「歴史は繰り返す」「殷鑑遠からず」について考える

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トゥキディデス

1.歴史は繰り返す

「歴史は繰り返す」という言葉があります。これは「過去に起こったことは、同じような経緯をたどって再び起きるものだということ」「いつの時代も人間の本質に変わりはないため、過去にあったことは、また後の時代にも繰り返して起きるということ」です。

王朝の興亡」も「戦争がなくならない」のも、「いじめが無くならない」のも、「権力が腐敗する」のも、その実例です。

この言葉は、古代ギリシャの歴史家トゥキディデス(B.C.460年頃~B.C.395年)の「戦史(ペロポネソス戦争の歴史)」にある言葉ですが、2400年以上も前にこの事実を喝破していた彼の慧眼には驚くばかりです。なお、古代ローマの歴史家クルティウス・ルフスも「歴史は繰り返す」という言葉を残しています。

トゥキディデスの「戦史」は、同じく古代ギリシャの歴史家ヘロドトス(B.C.484年頃~B.C.425年頃)が「ペルシャ戦争」(B.C.500年~B.C.449年)を中心に書いた「歴史(ヒストリア)」と対比されます。

ヘロドトスの「歴史」が「物語風の歴史」であるのに対し、トゥキディデスの「ペロポネソス戦争」(B.C.431年~B.C.404年)を中心とした「戦史」は、厳密な史料批判を行ってより客観的で正確な記述を心掛けているのが特色です。

彼は「トゥキディデスの罠」という言葉でも有名です。

「トゥキディデスの罠」というのは、アメリカの政治学者グレアム・アリソン(1940年~ )の作った造語で、歴史家トゥキディデスにちなむ言葉です。

トゥキディデスは、約2,400年前、スパルタとアテナイによる構造的な緊張関係及び長年にわたる戦争(ペロポネソス戦争)に言及しています。この言葉の意味は「戦争が不可避な状態まで従来の覇権国家と新興の国家がぶつかり合う現象」を指します。

2.殷鑑遠からず

「殷鑑(いんかん)遠からず」とは、「戒めとなる手本は、古いものや遠くのものを捜さなくても、ごく身近にあるということのたとえ」です。また、身近にある他者の失敗例を自分の戒めにせよということです。「殷」は古代中国の王朝で、「鑑」は「鏡」のことで、手本という意味です。

殷の紂王が滅びたのは、殷の前代の夏の桀王の悪政を戒めとしなかったからだという故事に基づくものです。「詩経・大雅」の詩句「殷鑑遠からず、夏后の世に在り(夏の世に前例がある)」に由来します。

古代中国に「三代」として知られた三王朝(夏・殷・周)があり、興亡を繰り返しました。

「夏(か)王朝」は、賢徳を謳われた建国の始祖「禹(う)王」から約400年、17代目の「桀(けつ)王」で滅亡します。桀王も元来は知力武勇ともに優れた王でしたが、有施氏の国を征伐した時に貢物として贈られた妹喜(ばっき)という美女に溺れて淫楽の日々を送った結果、殷の「湯(とう)王」の「革命」により誅伐されます。

「殷(いん)王朝」は、「湯王」から約600年続きますが、28代目の「紂(ちゅう)王」に至って滅びます。彼も非凡な知力武勇の持ち主でしたが、有蘇氏の国を征伐した時に貢物として贈られたと姐己(だっき)いう美女に溺れて荒淫の生活を送りました。

西伯(後の周の文王)が紂王を諫めた時の言葉が「殷鑑遠からず、夏后の世に在り」です。しかし、紂王はこの諫言を聞く耳を持たなかったため、西伯の子(後の周の武王)が第二の「革命」を起こし、紂王を滅ぼしました。

「周(しゅう)王朝」は、「武王」から数えて10代目の「厲(れい)王」に暴虐の兆しが見えました。側近が諫めましたが聞き入れられず、厲王の末年には不満を爆発させた国人のクーデターによって、中国史上初の「共和制」の時代を現出しましたが、王朝滅亡の危機は切り抜けました。

しかしその後、厲王の孫の「幽王」は、魔性の女性褒姒(ほうじ)に魅せられて愚行を重ね、統一王朝としての周(西周)に終止符を打つことになりました。