方丈記は前半が大災害のルポ、後半は無常観・諦観の表明。執筆動機と生活費は?

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方丈記の庵

(下賀茂神社に復元された「方丈」)

鴨長明の「方丈記」と言えば、清少納言の「枕草子」、兼好法師の「徒然草」と並ぶ「古典日本三大随筆」に数えられ、日本中世文学の代表的な随筆です。皆さんも高校時代に「古典」の授業で学んだことでしょう。

冒頭の「序」については、名調子で格調高い和漢混淆文なので暗誦している方も多いのではないかと思います。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。

意味は、次のようになります。

流れ過ぎていく河の流れは途絶えることがなく、それでいて(そこを流れる水は)もとの水ではない。(河の流れの)よどみに浮かんでいる水の泡は、一方では(形が)消え(てなくなり)一方では(形が)できたりして、長い間(そのままの状態で)とどまっている例はない。この世に生きている人と(その人たちが)住む場所とは、またこの(流れと泡の)ようである。

宝石を敷き詰めたように美しい都の中に、棟を並べ、屋根(の高さ)を競っている、身分の高い者や、低い者の住まいは、時代が経ってもなくならないものではあるが、これは本当にそうなのかと調べてみると、昔から存在していた家というのはめったにない。あるものは昨年焼けてしまい今年造っている。あるものは大きな家だったのが落ちぶれて小さな家となっている。住む人もこれと同じである。場所は変わらず、人も多いが、(私が)過去会った(ことのある)人は、2,30人のうち、わずかに1人か2人である。朝に(人が)死に、夕方に(人が)生まれるという世の定めは、ちょうど水の泡に似ていることよ。

私にはわからない、生まれ死んでゆく人は、どこからやってきて、どこに去っていくかを。またわからない、(生きている間の)仮住まいを、誰のために心を悩まして(建て)、何のために目を嬉しく思わせようとするのか。その(家の)主と家とが、無常を争う(かのようにはかなく消えていく)様子は、言うならば朝顔と(その葉についている)露(との関係)と違いない。あるときは露が落ちて花が残ることがある。残るとは言っても朝日を受けて枯れてしまう。あるときは花がしぼんでも露が消えずに残っていることもある。消えないとは言っても夕方を待つことはない。(その前に消えてなくなってしまう。)

今回は「方丈記」をもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

1.「方丈記」とは

方丈記

方丈記は「無常観の文学」とも言われ、乱世をいかに生きるかという自伝的人生論ともされています。鎌倉時代前期の1212年に執筆されました。

(1)前半は「大災害のルポ」

他の二つの随筆と異なる大きな特徴は、当時の日本で起こった大災害の記述があるということです。「5つの災厄」が挙げられています。1つは「人災」(平清盛による福原遷都と、その失敗)ですが、あとの4つは大きな「自然災害」の記録(ルポ)です。

①安元の大火(1177年      鴨長明:22歳)

②治承の竜巻(1180年      鴨長明:25歳)

③養和の飢饉(1181年~1182年 鴨長明:26歳~27歳)

④元暦の地震(1185年       鴨長明:30歳)

このように彼は20代の頃に立て続けに大きな自然災害に遭遇しており、自分自身が「出世競争」に敗れて「負け組」となったこととも相まって、後年「無常観」や「諦観(物事の因果の道理を明らかに見ること)」を持つようになったのかもしれません。

翻って、現代の日本や世界の情勢を見ると、バブル崩壊(1991年~1993年)・リーマンショック(2008年)、阪神淡路大震災(1995年)・東日本大震災(2011年)などの大地震の頻発、異常気象、サーズ(2002年~2003年)・マーズ(2012年~2015年)・新型コロナウイルス肺炎(2020年~ )の世界的感染拡大(パンデミック)など近年は立て続けに大きな災厄に見舞われています。

特に現時点でも収束の見込みが立たず、どのくらい被害が拡大するか先が見えない「新型コロナウイルス肺炎」のことを考えると、鴨長明の時代に匹敵するか、それ以上の悲惨な状況と言えるかもしれません。

(2)後半は「無常観・諦観の表明」

後半は隠棲した草庵での生活を通して感得した、不安な乱世をいかに生きるべきかという自伝的人生論を述べています。そこには仏教的な「無常観」や「諦観」が流れています。

思い通りにならない人生で、出世競争に敗れた挫折感もあったことでしょう。

他の二つの随筆と異なる大きな特徴は、短編集であることです。「覚書」「備忘録」的な側面もあると思います。

もし、己が身数ならずして、権門のかたはらに居るものは深く悦ぶことあれども、大きに楽しむにあたはず。
嘆き切なる時も、声をあげて泣くことなし。進退やすからず、立居につけて恐れをののくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。
もし貧しくして富める家の隣にをるものは、朝夕すぼき姿を恥ぢてへつらひつら出で入る。
妻子、僮僕の羨めるさまを見るにも、福家の人のないがしろなるけしきを聞くにも、心念々にうごきて時としてやすからず。

もし狭き地に居れば、近く炎上する時、その害をのがるゝことなし。もし辺地にあれば、往反わづらひ多く、盜賊の難はなはだし。

また、勢いあるものは貪欲ふかく、ひとり身なるものは人に軽めらる。財(たから)あればおそれ多く、貧しければうらみ切なり。

人を頼めば身他の有なり。人をはぐくめば心恩愛につかはる。
世にしたがへば身くるし。したがはねば狂せるに似たり。

いづれの所をしめて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし、玉ゆらも心をやすむべき。

意味は、次のようになります。

身分が低ければ権力者の前で小さくなっていなければならず、貧乏であれば裕福な隣人と顔を合わせる度に恥ずかしい思いをせねばならない。

人家の密集地に住めば火事の類縁をまぬがれず、僻地に住めば交通の便が悪く、盗難の心配もある。

出世する程心は貪欲になっていき、かといって独身だと軽く見られる。
財産があれば心配になり、貧しければ恨みがましくなる。

誰かを頼りにすると自分は失われ、その者に支配されることになる。誰かの面倒をみると愛情にしばられる。
世の中の常識に従えば窮屈だが、従わないと狂人と同じに映る。

結局、この世には心休まるところはどこにもない。
どんな仕事をして、どのように生きても、ほんの一瞬もこの社会では心安らかに暮らす事が出来ない。

(3)養生訓

彼は質素な暮らしと健康法について、次のように述べています。どこか貝原益軒の「養生訓」を先取りしたようなところがあります。

いかにいはむや、常に歩き、常に働くは、養性なるべし。
なんぞいたづらに休みをらん。人を悩ます罪業なり。いかゞ他の力を借るべき。
衣食のたぐひ、またおなじ。

また藤の衣、麻のふすま、得るにしたがひて肌を隠し、野辺のおはぎ、峰の木の実、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじらはざれば、姿を恥づる悔いもなし。

意味は、次のようになります。

体を動かし、歩く事は健康的である。
静かに休んでいるのは不健康だ。
着るものなどは手に入るなりに適当にすればいいのだし、食べるものも手に入ったなりに食べていけばいい。

粗衣粗食の生活は一見みすぼらしいが、町中で人に会う訳でもないので、恥ずかしい事もない。

2.「鴨長明」とは

鴨長明

(1)人物像

「鴨長明」(1155年~1216年)は鎌倉時代前期の歌人・随筆家です。「隠棲文学の祖」とも呼ばれています。

賀茂御祖(かもみおや)神社の禰宜(ねぎ)鴨長継の次男です。7歳で「従五位下」に叙せられ、南大夫または菊大夫と呼ばれました。

幼少期は恵まれた生活を送っていましたが、彼が18歳の頃に父が亡くなり、その後は波乱の多い人生を送ることになります。

琵琶を中原有安に、和歌を俊恵(しゅんえ)に学んでいます。妻子がいたこともあったようですが、30歳頃に離別しそれ以後は一人暮らしです。

47歳の時、後鳥羽上皇の「和歌所」設置に伴い「寄人(よりうど)」に選ばれて多くの歌会・歌合に参加しています。

上皇の推挙によって、河合(ただす)神社の禰宜に任じられようとしましたが、同族である鴨祐兼(すけかね)の反対で実現しませんでした。これを機に失意の彼は50歳で出家して「蓮胤(れんいん)」と号し、日野の外山に庵を結んで隠棲しました。近くに日野薬師として知られる「法界寺」があります。

そのころ、幕府が開かれた鎌倉に下向し、将軍源実朝との面会を果たしました。しかし期待していた和歌の師範になることは出来ませんでした。

彼の生きた時代は、平安時代の公家による政治から、平氏政権を経て、武士が台頭して政権を握る鎌倉時代へと世の中が大きく転換して行った時代です。

釈迦の入滅後にその教えが忘れ去られ、世は衰退して災いや戦乱が相次いで起こると信じられた「末法思想」も広まった時代です。

一般の民衆にも、「世の中にある全ての存在は変化するものであり、不変・不滅のものはない」という「無常観」や「浄土信仰」が浸透して行きました。

余談ですが「新明解国語辞典」という面白い辞典があります。その中に「人生経験」と「凡人」についての次のような語釈があります。鴨長明は決して「凡人」ではありません。藤原道長のような順風満帆の人生ではなかったですが、「人生経験」は豊富な人であったようです。

「人生経験」は、「人生の表街道を順調に歩んで来た人にはとうてい分からない、実人生での波乱に富み、辛酸をなめ尽くした経験。【言外に、真贋の見極めのつく確かさとか、修羅場をくぐり抜けてきた人たちの一大事に対する覚悟の不動とかを含ませて言うことが多い】」です。

「凡人」は、「自らを高める努力を怠り、功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人」です。

(2)方丈記の執筆動機

彼が「従五位下」という高い身分でなく「食うや食わず」の生活であれば、このような随筆を書く心のゆとりもなかったと思います。

大きな自然災害などを経験し、世俗的な出世争いにも敗れて厭世的・虚無的な思いに陥っていたことは想像に難くありません。

そんな時に、「魂のカタルシス(心の浄化)」の意味や、「記録に残しておきたい」というルポライター的な思い、「後の人のために、自分の人生を振り返って乱世の生き方を人生訓として残したい」という気持ちが湧き起こったのではないでしょうか?

 (3)生活費はどうしていたのか

出家前は従五位下の「位禄」や「父方の祖母」の家の財産や「歌会の収入」などでしょうが、出家後は、出家前の財産の取り崩しと「歌会の収入」で生活していたのでしょう。

しかし分不相応な贅沢を望まなければ、さほど生活には困らなかったのではないかと想像します。

草庵の近くの「法界寺」の僧侶に食事や風呂の世話をしてもらっていたという話を聞いたこともあります。