エリザベス1世はなぜ独身を通したのか?

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エリザベス1世

エリザベス1世はヴィクトリア女王と並んでイギリスの最も偉大な女王の一人ですが、彼女は「私はイングランド(英国)と結婚している」と話して独身を貫いたことでも有名です。

そこで今回はエリザベス1世が独身を通した理由と、熱心な求婚者だったウォルター・ローリーとの関係などについてもご紹介したいと思います。

1.エリザベス1世

エリザベス1世テューダ王朝系図

(1)エリザベス1世とは

エリザベス1世(1533年~1603年、イングランドとアイルランドの女王在位:1558年~1603年)は、チューダー王朝第5代にして最後の君主です。ちょうど日本の戦国時代にあたる時代に生きた女性です。

彼女の前半生は決して恵まれた境遇ではありませんでしたが、イギリス宗教改革を完成させ、重商主義政策を採用してイギリス海洋帝国の基礎を築き、16世紀後半のイギリス・チューダー王朝絶対王政全盛期を実現した女王です。今で言えばサッチャー元首相のような「鉄の女」だったと思います。

ヘンリー8世(1491年~1547年、イングランド王在位:1509年~1547年、アイルランド王在位:1541年~1547年)と2番目の王妃アン・ブーリンの子として生まれましたが、2年半後に母アン・ブーリンが処刑されたため、庶子(私生児)とされました。父の死後11年間を統治した異母弟エドワード6世(1537年~1553年、イングランド王在位:1547年~1553年)と異母姉メアリー1世(1516年~1558年、イングランド・アイルランド女王在位:1553年~1558年)の時代には、彼女は数度にわたって君主への謀反を疑われ、ロンドン塔の逆賊門をくぐり幽閉されるなど苦難の日々を送りましたが、25歳で即位しています。

余談ですが、異母弟エドワード6世は、マーク・トゥエインの「王子と乞食」「王子」のモデルです。

宗教面では中道政策を採り、「国王至上法」「礼拝統一法」を発布して英国国教会を確立させ、カトリックとピューリタンの両者を抑圧しました。

国際紛争に巻き込まれることを極力避け、スペイン国王フェリペ2世(1527年~1598年、在位:1556年~1598年)の求婚を拒み、一生独身を通しました。ちなみにこのフェリペ2世は1584年に日本から来た「天正遣欧少年使節」を歓待しています。

一方1581年、ネーデルランド北部諸州がフェリペ2世の統治権を否認する布告を出したことからオランダとフランスの新教徒をひそかに援助します。これに対してフェリペ2世は北部諸州を支援しているイングランドを叩くために、1588年スペインの無敵艦隊を派遣しますが、イングランドは英仏海峡で行われた「アルマダの海戦」でスペインの無敵艦隊を撃破しました。

内政面では、中産階級を積極的に登用し、困難な社会情勢に多くの立法をもって対処し「楽しきイングランド(merry old England)」と謳歌される時代を実現しました。

文化面ではウィリアム・シェイクスピア(1564年~1616年)やクリストファー・マーロウ(1564年~1593年)らの劇作家による「イギリス・ルネッサンス(演劇)」が開花しました。

軍事面では「アルマダの海戦」でスペインの無敵艦隊を撃破したフランシス・ドレーク(1543年?~1596年)やジョン・ホーキンス(1532年~1595年)など優れた航海士の冒険家たちが活躍しました。

しかし独身であったため、彼女の死によってチューダー王朝は終わり、生涯のライバルであったメアリー・スチュアート(1542年~1587年、スコットランド女王在位:1542年~1567年)の子のイングランド・アイルランド王ジェームズ1世(1566年~1625年、在位:1603年~1625年)(スコットランド王としてはジェームズ6世、在位:1567年~1625年)が即位して、スチュアート王朝となりました。

なお、スコットランド女王のメアリー1世は1567年に廃位されたあと国を追われます。彼女はイングランド王位継承権者であることをたびたび主張したり、エリザベス1世の廃位や暗殺の陰謀に関与したとして、エリザベス1世の命令によってイングランドで処刑されました。

しかし子孫を残さなかったエリザベス1世に対して、メアリーの血は連綿として続き、以後のイングランド・スコットランド王、グレートブリテン王、連合王国の王は全てこのメアリーの直系子孫です。

エリザベス1世とメアリー1世

(2)独身を通した理由

彼女の治世当時は、スコットランドはまだ併合しておらず、彼女はイングランドとアイルランドの女王に過ぎませんでした。しかも地理的にもヨーロッパ大陸と離れた島国で、人口はウェールズを含めて300万人の小国でした。

当時フランスは1500万人、スペインは800万人で大陸の覇権を競っていました。特にスペインは「太陽の沈まぬ国」と言われ、旧大陸・新大陸に広大な領土を持つ帝国でした。ですから、イングランドがスペインの無敵艦隊を破ったのは、極東の小国日本が日露戦争で大国ロシアに勝ったような驚天動地の出来事だったのです。

独身を通した理由としては次のようなことが考えられます。

たとえば、スペイン国王と結婚すれば、親スペイン派と反スペイン派の争いを招いたり、スペインに併合される恐れもあったでしょう。

また、国内の貴族(たとえば寵臣のウォルター・ローリー近衛隊長など)と結婚しても、子供が生まれると王位継承権争いや陰謀に巻き込まれることは必定で、最悪の場合暗殺されたりする恐れもあります。またヨーロッパ諸国の干渉を受けたり戦争を仕掛けられる恐れもあったのでしょう。

そこで彼女は結婚はせず、イギリスの国を守り繁栄させることが自分の使命だと確信したのだと私は思います。

父親のヘンリー8世の離婚にローマ教皇が口出しするなど、宗教界の権力者が国王を上回る力を持つことも許せなかったのだと思います。もともと彼女は信仰心はあまり持っておらず、カトリックにしてもピューリタンにしても宗教界が勢力を伸ばすことは、女王の政治を脅かすものでしかなかったので両者を抑圧し、「英国国教会」(イングランド国教会)を確立したのだと思います。これは「ローマ教皇庁」から独立した「国定キリスト教」といったところでしょうか?

2.ウォルター・ローリー

ウォルター・ローリー

(1)ウォルター・ローリーとは

サー・ウォルター・ローリー(1554年~1618年)は、イングランドの廷臣・軍人・探検家・作家・詩人です。イングランド女王エリザベス1世の寵臣として知られ、新世界アメリカにおけるイングランド最初の植民地を築いた功績があります。彼はこの植民地を、エリザベス1世の通称「処女王」にちなんで、「バージニア」と名付けました。

また彼は軍人として、1580年にアイルランドの反乱鎮圧に功を立てています。

(2)「マント」のエピソード

彼は優雅で才気あふれるハンサムな青年で、「女王がテムズ川下流のグリニッジの宮殿の近くに行幸した時、ちょうど雨上がりで道がぬかるみ、女王が立ち止まったのを見て、自分の新調のマントをさっと広げて女王を汚れずに歩かせた」というエピソードはあまりにも有名です。女王の歓心を得るための見え透いた気障なパフォーマンスではありますが、彼女は彼の機転をたいそう喜んだそうです。

このエピソードについては、今井登志喜東大名誉教授の「サー・ウォルター・ローリー(Sir Walter Raleigh)が『さあ渡(わた)られい』と言った」というジョークがあります。

彼は女王に寵愛されて様々な方面で才能を開花させ、「騎士」の称号を与えられる近衛隊長に任命されます。

しかし、1582年に女王の侍女であるエリザベス・スロックモートンと恋に落ち、女王に無断で結婚してしまったことで逆鱗に触れ、彼の幸運は一気に暗転します。

ローリー夫妻はロンドン塔に幽閉されますが、期間は2カ月と短期間でした。しかし以前のような寵愛を取り戻すことはできませんでした。

(3)植民地開拓事業と金鉱開発事業

そこで女王の信頼と寵愛を取り戻すために、彼は「航海事業(植民地開拓事業)」と「金鉱開発事業」を行います。

1584年の北米探索航海で、東海岸のロアノーク島を植民地化する計画を立て、そこを「バージニア」と名付けました。しかしこの入植計画は、一獲千金を狙って集まった人が多く、痩せた土地で儲け話がないとわかると引き揚げて行ったため、成功しませんでした。

しかしその後、新大陸探索活動を通じて彼は、インカ帝国に興味を持つようになり、様々な情報を集約した結果、「黄金のギアナ帝国」(エルドラド)の存在を確信するようになります。

彼は1595年にギアナ高原奥地の探検に向かいましたが、ジャングルや大河など厳しい自然に阻まれ、思うような成果が出ないまま第一回目の探検を終えました。それでも彼はあきらめずに、引き続き部下をギアナ帝国探検に派遣して情報収集を続けました。

しかし1603年にエリザベス1世が亡くなると、彼を取り巻く環境は激変し、彼は政争に巻き込まれて12年間もロンドン塔に幽閉され、釈放された時は65歳になっていました。

(4)悲劇の最期

それでも彼のギアナへ向かう気力だけは衰えず、探索の航海に出ますが、高齢で病気も抱えていたため、さまざまな綻びが出てきました。

スペインとの摩擦を警戒した新国王ジェームズ1世は探索航海を許可する条件として、彼に「航海中にスペインと武力衝突を起こさないこと」を確約させていました。しかし、部下のロバート・ケイミスが無断でスペイン人を攻め、それを叱責するとロバート・ケイミスは自害してしまいます。多くの部下の信頼が厚かったケイミスが自殺したことで航海の続行は不可能となりました。

帰国後彼は、国王ジェームズ1世との約束違反の廉(かど)で斬首刑に処せられました。

3.クレーヴの奥方

クレーヴの奥方

(1)クレーヴの奥方とは

これはフランスの女流作家ラファイエット夫人(1634年~1693年)の書いた恋愛小説です。16世紀のアンリ2世(1519年~1559年、在位:1547年~1559年)の王宮が舞台で、その時代をきわめて緻密に再現しています。ヒロインほか数人を除く登場人物は実在の人物で、そこで起きる事件も歴史に忠実に展開されています。

あらすじは次のようなものです。

フランス宮廷に完璧な美を備えた女性が現れた。彼女は恋を知らぬままクレーヴ公の求婚に応じ人妻となるが、舞踏会で出会った輝くばかりの貴公子に心ときめく。夫への敬愛、初めて知った恋心、葛藤の日々に耐えられなくなった夫人は、あろうことかその恋心を夫に告白してしまう・・・。

これは、エリザベス1世と何の関係もないように見えますが、そうではありません。

主人公のヌムール公は、エリザベス女王の心を惹きつけて結婚するという政略的使命を帯びてイギリスに派遣されることになっていました。

女王はヌムール公についての輝かしい噂に心を動かされて、公の到着を待ち望みますが、公が出発直前にクレーヴの奥方と運命的な出会いをしてしまうので、女王はついに公に会うことができなくなりました。

これはあくまでも後世の小説ですが、もし史実だとすればエリザベス女王はクレーヴの奥方のおかげでまだ見ぬヌムール公に失恋したことになります。

このような政略的な「求婚攻勢」をエリザベス1世にかけた男性は、スペインのフェリペ2世やウォルター・ローリー以外にも、エリザベス1世の寵臣で一時は女王の愛人となり、結婚も取り沙汰されていたロバート・ダドリー(初代レスター伯爵)(1532年~1588年)がいます。彼は女性問題でしばしば彼女の逆鱗に触れています。特に1578年にレティス・ノウルズと再婚した時の彼女の怒りは激しかったそうです。

また、ヘンリー8世の6番目の王妃でかつ最後の王妃となった富裕な未亡人キャサリン・パー(継母として彼女を屋敷に引き取っていた)と結婚して彼女と親しくなったトマス・シーモア(初代シーモア男爵)(1508年~1549年)も彼女との結婚を狙っていたようです。彼は妻のキャサリン・パーが亡くなるとエリザベスとの結婚によってエドワード6世の摂政である兄のサマセット公爵打倒を図った「トマス・シーモア事件」を起こしましたが失敗し、大逆罪で逮捕されてロンドン塔に投獄され、処刑されました。

その他の愛人と目される人物に、エセックス伯ロバート・デヴルー(1566年~1601年)がいます。彼はイングランドの貴族・軍人で、エリザベス1世の寵臣です。1596年のカディス遠征で軍事的英雄となりましたが、宮廷内でロバート・セシル(1563年~1612年)と対立を深め、1599年の「アイルランド反乱」鎮圧に失敗し失脚しました。復権を期して1601年にセシル排除を狙ったクーデターを起こしましたが失敗し、大逆罪で処刑されました。

そのほかにもヨーロッパ貴族の政略的な求婚者は何人もいたのではないかと思います。

4.「妖精の女王」(神仙女王)

「妖精の女王」(神仙女王)は、エリザベス1世の時代に活躍したイングランドの詩人エドマンド・スペンサー(1552年~1599年)がエリザベス1世に捧げた長編叙事詩で、1~3巻は1590年、4~6巻は1596年、7巻は作者没後の1609年に刊行されました。これはエリザベス1世をモデルにして彼女を称賛した文学作品と言えます。

全部で7巻あります。それぞれ「神聖」「節制」「貞節」「友情」「正義」「礼節」「無常(断片のみ)」を主題として、エリザベス1世を象徴する女性グローリアナ(栄光)に仕える騎士の冒険を、寓意の手法で物語っています。

この詩は音楽的な流麗さと絵画的な豪華さで古くから傑作と評されてきましたが、今日では、キリスト教の信仰と古典哲学の調和をめざす人文主義的な理想を示す作品として、その思想的な面も重視されてきています。

彼は自作の詩で宮廷での地位を得ることを希望し、「妖精の女王」を献上しようと、サー・ウォルター・ローリーに同行して宮廷を訪れました。しかし女王の秘書長官バーリー男爵ウィリアム・セシル(1520年~1598年)を敵に回したため、彼が作品の報酬として得たのはわずかな年金だけでした。そして彼は1599年にロンドンで貧窮のうちに亡くなりました。

ちなみに上記のロバート・デヴルーのクーデターを鎮圧したロバート・セシルは、ウィリアム・セシルの息子です。

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