「歴史は勝者によって作られる」「勝者は事実によって裁かれる」

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歴史は勝者によって作られる

「歴史は勝者によって作られる」とよく言われます。一方、「勝者は事実によって裁かれる」とも言われます。

イギリスの元首相、ウィンストン・チャーチルの「History is written by the victors.」(歴史は征服者たちによって書かれる)という言葉も同様の意味です。

今年の大河ドラマの主人公「明智光秀」も、勝者である豊臣秀吉によって「主君の織田信長を討った逆臣」の汚名を着せられたままでした。

最近、「歴史の見直し」によって、歴史上の人物の再評価が行われる傾向があります。

たとえば「田沼意次」や「井伊直弼」「徳川綱吉」「吉良上野介」は、従来は「賄賂政治家」「攘夷派を徹底的に弾圧した大老」「生類憐みの令という悪法を出して庶民を苦しめた将軍」「浅野内匠頭を執拗にいじめた賄賂好きの高家」というマイナスの評価でしたが、「貨幣経済推進で幕府財政再建を図ろうとした有能な政治家」「開国へ舵を切って日本が植民地化されるのを防いだ大老」「動物愛護の草分けで有能な人材を積極的に登用した将軍」「領民へは慈悲深い治水事業の功績もある殿様」といったプラスの評価も出て来ています。

確かに「偉人」と呼ばれる人物の伝記も、かつては「偉人をひたすら賞賛し神格化するだけ」であったのに対し、最近の伝記は「人間味を前面に出して良い面も悪い面も赤裸々に描く」ものが多くなっています。

人間の評価は、「コインの表と裏」と同様で、客観的かつ多面的・多角的に行わなければ真実の姿を捉えることは出来ません

そこで今回は、「歴史は勝者によって作られる」の具体的な例をご紹介したいと思います。

1.大化の改新

日本書紀」は、日本最古の正史で、7世紀に「天武天皇」(?~686年)の命によって編纂が始まり、720年に完成しました。

編纂は当時の中国・唐に倣(なら)って始められたもので、日本が中国にも負けない立派な歴史を持つ国であることを内外に示すことが目的でした。唐からやって来た学者も加わった一大国家プロジェクトです。

日本書紀で有名な場面として、645年の「乙巳の変(いっしのへん)」があります。大化の改新の始まりとなった政変で、「中大兄皇子や中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を殺害し、蘇我氏を滅ぼした」事件です。

蘇我入鹿は、天皇家の乗っ取りを企む危険人物」として「成敗」されました。

勝者である中大兄皇子らが「正義のヒーロー」として歴史にその名を刻んだのに対し、殺害された蘇我入鹿は、「悪事を企んだ逆臣」として後世に語り継がれることになりました。

蘇我氏が4代にわたって悪事を働いていたという記述には事実無根のこともあるようです。蘇我入鹿の父である「蘇我蝦夷が、先祖の墓の前で『八(やつら)の舞』を舞った」とあり、「八佾(やつら)の舞は、中国では天子のみに許された特別な舞で、それを天皇の臣下の分際で舞うとは傲慢だ」と非難していますが、史実では八佾(やつら)の舞がこの時代に日本に伝わっていたという記録はないそうです。

さらに「蝦夷と入鹿親子が、天皇の宮廷を見下ろす甘樫丘に大邸宅を建設した」とも書かれています。そして「天皇の宮廷よりも高い位置に自らの邸宅を建てるとは何とも不遜な態度で、蘇我氏が天皇に成り代ろうとしている」と断罪しています。

しかし2005年に、甘樫丘の邸宅跡とされる地で行われた発掘調査で見つかったのは、武器庫や兵舎と見られる数々の遺構でした。調査の結果、邸宅とされた建物は、外敵から都を守るために見晴らしの良い丘の上に設けられた「公的な要塞だった可能性」が出てきました。蘇我氏が野望を持っていたとされる証拠自体が怪しくなってきたのです。

勝者は自分たちにとって都合の悪い真実を隠すのが常です。

2.徳川家康

1809年、徳川幕府は徳川代々の偉業を伝えるべく、公式の歴史書の編纂を始めました。それが「徳川実紀」です。家康から10代将軍の家治まで517巻にわたってその歴史が記されています。編集の中心人物は儒学者の林述斎と成島司直で、起稿から35年近い事業の末、1844年に完成しています。

その中の「東照宮御実紀」には、神君と呼ばれ神と崇(あが)められる存在となっていた徳川家康の生涯が述べられています。

まず、「出自のうそ」があります。家康の出自は「水尾天皇にある」と書かれています。水尾天皇とは第56代「清和天皇(850年~881年、在位:858年~876年)」のことで、「武門の棟梁」となる「清和源氏の祖」です。

鎌倉幕府の源頼朝をはじめ歴代の征夷大将軍は、清和天皇から始まる清和源氏の流れを汲む者がほとんどです。この家系の者こそ征夷大将軍にふさわしいという認識が当時あったようです。

織田信長や豊臣秀吉が征夷大将軍になれなかったのは、清和天皇の家系ではなかったからで、家康は征夷大将軍になるべくしてなったというわけです。

しかし家康の出自は、三河国松平郷の豪族で、松平の初代は諸国を遍歴する職人だったのではないかと言われています。したがって、清和源氏の嫡流という話は捏造のようです。

もう一つの問題は、主君である豊臣家を滅ぼしたことをどう正当化するかです。家臣が主君を討ったわけですから、本来であれば「逆臣」となります。

1614年の大坂冬の陣では、豊臣方10万に対して徳川方は20万の兵力で大坂城に襲い掛かりました。ところが、真田丸からの激しい攻撃に阻まれて大坂城本丸を攻めあぐね、苦戦していました。

これについて、「いよいよ本丸を潰しましょう」と詰め寄る家臣に対して家康は「太閤の恩を思うと、秀頼を討つのは忍びない。本丸には決して手を出してはならぬ」と答え、「家臣たちは豊臣方に対して見せた家康の人徳に大感激して涙した」と書かれています。

家康の慈悲深い行動によって、あえて本丸を潰さなかったことにしているのです。

1615年の大坂夏の陣で、家康は大坂城を一気に攻め落とし、淀殿と秀頼親子を自害に追い込みました。しかしこれについても、「徳川実紀」では家康の慈悲深い心を強調しています。

戦の最中、豊臣方の使者が徳川の陣を訪れ、城を出たいので乗り物を用意してほしいと依頼して来たと書かれています。家康はさっそく淀殿と秀頼親子の命を救おうと準備に取り掛かりましたが、そうこうしているうちに家臣たちが家康に内緒で城に攻撃を仕掛けてしまったというのです。

驚いた家康が家臣たちに「なぜ攻撃を仕掛けたのか?」と問うと、「生かしておくと後の禍になります。天下の無事には代えられません」と答えたので、家臣たちの天下を思う心に家康は理解を示し、やむを得ず攻撃を認めたことになっています。

「家康は決して権力や天下がほしかったのではない。天下泰平のために涙を飲んで豊臣氏を滅ぼさざるを得なかったのだ」というストーリーになっているのです。

山岡荘八の長編小説「徳川家康」は、従来の「タヌキ親父」的なマイナスイメージではなく、「戦のない世の中を作ろうと真摯に努力する家康」「なんとか大坂の陣を回避し秀頼を助命しようとする家康」「皇室尊崇の念の篤い家康」として描かれています。

「徳川実紀」の立場に立ったような書き方で「家康があまりにもいい人過ぎる」ので、私もこの小説を読んでいて随分戸惑いました。

3.極東軍事裁判

前に書いた「極東軍事裁判」の記事に詳しく述べましたが、連合国が「正義と民主主義」を旗印にした極東軍事裁判は、「勝者による一方的な軍事裁判(Victor’s justice)」です。

公平に「国際法」に照らして、「戦争犯罪」を断罪するのであれば、アメリカにもソヴィエトにも「戦犯」は明らかに存在しますが、「勝てば官軍」で不問に付されました。

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