高槻市の「大蔵司遺跡」は弥生時代の遺跡だが、丘陵地にある!

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大蔵司遺跡の出土品

世の中の人は、「犬派・猫派」「山派・海派」「戸建て派・マンション派」「持ち家派・賃貸派」「山の手派・下町派」のように好みが分かれるものですが、古代人の生活エリアにも「丘陵派(山派・山の手派)」と「平地派(下町派)」があったようです。

1.「大蔵司(だいぞうじ)遺跡」

大蔵司遺跡

(1)大蔵司遺跡とは

高槻市にある「大蔵司遺跡」(全国的な知名度はゼロだと思いますが)は、弥生時代後期からの古い遺跡です。この遺跡は、「今城塚古墳」(継体天皇陵)や「安満遺跡公園」のように整備・保存されたものではなく、現在は名神高速道路北側の大阪府立芥川高校の敷地を含む広い地域の地下に眠っている遺跡です。

この「大蔵司遺跡」は、「弥生時代(後期)」からの古い遺跡ですが、普通の「弥生時代」の遺跡のように平地にあるのではなく、里山に近い丘陵地にあります。大蔵司遺跡の近くには「神服(しんぷく)神社」があります。

神服神社

(2)大蔵司遺跡に人々が住むようになった理由

古代人の生活エリアにも「丘陵派(山派・山手派)」と「平地派(下町派)」があったようです。

生産地である水田に近い場所に作る「平地の集落」が普通ですが、丘陵の斜面や山頂に営まれる「高地性集落」もあるのです。「大蔵司遺跡」も「高地性集落」に入ると思います。

弥生時代に「大蔵司遺跡」で人々が生活するようになった理由は、次のような可能性が考えられます。

①狩猟などが好きな丘陵派(山派・山手派)の人々が集まった

もともと縄文時代からの伝統である狩猟や木の実の採取を好む人々が集まった可能性があります。

高台の方が、見晴らしがよく、外敵の侵入を防ぐのに適していたのかもしれません。

②平地には住む場所や稲作をする場所がなくなり、山手の土地を開墾した

弥生時代に入ると「稲作」が始まり、多くの人々は平地に住むようになったため、住む場所や稲作をする場所がなくなり、山手の広い土地を開墾して稲作をして居住するようになった可能性もあります。

現代の「山手の宅地開発」のはしりかもしれませんね。

③平地に住む人々の間で何らかの争いが起こり、不便な丘陵地に追いやられた

「ムラ」同士の争いに敗れたムラが、やむを得ず不便な丘陵地に移住せざるを得なくなった可能性もあります。

これは「山城(やまじろ)」の原型といえるかもしれません。ちなみに「平地の集落」には、外敵を防ぐために周囲を柵で囲む「環濠集落」があります。これは「平城(ひらじろ)」の原型といえるかもしれません。

大蔵司遺跡と神服神社

高槻市ホームページでは、「神服神社」と「大蔵司遺跡」について次のように紹介されています。

神服(しんぷく)神社は、摂津峡につらなる帯仕山(おびしやま)のすそ野にある服部盆地の最奥に鎮座しています。この帯仕山の山すそから山頂にかけての塚脇地区一帯には、約50基もの古墳が群集する塚脇古墳群(古墳時代)が、また、神社の南側には、大蔵司遺跡(弥生時代~鎌倉時代)がひろがり、このあたり一帯は古くから人々が生活を営んできた地域でもありました。また、江戸時代には、神社の近くを通る道は神峯山寺へと参るために利用されており、神服神社へ立ち寄る人も多かったのではないでしょうか。

神服神社は、927年に編纂された『延喜式』に記載されている律令時代の神社で、ヒノハヤヒノミコト、マラノスクネ、スサノオノミコトが祀られています。この地は、奈良時代、摂津国島上郡服部郷にあたり、服部連(はっとりのむらじ)の本拠地であったとされています。

第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代(5世紀前半)に、機織りの織部が各地に多数設置されることとなり、朝廷は管理者をおきました。管理者はやがて「服部(はとりべ)」と呼ばれ、諸国の織部の総領として「服部連」の姓を賜りました。この神服神社のある地域一帯を服部というのは、織部がこの地に設置されたことによります。

さて神社の名前ですが、服部連は祖先を勧請し、「服部神」と称していましたが、延喜年間に「神服神社」と改称しました。明治時代には、宮之川原の春日神社や稲荷神社、塚脇の上宮神社、浦堂の若宮神社、大蔵司の神明神社を合祀し、現在に至っています。塚脇の上宮神社は、かつて連塚(むらじづか)とよばれる古墳の上にあって、祭神が服部連となっていることから、この塚は同連の墳墓であろうという伝承として息づいています。

神服神社の例祭の神輿渡御式は、「服部棒振祭」とも「チョーハ祭」とも呼ばれ、昭和初期まで盛大に執り行われてきました。神輿は、笠森神社、阿久刀神社を巡り、総勢100名をこえる行列は周囲を圧倒するものがあったといいます。神輿渡御は一時期中断していましたが、平成21年から復活し、毎年5月5日に行われています。

仁王像の鼻

上の写真は、大蔵司遺跡で発見された12世紀後半頃の「阿形の仁王像の鼻部」で、当時あった「大蔵寺」の山門の仁王像の一部と考えられています。「大蔵寺」は今はありませんが、山岳寺院の「神峯山寺と本山寺」のように、現在もある「安岡寺」と対をなす寺であったようです。

高槻市ホームページでは、「安岡寺」について次のように紹介されています。

江戸時代の観光ガイド『摂津名所図会』に描かれた安岡寺は、長い参道から続く山腹にある境内に、ひっそりとたたずむように建っています。昭和7年発行の清水村誌には「安岡寺ハ安岡寺山ノ半腹ニアリ、南山ト号シ般若院ト称ス。(中略)境内ハ一三八五坪ヲ有シ本堂、庫裏、宝蔵、水屋、鐘楼、土蔵、薬医門、仁王門ヲ存ス。外二開山堂、阿弥陀堂、薬師堂アリ堂後ニ般若塚アリ。」と記され、その頃の様子を伝えています。今は住宅が張りつき、安岡寺山の面影は見る影もありませんが、境内のたたずまいに当時の風情を残しています。

安岡寺は5世紀前半に諸国の織部の総領として「服部連」の姓を賜ったという古い歴史をもつ旧服部村を見渡せる山腹にあり、古くから多くの人々の信仰を集めていました。また、服部地区にある大蔵司遺跡(弥生時代~鎌倉時代)からは12世紀後半頃のものと思われる阿形の仁王像の頭部片が発見されています。資料からは、当時、「大蔵司」という地名の元となった「大蔵寺」というお寺があったことがうかがえ、仁王像はその山門のものと考えられています。

平安時代末から鎌倉時代にかけては山岳仏教の興隆期で、三島地域においても多くの天台宗寺院が営まれていました。この「大蔵寺」もその状況から天台宗山門派の寺院と考えられており、当時の山岳密教寺院の特徴が本院・奥の院の関係をなすように建てられるという特徴をもつことから、神峯山寺・本山寺と同様に、大蔵寺は安岡寺と対をなす寺であると読み取ることができます。また、安岡寺は、神峯山寺・本山寺と同じく、宝亀年間(770年頃)に光仁天皇の子、開成皇子(かいじょうおうじ)が創建したと伝えられている山岳寺院のひとつでもあります。

安岡寺の本尊は秘仏で開成皇子の作と伝えられる如意輪観音。本堂の背後の山には、開成皇子の弟子であった開智(かいち)が一字一石の大般若経を書写した般若塚があります。この大般若経を本堂の背後の岡に安置したことから、安岡寺般若院と呼ばれるようになったと伝えられています。現在も石塔が祀られており、仲秋の名月の日には、万燈供養が行われ、参詣の人々のとなえる般若心経が周囲に響きわたります。また、節分の先がけとして2月1日には、大護摩供養が行われ、周辺から多くの参詣者が訪れます。この大護摩供養では、本堂の東側に祀られている弘紹不動明王を本尊とし、大勢の大峰山の行者が大護摩を焚き、火渡り式を行います。

境内に建つ青梅観音堂には、昭和49年6月に重要文化財に指定された千手観音坐像が納められています。この千手観音像、木造寄木造で高さ137cm、当初の部分をよく残す平安時代の優品です。もとは真上にあった安正寺の本尊でしたが、明治3年(1870)に廃寺になったため客仏として、安岡寺に移ってきました。『摂津名所図会』によると、安正寺に安置されていた時、そのお堂の前に梅の古木があったようです。不思議なことに、その梅の実は青いままで落ちることがなかったため、青梅の観音といわれるようになったと記されています。

安岡寺は大護摩供養、万燈供養などの年中行事のほか、大晦日には大勢の人々が詣で除夜の鐘をつき、元旦には初詣でにぎわうほか、新西国三十三ヶ所観音霊場の客番に数えられ、季節の節目ふしめに多くの人々が訪れています。

2.旧石器時代~縄文時代の遺跡(郡家今城遺跡

「大蔵司遺跡」より少し西にある「郡家今城遺跡」は、旧石器時代~縄文時代の遺跡です。「郡家今城遺跡」より少し遅れて弥生時代には「大蔵司遺跡」でも人々の暮らしが始まったようです。

ただ、縄文時代までは狩猟生活が主体で森の木の実などを採ることはあっても、「稲作」などの農耕生活はまだ始まっていません。

高槻市ホームページでは、「旧石器時代~縄文時代の遺跡(郡家今城遺跡)」について次のように紹介されています。

2万年前の旧石器時代、人々はゾウやシカなど獲物の群れを追い、移動する生活を送っていました。1万2千年前になると土器がつくられ、煮炊きして食事できるようになりました。集団でムラを営む、縄文時代の幕開けです。

高槻遺跡地図

3.弥生時代の遺跡(史跡安満遺跡、天神山遺跡、古曽部・芝谷遺跡)

弥生時代に入ると、高槻市内に住む古代の人々も徐々に平地に移動し、水田で稲作をしたり、畑で野菜などの農作物を栽培するようになります。

高槻市ホームページでは、「弥生時代の遺跡(史跡安満遺跡、天神山遺跡、古曽部・芝谷遺跡)」について次のように紹介されています。

大陸から伝わった稲作は短期間に日本列島に広まり、生産の拡大が富と権力を生み出しました。そして有力なムラが多くのムラを従え、やがて邪馬台国のようなクニが各地に出現します。