高野辰之とのコンビで多くの小学唱歌を作曲した岡野貞一とは?分かりやすく紹介

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岡野貞一

前に、日本人に馴染み深い小学唱歌を作詞した「高野辰之」の記事を書きましたが、今回は、彼とコンビを組んで多くの小学唱歌を作曲した「岡野貞一」についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.「岡野貞一」とは

岡野貞一(1878年~1941年)は、鳥取県出身の作曲家です。士族の子として生まれましたが、幼少期に実父を亡くし、貧困の中に育っています。1892年に洗礼を受け、翌年岡山の教会で宣教師アダムス女史からオルガンの演奏法を習っています。

彼は、1892年に東京音楽学校校長の村岡範為馳が鳥取市で行った講演に感銘を受けて、1895年に上京して東京音楽学校に入学し、1900年に卒業しています。

その後東京音楽学校の教授となり、音楽教育の指導者育成に尽力しました。また文部省編纂の尋常小学唱歌の作曲委員も務めました。

彼は熱心なキリスト教信者で、63歳で亡くなるまで、本郷中央教会のオルガニストと聖歌隊の指揮者を40年間も務めています。

2.岡野貞一の作品

前の記事でご紹介した高野辰之とコンビで作った「故郷(ふるさと)」「春の小川」「朧月夜」「紅葉」「春が来た」などの作品が有名ですが、そのほかには次のようなものがあります。

上に挙げた彼が作曲した唱歌は、高野辰之の歌詞の内容の影響も大きいため「日本の原風景」「日本人の心のふるさと」を思い起こさせる曲のように言われますが、「賛美歌」の影響を強く受けています。

「故郷(ふるさと)」のメロディーは三拍子の賛美歌とよく似ています。

(1)桃太郎(作詞者:不詳)1911年(明治44年)尋常小学唱歌

(2)児島高徳(作詞者:不詳)1914年(大正3年)尋常小学唱歌

なお、彼はこれらの「小学唱歌」のほかに、多くの「校歌」も作曲しています。日本内地はもちろん、樺太・台湾・朝鮮・満州まで160を超える校歌があります。森繁久彌や橋下徹の母校である大阪府立北野高校(旧制北野中学)の校歌(作詞:土井晩翠)も1915年(大正4年)に彼が作曲しました。

3.高野辰之とは作詞・作曲の名コンビ

歌曲は、傷ついた人の心を癒したり、勇気づけたり、懐かしい気持ちを呼び起こしたりする不思議な力を持っています。

「詩」と「メロディー」は、一概にどちらが優位にあるかといった優劣を付けることはできません。ただ私は個人的には「メロディー」の比重の方が高いと思っています

「作詞」と「作曲」は車の両輪とでも呼ぶべきもので、高野辰之とのコンビで作った小学唱歌も、どちらが欠けても、「日本人の愛唱歌」「日本人の心の歌」にはならなかったでしょう。

ビートルズやカーペンターズ、ボブ・ディラン、ビリー・ジョエルなどの外国の曲は、歌詞の内容がよくわからなくても、美しいメロディーで日本人に親しまれているという側面はあります。戦後洪水のように入って来たアメリカンポップスも、歌詞の意味はわからなくても、ノリの良さで人気があったとも言えます。意味がよくわからない歌もあることはあります。

交響曲や協奏曲、独奏曲などの器楽曲もありますが、歌があってそれに曲を付ける声楽曲の場合は、本来は優れた詩(作詞)があって、それにふさわしい作曲が融合した時に、多くの人の心に響くのではないかと思います。

作詞作曲の両方を一人でこなすシンガーソングライターの場合は、最初にメロディーが頭に浮かんで、後でワードを付けることもあるようですが・・・

蛇足ですがかつて歌謡曲の世界で、「永輔」「中村大」という作詞・作曲の名コンビがいました。彼らの曲を「坂本」が歌って「上を向いて歩こう」(英題「SUKIYAKI」)という世界的大ヒットを出しました。それぞれの名前の数字から「六八九トリオ」と呼ばれました。

また、「永六輔」「中村八大」の二人は「六八コンビ」と呼ばれ、「黒い花びら」「遠くへ行きたい」「こんにちは赤ちゃん」「帰ろかな」などの名曲を生み出しました。

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