の必要性を痛感し、独学で英語を学び始めています。

また、幕府の使節に随行して、1860年~1867年の間に3回欧米を歴訪し、欧米の文明の優位性を実感しています。

「学問のすゝめ」では、従来の封建的な道徳を厳しく批判し、西洋的な合理主義と自由主義を称揚しています。またこの中で「ただ文字を読むのみを以て学問とするは、大なる心得違いなり」「文字の問屋と云うべきのみ」と断じ、「学者は何を目的として学問に従事するや?」と問いかけ、「学者は現実に世の中の役に立たねばならない。国民の見識を高尚に導かねばならない」と説いています。