「北朝鮮への”帰国事業”知られざる外交戦・60年後の告白」の恐ろしい真実

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帰国事業朝日新聞記事

<2021/10/14追記>脱北者が北朝鮮政府に賠償請求訴訟を起こす

帰還事業で北朝鮮政府に賠償請求訴訟

昭和30年代以降、在日韓国・朝鮮人と日本人の妻などが北朝鮮へ渡った「帰還事業」で、長期にわたって過酷な生活を強いられたなどとして、男女5人が北朝鮮政府に賠償を求めた裁判が14日、東京地方裁判所で開かれました。弁護団によりますと、北朝鮮政府を被告とする裁判が開かれるのは初めてだということです。

訴えているのは「帰還事業」で北朝鮮に渡り、その後、脱北して日本で暮らす男女5人です。

昭和34年から25年続いた「帰還事業」では在日韓国・朝鮮人と日本人の妻などおよそ9万3000人が北朝鮮に渡りました。

5人は当時、十分な食料も提供されず過酷な生活を強いられたなどとして、北朝鮮政府に対し合わせて5億円の賠償を求めています。

2020年8月9日に放送されたNHKBS1スペシャル「北朝鮮への”帰国事業”知られざる外交戦・60年後の告白」を、先日たまたま見て恐ろしい真実に驚愕しました。

北朝鮮の内情については、断片的な情報と朝鮮半島情勢専門家の分析などからある程度知っています。「朝鮮民主主義人民共和国」とは名ばかりの「金王朝」という絶対王政です。

最近の金正恩委員長はソ連の独裁者スターリンのように気に入らない幹部の粛清と処刑を頻繁に行い、金王朝体制に批判的な人民を政治犯収容所に送ったり処刑したりしているようです。

また核開発を続行し、ミサイル発射も繰り返す一方、一般人民は飢餓や貧困にあえいでいるようです。

1.北朝鮮”帰国事業”とは

帰国船

北朝鮮で「帰国事業」と呼んでいるのは、「在日朝鮮人の帰還事業」のことです。1959年から1984年の25年間にわたって行われた在日朝鮮人とその家族による日本から朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への集団的な永住帰国あるいは移住のことです。

93,340人(日本国籍の家族約6,700人を含む)の在日朝鮮人とその家族が北朝鮮に帰国しました。在日人口の6.5人の1人に及ぶ「民族大移動」でした。

2.帰国事業の背景

金日成

帰国事業が始まった当時、在日朝鮮人は国民健康保険にも国民年金にも加入できず、差別でまともな就職口もなく、多くが貧困に喘いでいました。

「単純労働力」を必要とした北朝鮮の金日成政権は1958年、朝鮮総連を使って在日朝鮮人に対し、「発展する社会主義祖国の懐で、建設に参加する」よう帰国を呼びかけました。

朝鮮総連幹部は、北朝鮮を「地上の楽園」だと宣伝して帰国を勧誘しました。

日本社会では、「朝鮮人が祖国に帰る人道事業」という位置づけで、自民党から共産党までの政党、多くの地方自治体、労働組合、文化人が支持・応援しました。

日本政府は、朝鮮人を厄介払いできる好機と見て、推進する立場を取ったようです。

日本と北朝鮮とは国交がなかったため、帰国に関する実務は日本赤十字社と朝鮮赤十字会が行いました。

3.帰国者がたどったその後の運命

朝鮮総連の元工作員の韓光熙氏の著書「わが朝鮮総連の罪と罰」によると、「一家で北朝鮮に渡った場合、土地や工場などの資産は朝鮮総連の所有物になった。寄付をすれば祖国で応分の資産を保障するという誓約書を総連が書いたから。しかし、それは当然守られなかった」そうです。つまり、「財産を巻き上げて騙して連れて行った」ということです。

日本から北朝鮮へ渡る人は「地上の楽園」に行けると信じて船に乗りましたが、北朝鮮に着いた途端に、「話が違う」と直感したそうです。自分たちの方が身なりもよく、健康状態も良いのに、出迎えた北朝鮮の同胞は貧しい身なりで健康状態も良くないようだったからです。

一方、出迎えた北朝鮮の人も、「日本から骨と皮のようにやせ細った哀れな同胞が帰ってくる」と思っていたのに、一目見て自分たちより裕福で栄養状態も良いと分かったから「話が違う」と直感したそうです。

帰国者は、豊富な外貨を持っているので高級品店で贅沢品の買い物などをしたり、北朝鮮での不自由な生活に不平不満を漏らしたりしたため、「資本主義に毒された者」として差別を受けたり、政治犯収容所に送られたりしたそうです。中には処刑された人もいたそうです。

韓国の朴正熙大統領は1965年に日本と「国交正常化」を果たし、日本の経済協力もあって、後に「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を成し遂げました。

一方、独裁体制を強めた金日成は、韓国に対抗するため国防に多額の予算を投じ、経済は停滞して帰国者の生活は苦しくなりました。

北朝鮮の実情が手紙などを通じて日本にも伝わり始め、帰国する人が減る中、1967年に事業は終了します。

しかしその後も、日本赤十字社には北朝鮮への帰国を求める声が寄せられました。このころ日赤にも、北朝鮮の実情は断片的に伝わっていました。

日朝の赤十字社が交渉して1971年に4年ぶりに帰国事業が再開しました。この再開事業では、今まで帰国者を送り出してきた朝鮮総連の幹部やその家族が数多く船に乗るようになりました。

このころになると、帰国者を「単純労働力」としてでなく、彼らが高度経済成長を果たした日本から持ち込む「工業製品や外貨(技術とカネ)」をあてにするようになります。さらに多くの外貨をもたらしたのが、日本に残った家族による「祖国訪問団」です。

この「日本から外貨を取り込む政策」を主導したのが1970年代に表舞台に現れ始めた金正日と言われています。金日成は金正日の後継者としての地位を確立するため、「思想統制」にも力を入れ、1973年には政治犯を取り締まる「国家政治保衛部」を発足させ、反体制派を粛清し、北朝鮮社会に恐怖感を作り出しました。

現在韓国で暮らす元帰国者の年老いた脱北者が、「日本では朝鮮人として差別され、北朝鮮では日本からの帰国者として差別され、韓国では脱北者として差別されるので、友達は一人もいない」と寂しく独白していたのが印象的でした。

なお現在日本には、帰国事業で北朝鮮に渡ったものの、「地上の楽園」とは嘘で、窮乏生活や差別に苦しんだ末に北朝鮮から脱出してきた人が約200人暮らしているそうです。