大奥で権勢を振るった「春日局」とはどのような人物だったのか?その生涯を辿る

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大原麗子春日局

「春日局」と言えば、私は大原麗子(1946年~2009年)が主演した1989年のNHK大河ドラマ「春日局」を思い出します。

三代将軍徳川家光が疱瘡に罹った時に昼夜を問わず献身的に看病した姿が特に印象に残っています。一方で、大奥で権勢を振るったと言われる「春日局」とは一体どのような人物だったのでしょうか?

そこで今回は春日局の生涯についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.春日局(かすがのつぼね)とは

春日局

「春日局」(本名:斎藤福)(1579年~1643年)は、三代将軍徳川家光(1604年~1651年、将軍在職:1623年~1651年)の乳母です。「春日局」とは朝廷から下賜された称号です。

稲葉正成の妻で、息子に正勝・正定・正利がおり、養子に堀田正俊がいます。

江戸城「大奥」の礎を築いた人物で、松平信綱・柳生宗矩とともに家光を支えた「鼎の脚(かなえのあし)」の一人に数えられています。

また、朝廷との交渉の前面に立つなど当時の女性政治家として随一の存在で、徳川政権の安定化に寄与しました。

(1)生い立ち

父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で、最初「稲葉良通(一鉄)」(1515年~1589年)に仕え、後に明智光秀の重臣となった「斎藤利三(さいとうとしみつ)」(1534年~1582年)で、母は稲葉良通の娘・安(稲葉良通の姉の娘・於阿牟(おあむ)との説もあり)です。

彼女は父の所領であった丹波国・黒井城の下館で生まれました。彼女は黒井城主の姫として幼少期を過ごしました。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも斎藤利三が稲葉良通(一鉄)と喧嘩別れして、明智光秀を頼って家臣になったことが描かれていましたね。

父・斎藤利三は、明智光秀に従って「本能寺の変」で織田信長を討ちましたが、「山崎の戦い」で羽柴秀吉に敗れ、坂本城下の近江国堅田で捕えられ処刑されました。他の兄弟は落ち武者となって各地を流浪しました。

(2)幼少期から稲葉正成の妻となるまで

そのため、彼女は母方の実家である稲葉家に引き取られ、成人するまで美濃国・清水城で過ごし、母方の親戚の三条西公国に養育されました。ここで公家の素養である書道・歌道・香道などの教養を身につけました。後の朝廷との交渉に役立つことになります。

その後、伯父の稲葉重通(?~1598年)の養女となり、重通の養子で小早川秀秋の家臣だった稲葉正成(1571年~1628年)の後妻となりました。

正成は1600年の「関ヶ原の戦い」において、平岡頼勝とともに徳川家康に内通し、主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者でした。

ここで家康との接点につながるものができたと言えます。

(3)家光の乳母へ

1602年に秀秋が死去して小早川家が断絶すると、正成は浪人となりました。

1604年に京都所司代・板倉勝重によって、家康の嫡孫・竹千代(後の徳川家光)の乳母の募集が行われると、彼女はこれに志願して採用されました。

すると正成は彼女を離縁しました。その経緯については諸説あります。いずれにしても、彼女が竹千代の乳母になったことが、夫の仕官・立身出世に少なからず貢献したことは間違いありません。

①正成が側室を作ったと知って、彼女が激怒したとする説

なお、彼女は離縁する際に、正成が寵愛した側室を刺殺したとも言われています。本当だとすれば、彼女の気性の激しさを物語るエピソードです。

②勝手に乳母に応募したことに激怒した正成が離縁したとする説

③彼女が乳母に採用されたことを知って、「女房のおかげで出世した」と言われるのを恥じて離縁状を出したとする説

④彼女が乳母として幕府に忠勤すれば夫の仕官や立身出世につながると考え、正成が美濃十七条藩主に取り立てられたのを見届けてから離縁したとする説

⑤これらの出来事はすべて口実で、正成を家康に仕官させるために、正成と彼女が示し合わせて離縁したとする説

なお、家光の乳母の選考にあたっては、彼女の家柄および公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたと言われています。

彼女の息子の稲葉正勝(1597年~1634年)も家光の小姓に取り立てられ、1623年には老中となり、1632年には相模国・小田原藩主となっています。

家光は幼少時病弱で吃音があり、容貌も美麗とは言えなかったそうです。家光は両親に疎まれた自分の境遇を察して自害しようとしましたが、彼女に止められています。

(4)将軍様御局(おつぼね)

家光の両親である二代将軍徳川秀忠(1579年~1632年、将軍在職:1605年~1623年)とお江与の方が、2歳下の弟忠長を溺愛したため、家光・忠長の後継者争いが起こりました。

家光の次期将軍の座が危うくなるや、彼女は1615年に家光の疱瘡治癒祈願のための「伊勢参宮」を口実に江戸を出て、駿府の大御所・家康に直訴しました(春日の抜け参り)。その結果、家康の計らいによって家光の世嗣としての立場が確立しました。

家光の将軍就任に伴い、「将軍様御局」として大御台所・お江与の方の下で、大奥の公務を取り仕切り、大奥で権勢を振るうようになりました。

1626年にお江与の方が亡くなると、彼女は家光の世継ぎを得させるために側室探しに尽力し、伊勢慶光院の院主であったお万、お蘭(お楽の方)、お振、お夏、お玉、お里佐、お昌などの女性を次々と大奥に入れました。

男色家で、女性に興味を持たない家光のために、女性を男装させて閨に入り込ませることもしたそうです。

また、大奥の役職や法度などを整理・拡充するなど大奥を構造的に整備しました。自分が育てた将軍家光の権威を背景に、老中をも上回る実質的な権力を握りました。

(5)「紫衣事件(しえじけん)」の収拾と「春日局」の称号下賜

1629年に朝廷との間で起きた「紫衣事件」の収拾のために、幕府は彼女を上洛させました。しかし武家である斎藤氏の娘の身分のままでは、御所に昇殿する資格がないため、血族(彼女は三条西公条の玄孫)であり、育ての親でもある三条西公国の養女になろうとしましたが、すでに他界していたため、やむをえずその息子の三条西実条の猶妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘(三条西藤原福子)となり、参内する資格を得ました。

彼女は三条西実条の妹という資格で、中宮和子(東福門院、秀忠の娘)に伺候する形で、後水尾天皇(1596年~1680年、在位:1611年~1629年)に拝謁し、「春日局」の称号と「従三位」の位階を賜りました。

1632年の再上洛の際には、「従二位」に叙せられ、「緋袴」の着用の許しも得ました。そのため「二位局」とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比肩する位階となりました。

ちなみに「紫衣事件」とは、「朝廷が大徳寺や妙心寺の僧侶に出した紫衣勅許を1627年に江戸幕府が無効とした事件」です。

幕府は1613年に紫衣着用に関する法令を出し、みだりに紫衣や上人号を授けることを禁じていましたが、紫衣着用の許可は古くから朝廷が行ってきたことで、当時勅許による収入は朝廷の重要な収入源となっていたため、引き続き行われていました。

そこで宗教統制・寺院管理をめざしていた幕府は、後水尾天皇が僧侶十数人に出していた紫衣着用の勅許を無効とし、着用を禁じたのです。1629年には、幕府の措置に反対した大徳寺の沢庵らを処罰しました。

この結果、朝廷に対する幕府権力の優越性が明確にされました。しかし、公家たちは無位無官の彼女の参内にも強く反発し、後水尾天皇はこの事件によって「退位」を決意するほどの打撃を受けました。

(6)晩年

1634年に嫡男・正勝に先立たれ、幼少の孫・正則を養育しました。1635年には家光の上意によって、義理の曽孫・堀田正俊(1634年~1684年)を養子に迎えました。

彼女はやがて病気になって亡くなりますが、家光は彼女のために高価な薬を手に入れて力を尽くしたそうです。

しかし彼女は、「家光の健康と長寿のために、自分は一切薬を断つ」という願を掛けていたため、その薬を飲まなかったそうです。「スーパー乳母」の面目躍如といったところです。

辞世は「西に入る 月を誘(いざな)い 法をへて 今日ぞ火宅を 逃れけるかな」です。

2.徳川家康との関係

彼女は家光の将軍後嗣問題では、駿府の大御所・家康(1543年~1616年、将軍在職:1603年~1605年)に直訴するなど尽力しています。確かに一介の乳母ができることではありません。

いかに「スーパー乳母」だったとはいえ、彼女が徳川家康にそれほど気に入られたのはなぜでしょうか?

「春日局は家康の愛妾の一人だった」という説があります。

家康は、家柄が高くなく、かつ子供を産んだことがある後家や人妻を離縁させて側女としていました。たとえば、都摩の方(穴山梅雪の妻、振姫の生母)、牟須の局(後家)、阿茶の局(後家)、茶阿の局(鋳物師の妻、忠輝の生母)、西郷の局(後家、秀忠や松平忠吉の生母)、お亀の方(後家、義直の生母)などです。

これは、有力外戚の排除の意図もありましたが、子供を産める可能性が高かったからです。

またもう一歩踏み込んだ「家光は家康と春日局との間の子だった」という説もあります。

この説は、江戸城に存在した「紅葉山文庫」の蔵書にある徳川家内々の話をまとめた「松のさかへ(栄え)」の次のような記述が根拠となっています。

秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局、三世将軍家光公也/同御二男 國松君 御腹 御臺所 駿河大納言忠長公也

また彼女の筆と伝わる「東照大権現祝詞」(日光山輪王寺所蔵)には、「病弱で3歳の時大病した家光が家康の調薬によって快復した、以後も病に臥せるたびに家康の霊夢によって快復したとする話」や、「家光を粗略に扱う秀忠夫妻に激怒し、家光を駿府に引き取って家康の養子にしてから三代将軍に就けると叱責した話」が記されています。

また、家光が身につけていた守袋に「二世ごんげん(権現)、二世将軍」や「生きるも死ぬるも何事もみな大権現様次第に」などと書いた紙を入れており、これも家光の家康とのつながりの意識の強さとその尊崇ぶりを表すものです。

もう一つの考え方として、「将軍跡継ぎ確保のためのプロジェクトが、家康側近の本多正信を中心に進められており、彼女は稲葉家再興のために家康の子供を産むこの計画に応じた」というのがあります。

「関ヶ原の戦い」で家康に内通し、東軍の勝利に貢献したにもかかわらず、小早川家の断絶で浪人になっていた稲葉正成にこのプロジェクトの話が来て、妻の福が応じたというものです。

彼女は1603年前半に正成と離縁して江戸城に入り、1604年に家光を産みました。当初側室とする計画でしたが、彼女が信長殺害に深く関わった斎藤利三の娘であったため、生母とするのは好ましくないとされ、「乳母」とされました。

したがって、「家光誕生後に京で乳母募集の高札が出され、それを見た彼女が応募し、家康が決めた」というのは、実態をカモフラージュする幕府の芝居でした。

正室のお江与の方としては、伯父(信長)を殺した明智光秀の重臣の娘である彼女の子を、自分の子とすることに抵抗があったと思われます。しかし世継ぎを産んでいない手前、やむを得なかったのでしょう。秀忠にしても、父の子を自分の子とすることには抵抗があったでしょう。

そこで秀忠も、次にお江与の方が男子を産んだら、その子を将軍跡継ぎにしようと考えたのでしょう。お江与の方は1606年に33歳で忠長を産みます。意地の高齢出産でした。

この考え方はなかなか説得力があります。

いずれにしても彼女と家康との間には、特別の深いつながりがあったのは確かなようです。

しかし将軍後継者問題に関して言えば、「後継者を嫡男と定めておかないと、後々も後継者争いが起こる」と判断し、無用な争いを避けるために家光を後継者と認めたのでしょう。

家康は、当時の女性としては珍しい彼女の豪胆な性格や政治力・交渉力も気に入っていたのではないかと私は思います。

3.春日局の縁故により出世した人々

彼女が参内できるように画策し、うまく取り計らった三条西実条は、後に朝廷から「武家伝奏」に任じられ、最後は「右大臣」になりました。

彼女が強く望んで大奥入りさせたお万の方の弟・氏豊は、幕府から「高家」として迎えられています。

浪人していた前夫・稲葉正成は松平忠昌の家老として召し出され、後に2万石の大名となりました。嫡男・正勝は老中に出世し、兄の斎藤利宗・三存も旗本に取り立てられました。

海北友雪は、彼女の父・利三が山崎の戦いで敗死した時、父・友松が利三一家を厚く庇護したことから、彼女の推挙によって家光の御用絵師となっています。

彼女自身も代官町と春日町に屋敷を賜り、3000石を領しました。



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