『更級日記』の作者の菅原孝標女は、源氏物語オタク女子だった!?執筆目的は?

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菅原孝標女の銅像・千葉県市原市

前に『蜻蛉日記』の作者の藤原道綱母の記事を書きましたが、『蜻蛉日記』と並んで女流日記文学として有名なものに菅原孝標女が書いた『更級日記』があります。

そこで今回は、菅原孝標女と『更級日記』についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.菅原孝標女について

藤原道綱母・家系図

(1)菅原孝標女とは

菅原孝標女(すがわら の たかすえ の むすめ)(1008年~1059年以降?)は、平安時代の貴族で歌人・物語作者の女性ですが、本名は伝わっていません。

10歳頃から50歳頃までの人生を回想した『更級日記』の作者です。

父は菅原道真の玄孫(5代の直系)で上総国・常陸国の受領(ずりょう)を務めた菅原孝標(すがわら の たかすえ)(972年~没年不詳)で、母は藤原倫寧(ふじわら の ともやす)(?~977年)の娘です。

菅原家は代々学者の家柄でしたが、孝標だけは大学頭(だいがくのかみ)や文章博士(もんじょうはかせ)の顕職から除かれ、わずかに受領として上総介(かずさのすけ)、常陸介(ひたちのすけ)を歴任するにとどまりました。

伯母(母の異母姉)は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母です。継母(大弐三位の姪)は、後に「上総大輔」と呼ばれる歌人です。兄・定義、甥・在良は学者です。

(2)少女時代

10歳のとき、父の任国である上総に下向しました。継母や姉の影響で『源氏物語』に憧れ、4年後に帰京後も物語に耽溺する「夢見がちな文学少女」(今風に言えば「源氏物語オタク女子」)として成長し、『源氏物語』の登場人物である夕顔や浮舟のような人生を夢想しました。

当時、物語に対する熱が冷めず、翌年に上京した伯母から『源氏物語』五十余巻などを貰い、昼夜を問わず読み耽りました。夢に僧が出てきて(女人成仏が説かれている)「法華経・第五巻を早く習え」と言いますが、心にも掛けず物語を読みふけったことを、後年『更級日記』の中で、「まづ いとはかなく あさまし」と反省しています。

1024年には姉が二女を残して亡くなりましたが、なおも物語を耽読しました。しかし、この頃から「信心せよ」との啓示を夢に見るようになります。

(3)宮仕えと結婚

32歳で、後朱雀(ごすざく)天皇の皇女裕子(ゆうし)」内親王家に出仕しましたが、すぐに退出して1040年頃、橘俊通(たちばな の としみち)(1002年~1058年)と結婚し、物語と現実の違いを痛感しました。橘俊通は、平安時代中期の貴族で、但馬守・橘為義の四男。官位は従五位上・信濃守です。

のちに再出仕して源資通(みなもと の すけみち)などと和歌のやりとりに興じる機会を持ったりもしました。

2児の母となったころからそれまで無関心だった信仰に熱心になり、しばしば物詣に出かけましたが、1058年に夫を病で失い、阿弥陀来迎の霊夢を見たことだけを頼りに孤独な晩年を迎えたということです。

(4)『更級日記』の執筆

そのころ、自伝的日記文学である『更級日記』を執筆しています。

そこには、前半生の物語耽溺後半生の神仏への傾倒主題自らの人生への愛惜が綴られており、当時の『源氏物語』の享受や民間信仰の様子を伝える興味深い資料であるともに、「田舎育ちの一女性の人生の私的な回想」という点で、それまでの日記文学に例をみない画期的な作品となっています。

(5)物語作者や歌人としての一面

また物語『みづから悔ゆる』『朝倉』(現存しない)の作者と伝えられるほか、『夜の寝覚(夜半の寝覚)』『浜松中納言物語』の作者とする説も有力であり、物語作者として活躍したことが推測されます。その和歌は『新古今集』以下の勅撰集に十数首が入集しています。

2.『更級日記』について

(1)『更級日記』とは

『更級日記』(さらしなにっき / さらしなのにき)は、平安時代中頃に書かれた菅原孝標女の回想録です。

夫の死を悲しんで書いたと言われています。作者13歳(数え年)の1020年から、52歳頃の1059年までの約40年間が綴られています。全1巻。

『蜻蛉日記』『紫式部日記』などと並ぶ平安女流日記文学の代表作の一つに数えられています。江戸時代には広く流通して読まれました。

これらの日記文学は、現代で言えば「雑記ブログ」に相当するのではないかと思います。

前に「市川海老蔵らのブログを国立国会図書館が保存開始!後世に伝える意義を認める」という記事を書きましたが、今ならさしずめこれら3作品は「不朽の名作」として間違いなく保存されたことでしょう。

(2)『更級日記』の内容

東国・上総の国府(市原郡、現在の千葉県市原市)にあった)に任官していた父・菅原孝標の任期が終了したことにより、1020年9月に上総から京の都(現在の京都市)へ帰国(上京)するところから起筆しています。

『源氏物語』を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして1058年秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれています。

執筆形態としてはまとめて書いたのだろうと言われています。

『源氏物語』について最も早い時期から言及していたとされ、貴重な資料となっています。

(3)『更級日記』という書名の由来

「東山御文庫」(京都御所内の皇室の文庫)に伝えられてきた藤原定家による写本(いわゆる『御物本』)(下の画像)の外題(げだい)に『更級日記』とあります。

更級日記・東山御文庫

書名の「更級」(更科)は、作中の「月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ」の歌が、『古今和歌集』の一首「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て(雑歌上、よみ人しらず)」を「本歌取り」していることに由来すると言われています。作中に「更級」の文言はありません。

彼女の歌は「我が家はまるで、月も出ずに暮れてしまい、闇に包まれた姨捨山のよう。そんな叔母の家に、またどうして今夜訪ねて来てくれたのでしょうね」という意味ですが、夫を亡くし、子どもも自立し、一人寂しく暮らしている老残の彼女のところに、ひょっこりと甥っ子が訪ねてきた時の歌です。

「更級」と言えば「姨捨山伝説」の地です。 夫と死別し、子供達も独立し、年老いて(と言っても50代…)京都郊外の山里で一人暮らす自分を、姨捨山に捨てられた老人に例えて詠んだものです。

ちなみに「更級」は「歌枕」で、今の長野県千曲市千曲川付近で姥捨山があり、月の名所です。信濃国(今の長野県)は亡くなった夫の最後の赴任地でした。

(4)『更級日記』の執筆目的

菅原孝標女は、少女時代に『源氏物語』に熱中したことや、伯母に『蜻蛉日記』を書いた藤原道綱母がいたことが、『更級日記』を書いたり、『みづから悔ゆる』『朝倉』『夜半の寝覚』『浜松中納言物語』などの物語を書くモチベーション(動機)になったのでしょう。

アメリカの歴代大統領の「回顧録」や、イギリスのチャーチル首相の「第二次大戦回顧録」、勝海舟の「氷川清話」、福沢諭吉の「福翁自伝」、ベンジャミン・フランクリンの「フランクリン自伝」など有名な政治家や小説家等が残す自叙伝(自伝)がありますが、これらは多分に「自慢話」や「自己弁護」が含まれています。

広い意味では『更級日記』も「自叙伝」「半生記」にあたると思います。

しかし、「更級日記」には、自分の手柄話はなく、自分の人生を回顧し、反省している「内省録」「自照文学」(*)とも言うべきものです。

(*)「自照文学」とは、 日記 ・ 随筆 などのように、自己反省・自己観察の精神から生活体験を主観的に叙述した文学のことです。 『 蜻蛉日記 』がその代表例であり嚆矢となりました。 『 土佐日記 』と異なり、日々の記録というよりは自己の内面を鋭く見つめるものです。

3.菅原孝標女の和歌

・浅みどり花もひとつに霞みつつおぼろにみゆる春の夜の月(新古今和歌集)

意味:春と秋とどちらに心が惹かれるかと申しますと、わたくしは薄藍の空も、桜の花も、ひとつの色に霞みながら、朧ろに見える春の夜の月のすばらしさ、それゆえ春と申します。

のとを雲ゐながらもよそにみて昔の跡をこふる月かな(新勅撰和歌集)

意味:天上界への扉を、雲の上にいながらも遠くから見て、亡き人の往き来した跡をなつかしがる…今夜は月もそんな風情だし、私たち女房も月を眺めてはそんな思いに耽っている。

・何にかはたとへて言はむ海のはて雲のよそにて思ふ思ひは

意味:何に喩えて言ったらよいだろう。海の遠い彼方、雲の遥か彼方にいて、あなたを思うこの思いを。

・あはれいかでいづれの世にか巡り逢ひてありし有明の月を見るべき

意味:ああ、どうしたら、いつか転生してあなたに巡り逢い、ともにあの時の有明の月を再び見ることができるだろうか。

・散る花もまた来む春は見もやせむやがて忘れし人ぞ恋しき

意味:散っていく桜の花もまた春がくると見ることができるだろう。しかし死に別れたあの人とはもう会うことができない。悲しく恋しいことだ。



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