「虎穴に入らずんば虎子を得ず」ということわざの由来をわかりやすく紹介します

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虎穴に入らずんば虎子を得ず

1.「虎穴(こけつ)に入らずんば虎子(こじ)を得ず」の意味

これは、「危険を避けていては、大きな成功もあり得ない」ということのたとえです。

虎の子を得るためには、虎の住むほら穴に危険を冒して入らなければならないことから、危険を冒さなければ、大きな成功や功名は得られないということです。

2.「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の由来

古代中国の後漢の班超が匈奴との戦いで危機に陥った時、部下を鼓舞するために言った言葉が由来です。

班超

「漢書」を著した「班彪(はんぴょう)(3年~54年)」の息子の「班超(はんちょう)(32年~102年)」は、3人兄弟で、兄の「班固(はんこ)(32年~92年)」と妹の「班昭(はんしょう)(45年?~115年?)」は、父を助けて「漢書」を完成させました。

班超は、この一家ではちょっと変わった毛色の存在でした。なかなか勇壮活発な生まれつきで、およそ系統だった学問とは縁がなさそうに思われるのに、いざとなると意外に弁舌が立つし、書物もたくさん読んでいました。

もともと清貧で有名な家柄のうえに、父親が膨大な史料集めに家産を傾けてしまっていたので、班超もこと志と違って退屈な役所勤めで文書を書き写す仕事をして親を養っていました。

そして時に、「男と生まれたからには、『傅介子(ふうかいし)』(漢の昭帝の時、西域鎮圧に功を立てた人物)や『張騫(ちょうけん)』(漢の武帝の時、匈奴の勢力を駆逐して西域諸国を服属させた人物)のように、西域で手柄を立てたいものですね。それで大名に取り立てられれば、わが志なれりです。いつまでもこんなつまらない事務なんか執(と)っていられません」と、平凡な事務屋の度肝を抜くような大言壮語を吐いていました。

こんな調子なので、小役人など尋常に勤めあげられるはずもなく、免職となって浪人生活に入ります。それからは、西域往来の商人や、気概を尊ぶ遊侠の士と交わり、静かに機会が来るのを待っていました。

73年、明帝は竇固(光武帝の孫)を大将として北匈奴征伐に乗り出し、班超は仮司馬として従軍しました。

41歳になっていた班超は、匈奴との戦いで西域に武名を轟かせました。そこで竇固はその知識と能力を認めて、彼を34名の部下とともに西域諸国へ使者として派遣しました。

本土に一番近いオアシス国鄯善(楼蘭)に行った時、初めは手厚い待遇を受けましたが、ある日手のひらを返すように急に待遇が悪くなりました。給仕女も眼の青い美姫から中年の田舎女に代わっていました。

使者の一同はただあっけに取られてぶつぶつ不平を並べるばかりでしたが、班超ははたと膝をたたいて言いました。「我々には隠しているが、さては匈奴の使者が来たに相違ない!」

さっそく、王城へ壮士の一人を走らせ、王の信任厚い侍従を呼び寄せると、「匈奴の使者はどこにいる?」と鎌をかけて聞き出し、奥の間へ押し込みました。

そして36人の壮士を全員大広間に集め、盛大な宴を張りました。ここで、「新たに匈奴の使者が到着して、王が彼らに誼(よしみ)を通じている」という事実を告げて、「それからの我々に対する冷遇は諸君承知の通り。手を拱(こまぬ)いてこのまま鄯善の術中に陥り、匈奴の国に送られ、狼の餌食になどなっていられようか?意見のある者は誰でもよい、遠慮なく言ってみよ」と言いました。

一座の重苦しい沈黙を破って、頭立った者が一人にじり出て、「もともとあなたに命は預けてある。お役に立つならどんなことでも」と言ったので、班超はひとわたり睨みまわして「虎穴に入らずんば虎子を得ず、匈奴の宿舎に火を放って夜襲を仕掛けよう。味方がわずか36人の無勢とは夢にも思わない奴らは、上を下への大騒ぎとなろう」と部下を鼓舞しました。

この言葉に応じて、それぞれ武器を持った命知らずの壮士たちは闇の中に消えて行きました。折から吹き募る風に乗じて、鼓を持った10人が匈奴の宿舎の後ろに隠れ、あとの者は門の両脇に伏せました。

火が上がると同時に鼓を鳴らして鬨(とき)の声をあげ、数倍の敵を皆殺しにしました。鄯善が屈服したのは言うまでもありません。

これは、「後漢書」班超伝にある話です。