大阪の「面白い地名の由来」(その2)

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神農さん

前にも同じタイトルの記事を書きましたが、もう少しご紹介したいので、続編を書きます。

今回も、大阪の中心部の「通り」の地名の由来についてお話したいと思います。

大阪では、南北に走る街路を「筋」(合計13本)と呼び、東西に走る街路を「通(とおり)」(合計23本)と呼びます。今回は、大阪の中心部「船場」の中にある「通」の名前についてご紹介したいと思います。「通」は「〇〇町通」と呼ばれますが、この場合「町」は「ちょう」ではなく、「まち」と読みます。

1.道修町(どしょうまち)

「道修町」と言えば、製薬会社が軒を連ねる「薬の町」として知られています。

この通りには、「神農(しんのう)さん」という愛称で親しまれている「少彦名(すくなひこな)神社」があります。祭神は、薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神ですが、薬の神として健康増進、交易の神として商売繁盛の神徳があるとされています。

この少彦名神社は、江戸時代にこの地にあった薬種問屋の団体が、京都の五條天神社から少彦名命(すくなひこのみこと)の分霊を勧請して建てたのが起源です。

「神農祭」が毎年11月22日・23日の両日に行われ、道修町一帯に露店が立ち並びます。

地名の由来は、このあたりに「道修寺」という寺院があったという説と、江戸時代初期に「北山道修」という薬学者がいたという説があります。

2.平野町(ひらのまち)

地名の由来は、隣接する淡路町にある御霊神社(ごりょうじんじゃ)の祭神が百済氏の出身である早良親王(さわらしんのう)と言われており、京都の平野神社(桜で有名)が百済氏を祀っていることからです。

3.淡路町(あわじまち)

地名の由来は、淡路島出身者が多かったからという説が有力です。大坂城の城下町が整備される過程で、淡路島から移住してきた人が多く住み着いたからというものです。

もう一つ面白い説があります。明治時代に文楽座が現在の淡路町のある船場に置かれましたが、文楽は淡路島仮屋出身の植村文楽軒が始めたものだからというものです。ただ、この地名は江戸時代からあるので正しくないと思います。

4.瓦町(かわらまち)

地名の由来は、はっきりしたことはわかりませんが、ほかの地域の「瓦町」の由来を見ると、「瓦焼師」が多く住んでいた地区というのが多いので、多分そこから来ているのだと思います。

大阪に限って言えば、「瓦町」の通りのすぐ北の通りが「淡路町」なので、瓦の産地として有名な「淡路島出身の瓦焼師」が多く住んでいたことはほぼ間違いないと私は思います。「淡路瓦」は、知る人ぞ知る400年の歴史を刻んだ「伝統工芸的地場産業」です。

蛇足ですが、日本の瓦の三大産地は、愛知県・西三河地方の「三州(さんしゅう)瓦」、島根県・石見(いわみ)地方の「石州(せきしゅう)瓦」、兵庫県・淡路島の「淡路瓦」です。

5.備後町(びんごまち)

地名の由来は、はっきりしたことはわかりませんが、大坂城の城下町が整備される過程で、「備後国」(現在の広島県)から移住してきた人が多く住み着いたからだと思います。

6.安土町(あづちまち)

地名の由来は、大坂城の城下町が整備される過程で、「安土町」(現在の滋賀県)から移住してきた人が多く住み着いたからです。豊臣秀吉が大阪の商業振興のために近江商人を集団移住させたとどこかで読んだことがあります。

7.久宝寺町(きゅうほうじまち)

地名の由来は、このあたりに「久宝寺」という寺院があったという説と、道頓堀川が開削された際に、河内(現在の八尾市)の久宝寺から多くの人夫が来て、この地に集落が出来たためという説があります。

8.博労町(ばくろうまち)

地名の由来は、このあたりに牛馬の売買を生業とする「博労」が多く住んでいたからです。