「麒麟がくる」や「麒麟」にまつわる面白い話

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麒麟日本橋

「麒麟」と言えば、以前であれば「キリンビール」の商標や、東京・日本橋にある「麒麟の像」、あるいはお笑いコンビの「麒麟」ぐらいしか思い浮かばなかったと思うのですが、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」が決定してからは、俄然これがまず思い浮かぶようになるとともに、「本来の意味」が広く知られるようになりました。

1.「麒麟」とは

キリンビール

「麒麟」は古代中国の神話に登場する伝説の想像上の動物(瑞獣)で、「泰平の世に聖人が出現する前兆として現れる」と言われています。「獣類の長」とされ、「鳥類の長」たる「鳳凰」と対比されます。

「礼記」によれば、「王が仁のある政治を行う時に現れる神聖な生き物(瑞獣)」で、「鳳凰」「霊亀」「応竜」とともに「四霊」と総称されています。

このことから、幼少から秀でた才を示す子供のことを「麒麟児」や「天上の石麒麟」などと呼びます。

体形は鹿に似て大きく背丈は5mあって、顔は龍に似ており、蹄(ひづめ)は馬、尾は牛に似て、頭に1本の角がある「一角獣」で、背毛は五色に彩られ、毛は黄色く、身体には鱗(うろこ)があります。一説では、「麒」は雄で、「麟」は雌だとも言われています。

西洋の「ユニコーン」とも少し似ていますね。

ユニコーン絵画ユニコーン

「麒麟」も「ユニコーン」も、実在の動物の「サイ」や「オリックス」から想像を膨らませたのかもしれません。

オリックス

2.「麒麟がくる」の麒麟は誰の前に現れるのか?

織田信長(1534年~1582年)は、麒麟という字を具現化した「花押」(麟の花押)を使用していました。その理由は、信長が将軍足利氏に代わって天下を統一しようという「天下布武(てんかふぶ)」の願望を抱いていたためとされています。

「天下布武」は信長が朱印に用いた印章の印文です。「武」という漢字の構成は「戈(ほこ)」を「止める」となっていますので、「争いや戦いをやめる」という意味があり、この「天下布武」の「武」には「武の七徳」の意が込められているという解釈もあります。

「武の七徳」とは、「①暴を禁じる、②戦をやめる、③大を保つ、④功を定める、⑤民を安んじる、⑥衆を和す、⑦財を豊かにする」というものです。

そういう意味で、「天下布武」は信長の「天下に七徳の武を布(し)く」「天下泰平の世界を築く」という強い意志の現れだったのでしょう。

ただし「武」の「止」を「止める」とする解釈は俗解で、これは「足」の意味で、「戈を持って進む」というのが正解です。ですから、「圧倒的な武力で天下を平定して戦乱を終息させる」と素直に理解すべきだと私は思います。

徳川家康(1543年~1616年)も、「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」という旗印を掲げていました。そして1615年の「大坂夏の陣」で豊臣氏を滅亡させたことで「元和偃武(げんなえんぶ)」を実現しました。

明智光秀(?~1582年)だけでなく、信長も家康も戦乱が果てしなく続く戦国時代を終息させるべく「麒麟がくる」のを待ち望んでいたのでしょう。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、誰の前に現れるストーリーになるのでしょうか?私の予想では「信長の前にも現れ、光秀の前にも現れるものの、彼は夢半ばにして倒れ、最終的に家康の前に現れる」ことになるのでしょう。

3.孔子の「春秋の筆法」と「獲麟」

(1)春秋の筆法(しゅんじゅうのひっぽう)

周王朝後半期の「春秋時代」に生きた思想家孔子(BC552年~BC479年)は、周王朝の衰退を嘆き、魯の哀公にいろいろと建言をしましたが聞き入れられず、周王朝の復活はなりませんでした。

「春秋時代」とは、周王朝の後半期、周が東西に分裂した紀元前770年から大国晋が三国に分裂した紀元前5世紀までの約320年間です。

孔子は晩年、魯の公式記録を整理し、隠公から哀公に至る12代、242年間の出来事について、理非曲直を明らかにしました。その書名が「春秋」です。

孔子は、「諸侯が『王』と称する」のは「周室に対する不遜、不敬」として、呉王・楚王という代わりに呉子・楚子(いずれも子爵)と呼び、また権威を失墜した「周の天子が諸侯に呼ばれて会盟に参加した」ことについては、故意に筆を曲げて「天子が巡狩(じゅんしゅ)した」と書くなど周室の尊厳を取り繕いました。

また彼は、魯の史官が記したものに褒貶を加えて容赦なく筆削しました。

このように仮借ない筆を振るったため、「孔子、春秋を作りて乱臣賊子懼(おそ)る」という言葉が生まれました。

また「春秋の筆法」もこの書物に由来する言葉です。「春秋」の文章は「春秋謹厳」と言われる「厳しい批判的態度による論法」とともに、孔子の「正邪の判断・価値判断が入っている」ことや、「間接的原因を直接結果に結びつけて批判していて論理に飛躍があるように見えるが、一面の真理を突いている」ことから、このような言葉が生まれました。

(2)獲麟(かくりん)

こうして筆を進めた孔子は、「哀公の十四年、西狩(せいしゅ)して麟(りん)を獲(え)たり」で筆を擱(お)き、間もなく73歳で亡くなりました。「筆を獲麟に絶つ」というわけで、ここから「獲麟」は「絶筆」、転じて「物事(あるいは人生)の終わり」の意となりました。

ここで孔子が擱筆(かくひつ)したのは、「麟が聖獣であり、聖天子の治める泰平時にしか出現しないものとされているのに、聖王のいない乱世に出現したことを傷(いた)み、文王・武王・周公の道が再び興らないことを嘆いた」からです。

「哀公の十四年の西狩」というのは、紀元前481年に魯の西の大野沢で狩りが行われた際、叔孫氏の御者が「麒麟」を捕まえたという話です。捕まえた人々は「麒麟」を知らず、神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなし、打ち捨ててしまったということです。