尾崎放哉はなぜエリートサラリーマンの職を捨てて漂泊の俳人になったのか?

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尾崎放哉

前に「自由律俳句」で有名な行乞放浪の俳人「種田山頭火」の記事を書きましたが、山頭火が敬愛した俳人に尾崎放哉があります。

今回は、「なぜ尾崎放哉はエリートサラリーマンの職を捨てて漂泊の俳人になったのか?」について考えてみたいと思います。

1.尾崎放哉の生涯

「尾崎放哉(おざきほうさい)」(1885年~1926年)は、鳥取県出身の自由律俳句の俳人で、本名は尾崎秀雄です。

「自由律俳句」の俳人で「層雲」を主宰した「荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)」(1884年~1976年)の門下で、同門には「種田山頭火(たねださんとうか)」(1882年~1940年)がいます。

14歳の頃から俳句を作り始め、中学の校友会雑誌に俳句・随想・短歌を発表しています。17歳で入学した旧制一高では「一高俳句会」に参加し、荻原井泉水を知ります。

一高では夏目漱石の英語の授業を受け、漱石に傾倒しています。余談ですが、「巌頭之感」を残して華厳の滝に投身自殺した一高生藤村操とは同学年です。

東大法学部を卒業後、東洋生命保険(現・朝日生命保険)に入社し、大阪支店次長を務めるなど出世コースを進み、豪奢な生活を送るエリートサラリーマンでした。

26歳で結婚していますが、酒乱と不義理を繰り返すようになり、35歳の時、東洋生命保険を退社しています。

37歳の時、新しく出来た朝鮮火災海上保険の支配人として京城に赴任しますが、禁酒の約束を守れず翌年5~6月頃に解雇されています。7月に満州に赴き事業で再起を期しますが、8月に肋膜炎のために満鉄病院に2カ月入院の後帰国しています。

そして38歳の時突然それまでの生活を捨てて、妻とも離婚し、無所有を信条とする「一燈園」(*)に住み、俳句三昧の生活に入りました。

(*)「一燈園」とは、西田天香によって明治末期に設立された京都市山科区に本拠を置く「懺悔奉仕団体」です。「大自然に許されて活(い)きる」「さまざまな競い合いや争いごとをせず、裸一貫、無所有であっても、我執を捨てて生きることに感謝し、それを奉仕という形で社会に還元すれば、人はおのずと活(い)かされる」というのが信条です。

なお、彼が在園当時は京都東山の鹿ケ谷にありました。

その後、寺男を転々として糊口をしのぎながら、最後は荻原井泉水の紹介で小豆島の西光寺奥の院の「南郷庵」に入り、極貧の中でひたすら自然と一体となる安住の日を待ちながら俳句を作る人生を送りました。

旅を続けて句を詠んだ「動」の種田山頭火に対し、彼は「静」の中に無常観と諧謔性、洒脱味に裏打ちされた句を作りました。

癖のある性格から周囲とのトラブルも多く、その気儘な暮らしぶりから「今一休」と称されました。

2.尾崎放哉の自由律俳句

彼の俳句は孤独感が滲み出たものが多いようです。

・咳をしても一人

・雨の幾日かつづき雀と見てゐる

・あらしがすっかり青空にしてしまった

・一日物云はず蝶の影さす

・うそをついたやうな昼の月がある

・風吹く家のまはり花無し

・鐘ついて去る鐘の余韻の中

・旧暦の節句の鯉がをどって居る

・栗が落ちる音を児と聞いて居る夜

・こんなよい月を一人で見て寝る

・障子しめきって淋しさをみたす

・新緑の山となり山の道となり

・すでに秋の山山となり机に迫り来

・たった一人になりきって夕空

・つくづく淋しい我が影よ動かして見る

・一本のからかさを貸してしまった

・流るる風に押され行き海に出る

・障子開けておく海も暮れきる

・墓のうらに廻る

・足のうら洗へば白くなる

辞世の句は「春の山のうしろから烟(けむり)が出だした」です。

3.なぜ尾崎放哉はエリートサラリーマンの職を捨てて漂泊の俳人になったのか?

「癖のある偏狭な性格」で「周囲とのトラブルを繰り返した」そうです。彼は自閉症やアスペルガー症候群のような「コミュニケーション障害」があったようです。

また「酒乱で、酒を飲むとよく暴れ、周囲を困らせた」そうです。彼は酒がやめられず、勤務態度も気儘であったため、会社を退職に追い込まれたようです。

妻に「一緒に死んでくれ」と頼んだこともあり、呆れた妻は彼のもとを去り、保険会社の寮母として一生を送ったそうです。

彼は、種田山頭火のような行乞放浪の旅をしたのではなく、寺男などを転々としていました。一か所で長く続かず、寺を追われたりしたためです。

晩年の8カ月を寺男として暮らした小豆島の西光寺でも、島の人の評判は極めて悪かったそうです。「金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける」迷惑な人物だったようです。

それでも、島の素封家で俳人の井上一二(いのうえいちじ)と寺の住職らが支援し、臨終まで看取ったそうです。

このように、彼は「酒乱」と「偏狭な性格」で社会と折り合いがつかなくなり、遁世して「寺男」となってからもうまく人間関係を作ることができず、寺の人と衝突を繰り返して寺を転々とするなど「破滅型の人生」「転落人生」だったようです。