額田王は二人の天皇に愛された女性!その生涯とは?

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額田王

皆さんは次の歌をご存知でしょう。高校の古文の教科書に出ていたと思います。

「あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る」

この有名な和歌で知られる額田王は、古代史で有名な兄弟の天皇と結ばれた女性です。

そこで今回は額田王のことをわかりやすくご紹介したいと思います。

1.額田王とは

「額田王(ぬかたのおおきみ)」(生没年不詳)は、飛鳥時代の女流歌人で、631年~637年頃に生まれ、60歳ぐらいまで生きたようです。父は「鏡王(かがみのおおきみ)」(生没年不詳)です。

なお、鏡王のもう一人の娘「鏡王女(かがみのおおきみ)」(?~683年)は天智天皇の妃で、後に藤原鎌足の正妻となる女性です。

額田王は最初、女性天皇である皇極天皇(594年~661年、在位:642年~645年)(後に重祚して「斉明天皇(在位:655年~661年)」)に仕え、主として天皇の意を代弁して「呪歌(じゅか)」(祝意あるいは願望などを込めて祈る歌)を詠じた(代作した)ようです。ちなみに、皇極天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)の母です。

額田王は19歳の頃に大海人皇子(後の天武天皇)と結婚し、その寵愛を受けて、「十市皇女(とおちのひめみこ)」(?~678年)を生みます。余談ですが十市皇女は、天智天皇の子の大友皇子(648年~672年)の妃となりますが、672年に起きた壬申の乱で夫の大友皇子が父の大海人皇子に敗れて自死した後、678年に宮中で急死しています。ちなみに壬申の乱とは、大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)との「皇位継承紛争」です。

斉明天皇の没後、額田王は一時宮廷を離れましたが、天智天皇の近江遷都の頃、再び召されて後宮に入っています。

このいきさつは、天智天皇が額田王を側に置きたいため、弟の大海人皇子に対して自分の娘2人を与えるので妻である彼女を手放すよう持ち掛け、承諾させたと言われています。彼女は愛する大海人皇子から無理やり引き離されて天智天皇の後宮に入りますが、大海人皇子への思いを断ち切れなかったのでしょう。壬申の乱は、額田王との仲を引き裂かれた大海人皇子の兄天智天皇に対する復讐でもあったのだと思います。

冒頭に掲げた歌に対する大海人皇子の返歌が、「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも」とあるように、天智・天武両天皇を魅了するほどの美貌と才能があったと思われ、深刻な三角関係にあったと一般に理解されています。三角関係に悩んだ悲劇のヒロインということです。

そういうわけで額田王は、「天智天皇・大海人皇子の兄弟の不仲」、「天智天皇の子の大友皇子と大海人皇子との争い」、「壬申の乱」の全てに、深い関りがあると言えます。

しかし、現代的な意味での「恋多き女」ではなかったように思います。もともと彼女は「采女(うねめ)」(天皇や皇后に近侍し、食事など身の回りの雑事を行う女官)か「巫女(みこ)」(神に仕え、祈祷や占いをしたり、神託を得てそれを伝える女性)だったという説もあります。二人の天皇に愛される中でも、恋に溺れるというのではなく、自らの歌の才能によって天皇を助け、「宮廷歌人」という己の職分を全うした「キャリアウーマン」だったのではないかと思います。

ソデフリンアカハライモリ

余談ですが、「ソデフリン」というイモリ(アカハライモリ)の「フェロモン」の名前は、額田王の上記の和歌「あかねさす野行き・・・」の最後の「君が袖振る」(ソデフル)から命名されたものです。イモリは「」の尻尾を「振って」「求愛」することから、イモリのフェロモンが求愛=「袖振る」=「ソデフリン」と名付けられたのです。命名した生物学者の早稲田大学名誉教授菊山榮氏は古典の素養があって遊び心にも溢れていたようです。

2.額田王の作歌活動と代表的和歌

(1)作歌活動

彼女の作歌活動時期は、斉明朝(655年~661年)に歌人としての活躍を見せ始め、続く天智朝(662年~671年)を頂点として、持統朝(687年~696年)の初期までの長期に及んでいます。

天智時代は、開明的気風のもとに、大陸的みやびの世界を和歌に持ち込み、優美で繊細な新風で宮廷サロンの花形的存在となりました。

壬申の乱勃発直前の、天智天皇の山科御陵から退散する時の歌をもって実質的な活動を終えたと見られています。

(2)代表的和歌

・秋の野のみ草刈り葺(ふ)き宿れりし宇治の宮処(みやこ)の仮廬(かりいほ)し思ほゆ

・熟田津(にきたつ)に船8ふな)乗りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出でな

これは、斉明天皇時代に詠んだ歌で、663年の朝鮮半島での「白村江の戦」(日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦い)を控えたこの時、兵士の心を鼓舞し、安全を祈るために詠まれたものです。

NHKの朝ドラ「エール」のモデルとなった古関裕而も多くの軍歌や行進曲を作曲しましたが、これらの歌は兵士や選手を鼓舞する力がありました。古代においては、和歌がその「エール」の役割を果たしたのかもしれません。

・三輪山を然(しか)も隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや

天智天皇が近江へ遷都した時の歌です。遷都に気が進まない人々に共感するように歌を詠むことで、逆に皆の気持ちを鎮めようとしたものです。

・古(いにしへ)に恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我(あ)がおもへるごと

・み吉野の玉松が枝(え)は愛(は)しきかも君がみ言(こと)を持ちて通はく

・かからむとかねて知りせば大御船(おほみふね)泊(は)てし泊(とま)りに標(しめ)結(ゆ)はましを

・君待つと我が恋ひをれば我が宿の簾(すだれ)動かし秋の風吹く

3.天智天皇とは

天智天皇

天智天皇(626年~672年、在位:668年~672年)は第38代天皇で、中大兄皇子のことです。持統天皇、大友皇子らの父です。

645年に「乙巳の変(いっしのへん)」というクーデターを起こして中臣鎌足とともに蘇我氏を討ち、大化の改新を断行しました。近江の大津宮に遷都しています。

4、天武天皇とは

天武天皇

天武天皇(?~686年、在位:673年~686年)は第40代天皇で、大海人皇子のことです。

大化の改新及びそれに続く内政・外交上の変革期に成長し、668年に皇太子となり、兄の天智天皇を助けましたが、兄が崩御すると吉野に入り、672年に挙兵(壬申の乱)し大友皇子を破って自殺に追い込みました。

飛鳥浄御原宮で即位し、天智天皇の皇女(後の持統天皇)を皇后としました。

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