俳聖・松尾芭蕉を批判した勇気ある上田秋成・正岡子規・芥川龍之介・嵐山光三郎

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松尾芭蕉

松尾芭蕉(1644年~1694年)と言えば、「奥の細道」で有名な「俳聖」ですが、芭蕉を批判した勇気ある人々がいます。

歴史上の人物や芸術家、文化人の評価については、盲目的に崇拝するような一面的な高い評価ばかりでなく、批判的な目で多面的に見ることも大切だと思います。

そこで今回は芭蕉を批判した上田秋成・正岡子規・芥川龍之介・嵐山光三郎について、その内容をわかりやすくご紹介したいと思います。

1.上田秋成

上田秋成

(1)上田秋成の批判

上田秋成はもともと「俳諧師」として出発し、与謝蕪村(1716年~1784年)などとも交流がありました。その後、国学に転向し、読本(よみほん)作家として活躍しました。

彼は「奥の細道の旅を大名旅行と揶揄し、芭蕉や芭蕉の生きざまを「決してその人生を学んではいけない人」と酷評しています。

彼は城崎温泉の旅行記「去年の枝折」の中で、芭蕉と同時代の人で元談林派で伊丹派の俳諧師・上島鬼貫(うえしまおにつら)(1661年~1738年)を高く評価していますが、芭蕉については次のような趣旨の批判をしています。

芭蕉が憬れた「漂泊の詩人」の西行や宗祇は、自らの意思で旅に出たのではなく、乱世ゆえのやむにやまれぬ旅であった。しかし芭蕉の旅はそうではなく、単なる「懐古趣味」であった。

つまり、「太平の世に、いにしえに憧れて浮かれて歩き回った変わり者」という辛辣な見方です。

ちなみに上島鬼貫は、蕉門の広瀬惟然や八十村路通とも親交があり、彼らを通じて芭蕉とも親交を持ちました。1718年に刊行した「獨言(ひとりごと)」の中で、「まことの外に俳諧なし」と述べ、「東の芭蕉、西の鬼貫」と称されました。

(2)上田秋成とは

上田秋成(1734年~1809年)は、江戸後期の国学者、浮世草子・読本作家、俳諧師で大坂生まれです。

読本「雨月物語」「春雨物語」、随筆「肝大小心録」、歌文集「藤簍冊子(つづらぶみ)」などで知られています。

なお彼は、本居宣長(1730年~1801年)とは「古代音韻」「皇国主義」をめぐって論争を行っています。

2.正岡子規

正岡子規

(1)正岡子規の批判

正岡子規は、「俳句革新運動」の中で「芭蕉批判」を展開しました。彼は「芭蕉雑談」の中で、芭蕉の高名な俳句を次々と批判しました。芭蕉の業績を全面的に否定したわけではありませんが、芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性が欠けていると批判しました。

芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗と称すべきものは其の何十分の一たる少数に過ぎず」と一刀両断し、芭蕉の残した千句あまりのうち、良い句と言えるのは二百句程度に過ぎないと断定しています。「古池や蛙飛び込む水の音」などはあまりに知られ過ぎて「かえって陳腐である」と指摘しています。

ただ彼が最も批判したかったのは、「盲目的な芭蕉信奉者」や、「芭蕉を金儲けに利用する俳諧宗匠たち」であり、芭蕉に対しては一定の評価もしていたようです。

彼は、芭蕉をただただ有難がり崇拝する風潮を批判し、「偶像破壊」にチャレンジしたわけです。

一方で彼は、それまで十分に認められていなかった与謝蕪村(1716年~1784年)の俳句を賞揚しました。蕪村の俳句が技法的に洗練されており、鮮明な印象を効率よく読者に伝えている点を高く評価しました。

(2)正岡子規とは

正岡子規(1867年~1902年)は、愛媛県生まれの俳人・歌人で夏目漱石(1867年~1916年)の親友としても有名です。

俳諧の新たな史的考察によって「俳句革新」を志し、次いで「歌よみに与ふる書」を発表して「短歌革新」に乗り出しました。

与謝蕪村の絵画的で自在な句境を学んで俳句に自然を描写する写生の重要性を悟り、俳誌「ホトトギス」に拠って「写生による新しい俳句」を指導しました。

3.芥川龍之介

芥川龍之介

(1)芥川龍之介の批判

芥川龍之介は、「続芭蕉雑記」の中で、芭蕉を「日本の生んだ三百年前の大山師」(「山師」とは「詐欺師」のこと)と評しています。

 芭蕉の伝記は細部にわたれば、未だに判然とはわからないらしい。が、僕は大体だけはしもに尽きてゐると信じてゐる。――彼は不義をして伊賀を出奔しゆつぽんし、江戸へ来て遊里などへ出入しながら、いつか近代的(当代の)大詩人になつた。なほ又念の為につけ加へれば、文覚もんがくさへ恐れさせた西行さいぎやうほどの肉体的エネルギイのなかつたことは確かであり、やはりわが子を縁から蹴落した西行ほどの神経的エネルギイもなかつたことは確かであらう。芭蕉の伝記もあらゆる伝記のやうに彼の作品を除外すれば格別神秘的でも何でもない。いや、西鶴の「置土産おきみやげ」にある蕩児たうじの一生と大差ないのである。唯彼は彼の俳諧を、――彼の「一生の道の草」を残した。……
最後に彼を生んだ伊賀の国は「伊賀焼」の陶器を生んだ国だつた。かう云ふ一国の芸術的空気も封建時代には彼を生ずるのに或は力のあつたことであらう。僕はいつか伊賀の香合かうがふ図々づうづうしくも枯淡な芭蕉を感じた。禅坊主は度たび褒める代りにけなす言葉を使ふものである。ああ云ふ心もちは芭蕉に対すると、僕等にもあることを感ぜざるを得ない。彼は実に日本の生んだ三百年前の大山師だつた。

しかし、彼は芭蕉を全面否定しているのではなく、彼が天才であることを認めつつ、「現実には名声を求めているのに、名聞を求めていないという姿勢を皮肉っているようです。

また、「芭蕉の句」というだけで「優れている」と思い込み、有難がることは、文芸の衰弱につながると考えたようです。

「芭蕉雑記」に次のような文章があります。

 芭蕉は一巻の書も著はしたことはない。所謂芭蕉の七部集しちぶしふなるものもことごとく門人の著はしたものである。これは芭蕉自身の言葉によれば、名聞みやうもんを好まぬ為だつたらしい。
曲翠きよくすゐとふ発句ほつくを取りあつめ、集作ると云へる、此道の執心しふしんなるべきや。をういはく、これ卑しき心よりわが上手じやうずなるを知られんと我を忘れたる名聞よりいづる事也。」
かう云つたのも一応は尤もである。しかしその次を読んで見れば、おのづから微笑を禁じ得ない。
「集とは其風体ふうたいの句々をえらび、我風体と云ふことを知らするまで也。我俳諧撰集の心なし。しかしながら貞徳ていとく以来其人々の風体ありて、宗因そういんまで俳諧をとなへ来れり。しかれどもわがいふところの俳諧は其俳諧にはことなりと云ふことにて、荷兮野水かけいやすゐ等に後見うしろみして『冬の日』『春の日』『あら野』等あり。」
芭蕉の説に従へば、蕉風の集を著はすのは名聞を求めぬことであり、芭蕉の集を著はすのは名聞を求めることである。然らば如何なる流派にも属せぬ一人立ちの詩人はどうするのであらう? 且又この説に従へば、たとへば斎藤茂吉氏の「アララギ」へ歌を発表するのは名聞を求めぬことであり、「赤光」や「あら玉」を著はすのは「これ卑しき心より我上手なるを知られんと……」である!
しかし又芭蕉はかう云つてゐる。――「我俳諧撰集の心なし。」芭蕉の説に従へば、七部集の監修をしたのは名聞を離れた仕業である。しかもそれを好まなかつたと云ふのは何か名聞嫌ひの外にも理由のあつたことと思はなければならぬ。然らばこの「何か」は何だつたであらうか?
芭蕉は大事の俳諧さへ「生涯の道の草」と云つたさうである。すると七部集の監修をするのも「くう」と考へはしなかつたであらうか? 同時に又集を著はすのさへ、実は「悪」と考へる前に「空」と考へはしなかつたであらうか? 寒山かんざんは木の葉に詩を題した。が、その木の葉を集めることには余り熱心でもなかつたやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千余句の俳諧は流転るてんに任せたのではなかつたであらうか? 少くとも芭蕉の心の奥にはいつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかつたであらうか?
僕は芭蕉に著書のなかつたのも当然のことと思つてゐる。その上宗匠の生涯には印税の必要もなかつたではないか?

(2)芥川龍之介とは

芥川龍之介(1892年~1927年)は、夏目漱石によって才能を見出された小説家です。東大在学中に菊池寛らと第三次「新思潮」を創刊しました。没後、菊池寛によって「芥川賞」が設けられました。「羅生門」「鼻」「河童」「蜘蛛の糸」などの作品があります。

4.嵐山光三郎

嵐山光三郎

(1)嵐山光三郎の批判

嵐山光三郎は、「悪党芭蕉」の中で、「芭蕉は観念が先行する人で、旅をしても風景などはさして見ず、彼の頭の中の杜甫や西行の詩を見立てた」と述べています。

徳川綱吉の「生類憐みの令」に迎合するように「蛙合(かわずあわせ)」の句会を催すなど「芭蕉は時流に乗る天才的直感があった」とも述べています。

また、ほとんどの芭蕉評伝は、芭蕉を最高指導者として捉える結果、芭蕉に離反した俳人を脱落者として断罪する傾向にあります。芭蕉は自らも言うように風狂の人で聖人君子ではなく、悪党の貫禄があり、少しでも癪に障る弟子を虫けらのように見捨てたそうです。

芭蕉のもっとも有名な俳句である「古池や蛙飛び込む水の音」もフィクションだそうです。この句は「蛙を題材にした句合(くあわせ)」という句会で詠まれたものであり、正岡子規の提唱した「写生俳句」ではありません。

芭蕉が初めに「蛙飛び込む水の音」という下の句を提示して、上五の句を門人たちに考えさせておき、宝井其角が「山吹や」と置いたのを受けて、「古池や」に定めたというのが真相のようです。

芭蕉は和歌的な伝統を持つ「山吹といふ五文字は、風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして實(まこと)也。山吹のうれしき五文字を捨てて唯古池となし給へる心こそあさからぬ」ということです。

「荒海や佐渡に横たふ天の河」も、芭蕉が実際に見た景色ではなく、想像上の「幻視」です。「曾良日記」によると、この句を詠んだ夜は雨が強く降り、佐渡も天の河も見えなかったそうです。

そういえば「五月雨を集めて早し最上川」という有名な句も、最初「句会」で「五月雨を集めて涼し最上川」と詠んだものを、最上川の川下りを実際に体験した後に、その急流の実感から「早し」に推敲したものです。

(2)嵐山光三郎とは

嵐山光三郎(1942年~ )は、編集者・作家・エッセイストです。

タモリ司会のテレビ番組「今夜は最高!」に、「月間ドリブ」の宣伝も兼ねて出演しました。これがきっかけで、1982年からは「笑っていいとも!増刊号」(フジテレビ)に編集長としてレギュラー出演しました。

5.「松島やああ松島や松島や」の作者は芭蕉ではない(私の個人的な蛇足)

蛇足ながら、上の俳句は松尾芭蕉の句として有名です。松尾芭蕉が松島を訪れた際、「あまりの美しさに言葉が浮かばずこう詠むしかなかった」という逸話が残されています。

しかし近年の研究の結果、この句の作者は松尾芭蕉より後の時代の江戸時代後期の狂歌師・田原坊(たわらぼう)だということがわかりました。

いかに松尾芭蕉という「ネームバリュー」に惑わされて、人々がこのような駄句を立派な俳句として有難がることを示す典型的な例です。

芭蕉の松島への憧れは強く、『奥の細道』の冒頭でも「松島の月先心にかゝりて」と述べ旅を始めるほどでしたが、なぜかこの中では松島に関する俳句を残していませんでした。

どうやらその場で句が思い浮かばなかったのは事実のようで、句は詠んだものの風光明媚な松島に釣りあうものができなかったともいわれています。

桜田周甫の記した『松島図誌』という現代でいうと旅行ガイドブックに、田原坊の「松嶋や さてまつしまや 松嶋や」という句が収められています。

当時は松島の宣伝用のキャッチコピーとしてつくられたものでしたが、「さて」を「ああ」に変えられ、芭蕉が詠んだ句として広まってしまったのが真相のようです。

同書には、「芭蕉が松島の絶景に圧倒され句を詠めなかった」というエピソードも掲載されたため、この句の作者が松尾芭蕉だと混同して今に伝えられたのかもしれません。

なお、小説家の司馬遼太郎は、紀行集『街道をゆく』「仙台・石巻」の中で、「松島や ああ松島や 松島や」の句が芭蕉作として松島の看板などの観光資料に記されていることに対し、松島の観光関係者を批判しています。

ちなみに、この句には俳句の基本ともいえる「季語」が含まれていません。このように季語や季節感を持たない俳句のことを「無季俳句」と呼びます。

松尾芭蕉の門人・向井去来は著書『去来抄』の中で、次のように述べています。

先師曰く、発句も四季のみならず、恋、旅、離別等、無季の句もありたきものなり。(芭蕉は、恋、旅、離別などを詠む場合は、無季の句があってもよいのではないかといった)

事実、松尾芭蕉もいくつかの無季俳句を残しており、「徒歩(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」などがあります。


悪党芭蕉 上[本/雑誌] (大活字本シリーズ) (単行本・ムック) / 嵐山光三郎/著

悪党芭蕉 下[本/雑誌] (大活字本シリーズ) (単行本・ムック) / 嵐山光三郎/著

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