残念な天皇の話(その1)。陰謀により2年で退位した花山天皇の奇行と好色な問題行動とは?

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花山天皇

歴代天皇や法皇(上皇)については、歴史上の事件や政変に関わった天皇、たとえば「乙巳(いっし)の変」を起こした天智天皇や「建武の新政」を行った後醍醐天皇などのほかは、ほとんど知られていません。

ところで私が小学生の頃は、「伝記」と言えば、発明王のエジソンや、黄熱病研究者の野口英世博士、ヘレン・ケラー、キューリー夫人などの「偉人の伝記」でした。それらは大半が偉人の業績を称え、美化したもので、大人になるとあまり魅力のないものになりました。

しかし「最近の伝記」は赤裸々な人間像を描くものが多くなりました。「ざんねんな偉人伝」という子供向けの本もそのような偉人の「光と影」「表と裏」「良い面と悪い面」を正直に描いて、偉人を「人間味溢れる身近な存在」として感じさせようとする意図が見えます。

歴代天皇にも「残念な天皇」が何人かいます。そこで今回は第1回として、「残念な天皇」の一人である花山天皇をご紹介したいと思います。

1.花山天皇とは

2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では、本郷奏多さんが演じます。

花山天皇

花山天皇

花山天皇(かざんてんのう)(968年~1008年、在位:984年~986年)は第65代天皇です。冷泉天皇(れいぜいてんのう)(第63代)の第一皇子で、母は藤原伊尹(ふじわらのこれただ/これまさ)の娘懐子(かいし/ちかこ)です。

969年、外祖父藤原伊尹の後ろ盾により、生後約10カ月で叔父円融天皇の即位と同時に皇太子となっています。

984年、円融天皇(えんゆうてんのう)(第64代)の生前退位(譲位)を受けて即位しています。ちなみに円融天皇は、同母兄の冷泉上皇の子が成長するまでの「一代主」(中継ぎの天皇)とみなされていたため、生前退位しました。

しかし、彼が即位した時には後ろ盾だった藤原伊尹はすでに亡くなっており、実権は皇太子(懐仁親王)の外祖父藤原兼家と藤原義懐(伊尹の子)に移っていました。

花山天皇参考系図

彼は藤原為光の娘の藤原忯子(しし)を気に入り女御とします。深い寵愛を受けた忯子は懐妊しますが、17歳の若さで亡くなります。

986年、女御の死を悲しむ花山天皇は、皇太子懐仁(やすひと)親王(後の第66代一条天皇)の即位を急ぐ外祖父藤原兼家らの「陰謀」によって退位し、花山寺で出家しています。

大鏡」によれば、蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみに暮れる天皇と一緒に自分も出家すると唆し、内裏から元慶寺(花山寺)に密かに連れ出そうとしました。天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしい」とためらいますが、その時月が雲に隠れたので出発を決意します。天皇一行が寺に向かったのを見届けた兼家は、子の道隆や道綱らに命じて「三種の神器」を皇太子懐仁親王の居所であった凝華舎に移したのち、内裏諸門を封鎖します。

元慶寺に着き、天皇が落飾したのを見届けると、道兼は親の兼家に事情を説明してくるという理由で寺を抜け出し、そのまま逃げて出家はせず、ここで天皇は欺かれたことを知ります。

内裏から行方不明になった天皇を探し回っていた藤原兼家の政敵である外戚藤原義懐(伊尹の子)と藤原惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そこで政治的敗北を悟り、ともに出家します。これが「寛和の変(かんなのへん)」と呼ばれる政変です。

出家後は播磨国の書写山円教寺や、比叡山、熊野などで仏道修行を積み、992年頃に帰京し、東院(花山院)に住みました。

絵や和歌に巧みで、「拾遺和歌集」の撰者と言われています。

ここまで見ると「気の毒な天皇」という印象ですが、帰京後色好みの名を立てられ、藤原為光の娘のもとに通ったことから、藤原伊周(ふじわらのこれちか)によって襲撃される事件が起きています。

2.花山天皇・法皇の奇行と好色のエピソード

(1)奇行

①王冠脱ぎ捨て事件

984年の即位式の儀式の途中で、花山天皇が「王冠を脱ぎ捨ててしまう」という事件がありました。当時の朝廷の実力者藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記「小右記」には、「王冠が重くて仕方がないので脱いでしまうぞと天皇が言って王冠を脱ぎ捨てた」とあります。

この過去に例を見ない子供じみた奇行は、朝廷の歴史における大珍事だったようです。

②藤原隆家への挑発行動

歴史物語「大鏡」によれば、ある時花山法皇は「自分の邸宅の門前を無事に通ることは出来ないだろう」と言って隆家を挑発したそうです。

隆家は頑丈な牛車を用意し、50~60人の従者を従えて花山院へ向かいました。しかし法皇は屈強な僧侶を中心とした80~90人の従者を配置して待ち構えていたのです。

しかも、法皇の従者は身の丈ほどもある杖と大きな石を持っていました。これだけの人数と武器を用意されたのではたまりません。さすがの隆家も、法皇の家の前を通ることは出来ず、敗北を認めざるを得ず、遺恨を残しました。

(2)好色な問題行動

①玉座での淫らな行為

花山天皇が即位式の直前に、「高御座(たかみくら)」(天皇の玉座)の中に気に入った美しい女官を招き入れ、淫らな行為をしたということが、「江談抄」という平安時代の書物に伝わっています。

②出家した後も大勢の女性と関係を持つ

花山法皇の好色ぶりは止まらず、自分の乳母とその娘との両方と関係を持ち、それぞれに男の子を生ませています。世間の人は、母親の方を「母腹宮(おやばらのみや)」、娘の方を「女腹宮(むすめばらのみや)」と呼んだとか・・・

③花山法皇襲撃事件(長徳の変)

花山法皇は、藤原為光の娘のもとに足繁く通っていたことが原因で、996年に藤原伊周と隆家兄弟から矢を射かけられる事件に遭っています。

この事件は、藤原道長の兄で関白だった藤原道隆の息子の藤原伊周の勘違いから起きました。

伊周は、もと太政大臣だった藤原為光の三女のもとに通っていました。そして法皇もその同じ屋敷にいる四女(天皇時代に寵愛していた藤原忯子の妹)のもとに通い出したのです。

すると、法皇が三女のもとに通っているに違いないと勘違いした伊周が弟の隆家とともに従者を連れて法皇を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いたのです。

襲われた法皇も、出家した身でありながら女通いを止められなかった体裁の悪さから、バツの悪い事実をできるだけ隠蔽したいと考え閉じこもってしまいました。

しかし事件の噂は広まり、これを知った道長は、重大事件として最大限に利用し、政敵であった伊周と弟の隆家を左遷してライバルの排斥に成功したのです。

女好きの花山法皇の出家者にあるまじき行動は、自身の身を滅ぼしかねない事件になるところでしたが、結果的に藤原道長の政治権力強化に貢献することになりました。

法皇という立場は天皇や皇太子よりも行動の制限が少なく自由に振る舞えたこともあって、当時の貴族社会が困惑するほどの奇行・好色行動を繰り返していたようです。

源氏物語を書いた紫式部も、花山天皇・法皇のようなどろどろした問題行動を起こす好色な天皇の噂を聞いていたのかもしれません。

ちなみに紫式部が仕えたのは、花山天皇の次の一条天皇(第66代)の中宮彰子(藤原道長の娘)です。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「光る君へ」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。

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