「幸福量一定の法則」というのは本当か?

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幸福と不幸

1.「幸福量一定の法則」

私が若い頃、会社の先輩から「幸福量一定の法則」という法則があるという話を聞いたことがあります。

これは、世の中には「幸福な人生を送る人」もいれば、「不幸な人生を送る人もいる」が、世の中全体としては「ゼロサム(zero-sum)」(経済学における「ゲーム理論」で用いられる「ゼロサムゲーム」のように、総和としてはプラスマイナスゼロ。「マージャン」も「ゼロサムゲーム」)という意味だったか、一人の人生について、「前半生が幸福だった人は、後半生は相対的に不幸になる場合が多い」、あるいは、「会社では立身出世して幸福な人は、(家庭を顧みないことなどから)反面家庭不和などで不幸な人が多い」という意味だったか、又は両方の意味だったか、詳しいことは忘れましたが、なぜか印象に残っています。

さだまさしさんが作詞・作曲した名曲に「無縁坂」というのがあります。その中に「運がいいとか悪いとか 人は時々口にするけど そうゆうことって確かにあると あなたをみててそう思う」というフレーズがあります。

「佳人薄命」「才子多病」とか、「人間万事塞翁が馬」「禍福は糾(あざな)える縄の如し」というのは確かにあるようです。

「一陽来復」(又は「冬来たりなば春遠からじ」)という言葉は、私の好きな言葉の一つです。不遇な時や困難に出会った時、時期が来れば又良いこともあると自らに言い聞かせます。「苦あれば楽あり(楽あれば苦あり)」「楽は苦の種、苦は楽の種」「苦尽甘来(くじんかんらい)」もよく似た言葉です。

「人の運には、『天運』と『地運』がある。」と聞いたことがあります。「天運」とは、人知で計り知ることのできない天からの運です。「地運」とは、人間の行いによって積み上げられて来る運です。

「勝負は時の運」という言葉もありますね。勝ち負けとは、その時の運によるもので、必ずしも強い者が勝ち、弱い者が負けるとは限らないということです。これは、敗者には慰めの言葉、勝者にとっては自戒の意味を込めて用いられます。

確か関ケ原の合戦の後に、徳川家康が敗軍の将である石田三成に対してこの言葉をかけ、縄目を解いてやる場面をテレビの大河ドラマで見たような記憶があります。徳川家康も、大阪夏の陣では、真田幸村によって本陣を突撃され、危うく命を落とす所でした。もしこの時、徳川家康が討ち取られ大阪方が勝利していれば、その後の歴史はかなり変わったのではないかと思います。しかし「歴史にif」はありません。

また、かつて「国民の幸福度世界一」と言われたブータンが、今や普通の国になったという話も聞きます。「国民総幸福量最大化」というのがブータン国王のスローガンだったと思いますが、近代化の波が押し寄せる前は、ブータン国民は「足るを知り、97%の人が『幸福感』を持っていた」ということだと思います。「幸福量一定の法則」が正しいとすれば、「一人一人の幸福量は少なくなるが、広く薄く多くの人が幸福になる」ということかもしれません。ただ「幸福」は主観的・相対的なものなので、絶対的な幸福の上限量があるいう考え方には無理があるようにも思います。

2.私の両親のような「大正生まれ世代」の幸福量

私の母は、若い頃は大変病弱で、床に伏せっていることが多かったそうです。母の父親は30代の若さで病死し、母親も50代で病死しています。そして母の姉は20代の若さで病死しています。そんな母ですが、中年以降は「病(やまい)抜け」したかのように元気になり、97歳の現在も認知症もなく毎日、新聞を丹念に読んでいます。最近しみじみと「私の長寿は、短命だった父母や姉からもらったようなもの」だと話していました。

私の父は、1942年(昭和17年)22歳の時に応召して、海軍陸戦隊に入り、終戦の年まで中国の海南島で守備隊の任務に就いていました。父の母親は40代で既に病死しており、父の父親も50代で病死しています。中国へ向かう前に呉の海軍基地で面会したのが最後の別れとなったそうです。

そんな父も、終戦後復職した旧国鉄(現在のJR西日本)で55歳の定年まで勤め上げ、それから29年間、悠々自適の「晴耕雨読」の生活を送った後、さほどの長患いもせず、脳梗塞により84歳の長寿で亡くなりました。

父の青年時代は、戦争に駆り出された殆どの同世代の男性がそうであったように不幸だったと思いますが、後半生は実に穏やかで幸福な人生で、年金生活者としても我々の世代よりもゆとりがあったように思います。

3.我々のような「戦後生まれの団塊世代」の幸福量

翻って、私達の世代はというと、ごく幼少期の「食糧難」の時代を除けば、ベビーブームによる過当競争があったとはいえ、「日本経済の高度成長」の恩恵を受けて、戦争のないまずまず恵まれた前半生を過ごせたと思います。しかし、中年以降は、バブル崩壊・リーマンショック・リストラ・給与削減の嵐に晒される羽目になりました。「楽あれば苦あり」ということでしょうか?

私が派遣社員として働いていた会社でも「大規模なリストラ」が実施されました。プロパー社員の再配置の影響で、派遣社員だった私も70歳を目前にして「雇い止め(派遣打ち切り)」となりました。私はもう再就職するつもりはありませんでしたが、私より若い人も、満足できる再就職口はなかなか見つからないようです。

そして2020年1月以降は「新型コロナウイルス肺炎(COVID-19)」の「世界的感染拡大」(パンデミック)に伴う「緊急事態宣言」発出と延長によって、「外出自粛(ステイホーム)」「営業自粛」「3密回避」「在宅勤務」「学校の一斉休校」など、「先の見えない不自由な生活」を余儀なくされました。

5月21日に国の「緊急事態宣言」が大阪府・兵庫県・京都府について解除されたことを受けて、大阪府は5月23日午前0時から外出自粛や休業要請を大半の施設で解除し、「経済活動再開」となりました。

しかし、今後「第二波」が発生して新規感染者数が再び増加すれば、また「営業自粛」に逆戻りしかねず、「コロナ不況」が長期化して「大恐慌」のような事態にならないかと心配です。

「幸福量一定の法則」が個人にも当てはまるとすれば、父母の人生も、私の人生も当たっているような気がしますが、皆さんはいかがでしょうか?

4.「幸福駅」にまつわる面白い話

余談ですが、かつて北海道帯広市幸福町にあった国鉄広尾線の「幸福駅」が、駅名の縁起の良さから「乗車券」や「入場券」が人気を集めました。1987年の廃線後も観光地として整備されています。

幸福駅

ただし、この「幸福」という地名は比較的最近にできたもので、昔は「幸ない」と呼ばれていたそうです。

1897年に福井県大野から集団移住が行われ、近くに「札内川(さつないがわ)」(「サツナイ」はアイヌ語で「乾いた川」という意味)が流れていることから、入植者によって拓かれた村には「幸震(さつない)」の字が当てられました。「ナイ」に「震」の字を当てたのは、地震のことを古語で「なゐ」と呼ぶためです。

しかし難読であるため、次第に音読みで「こうしん」と呼ばれるようになりました。その後「幸震」には福井からの移住者が多かったことにちなんで、集落名が「幸福」と改められました。

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