徒然草が江戸時代に大流行した理由とそのきっかけとは?

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徒然草

前に「徒然草はなぜ100年間も埋もれていたのか?執筆の動機と非公開の理由は?」という記事を書きました。

徒然草は、「吉田兼好(兼好法師)」(1283年頃~1352年頃)が彼自身の経験から得た考え方や思索・雑感・逸話などをまとめた244段から成る随筆です。現代の「雑記ブログ」のようなものです。

徒然草の成立年代については彼が40代のころから長年書き溜めていた文章を、1349年頃(66歳頃)にまとめたという説が現在では有力です。

執筆後約100年間は注目されませんでした。しかし室町時代に臨済宗の歌僧・正徹(しょうてつ)(1381年~1459年)が注目し、自ら書写した「写本」に、この作品を兼好法師のものとし、兼好の略歴も記しました。

これが正徹の弟子の歌人や連歌師に波及し、応仁の乱の時代に生きた彼らに「無常観が底流にながれる優れた随筆」として共感を呼び起こしたようです。

1.徒然草が江戸時代に大流行した理由(私の個人的推測)

私は次のようなことが理由として挙げられると思います。

(1)活版印刷の普及

日本へは13世紀末に活字の技術が伝わり、江戸時代の直前から初期に至ってキリシタン版や嵯峨本などの活字を用いた印刷物の増加が見受けられるようになりました。

それ以前は「写本」による流布のため、書写に時間と労力がかかる上、広がる範囲も限られていました。

しかし、活版印刷の普及によって大量の本の出版が可能になり、大流行の大きな要因になったと考えられます。

(2)太平の世になり本を読む余裕が出た

「戦国時代」(15世紀末~16世紀末)から「関ヶ原の戦い」(1600年)までの間は、戦乱に明け暮れていたため、人々は本を読むどころではなかったと思います。

それが1603年に江戸幕府が開かれ、「大坂の陣」(「大坂冬の陣(1614年)」と「大坂夏の陣(1615年)」)が終わると「太平の世」になり、人々に本を読む余裕も出てきたのではないかと思います。

(3)古典を学ぶ気運が盛り上がった

それとともに、「平家物語」や「保元物語」「平治物語」「承久記」「太平記」のような軍記物語ではなく、一般的な古典を学ぶ気運も出てきたのではないかと思います。

(4)笑い話の要素もあり江戸時代の町人文化に合った

徒然草には、「笑い話」の要素もあるので、その点、娯楽性も求めていた江戸時代の町人文化に合っていたのではないかと思います。

(5)人生訓もあり教育にも適していた

一方、徒然草には人生訓もあるので、「教訓書」「教育書」として寺子屋や私塾、藩校などの学問所での教育、あるいは家庭教育にも適していたのではないでしょうか?

ただし、寺子屋や私塾、藩校などの学問所で徒然草そのものが実際に教材として使われたかどうかは定かではありませんが、・・・

ちなみに「寺子屋」起源は、中世の寺院での学問指南に遡ると言われています。その後、江戸時代に入り、商工業の発展や社会に浸透していた文書主義などによって、実務的な学問の指南の需要が一層高まり、江戸時代中期(18世紀)以降に益々増加しました。

特に江戸時代後期の天保年間(1830年代)前後に著しく増加しました。1883年に文部省が実施した、教育史の全国調査を編集した『日本教育史資料』(1890~1892年刊 二十三巻)による開業数の統計では、寺子屋は19世紀に入る頃からさらに増加し、幕末の安政から慶応にかけての14年間には年間300を越える寺子屋が開業しています。

同資料によると全国に16560軒の寺子屋があったといい、江戸だけでも大寺子屋が400~500軒、小規模なものも含めれば1000~1300軒ぐらい存在していました。また経営形態も職業的経営に移行する傾向を見せました。幕末に内外の緊張が高まると、浪人の再就職(仕官)が増えた事によって、町人出身の師匠の比率が増え、国学の初歩である古典を教える寺子屋も増えるなど、時代状況に応じて寺子屋も少しずつ変化を遂げて行きました。

2.徒然草が江戸時代に大流行するきっかけとなった注釈書

(1)秦宗巴の『徒然草寿命院抄』が最初

慶長9年(1604年)に古活字本で刊行された秦宗巴の『徒然草寿命院抄(つれづれぐさじゅみょういんしょう)』を嚆矢(こうし)として、徒然草の注釈書が盛んに刊行されるようになり、一種の「徒然草ブーム」が起こりました。

それ以後、元禄17年(1704年)に刊行された北村季吟(きたむらきぎん)の『徒然草拾穂抄』を最後として100年間に18種類の徒然草注釈書が刊行されました。

(2)秦宗巴とは

秦宗巴(はたそうは)(1550年~1607年)は、江戸初期の医者。丹波国失木(うしき)生れで、徳岩また立安とも称しています。名医として豊臣秀次に仕え、法印に叙せられ、寿命院の称号を受けました。のち徳川家康にも仕えています。

連歌や香道に詳しく、《枕草子》の類集体をもじった仮名草子《犬枕》の作者として知られますが、ほかにも《徒然草寿命院抄》《素問註抄》《医学的要方》などの医学・古典注解書があります。

3.江戸時代における有名な徒然草注釈書

(1)松永貞徳の『なぐさみ草』

最初のきっかけは秦宗巴の『徒然草寿命院抄』ですが、江戸時代初期の偉大な和学者松永貞徳が著した慶安5年(1652年)刊行の徒然草注釈書『なぐさみ草』も有名です。

その跋文(ばつぶん)で松永貞徳は次のように述べています。

何事も時至らねば甲斐なし。(中略)この『徒然草』も天正(1573年~1592年)の頃までは名を知る人も稀なりしが、慶長(1596年~1615年)の時分より世にもてあそぶ事となれり。

それはちょうど日本で商業出版が始動した時代で、『徒然草』は何種類もの版本が次々に出版され、江戸時代初期のベストセラーとなりました。

その際、江戸時代の人々は『徒然草』を古典としてではなく、同時代的な文学として楽しんだようです。版本の挿絵も、しばしば同時代(江戸時代)の風俗で描かれています。

(2)松永貞徳とは

松永貞徳

松永貞徳(まつながていとく)(1571年~1653年)は、江戸時代前期の俳人・歌人・歌学者です。名は勝熊、別号は長頭丸(ちょうずまる)・逍遊軒(しょうゆうけん)・延陀丸(えんだまる)・保童坊・松友などがあります。他に五条の翁・花咲の翁とも称し、明心居士の号もあります。子は朱子学者の松永尺五です。

出身は京都で、連歌師・里村紹巴から連歌を、九条稙通や細川幽斎から和歌、歌学を学んだほか、五十数人に師事したということです

20歳頃に豊臣秀吉の右筆となり、木下勝俊(長嘯子)を友としました。慶長2年(1597年)に花咲翁の称を朝廷から賜り、あわせて俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を賜りました。 元和元年(1615年)私塾を開いて俳諧の指導に当たりました。

家集に『逍遊集』、著作に『新増犬筑波集』『俳諧御傘』などがあります。

俳諧は連歌・和歌への入門段階にあると考え、俗語・漢語などの俳言(はいごん)を用いるべきと主張しました。貞徳の俳風は言語遊戯の域を脱しませんが、「貞門派俳諧の祖」として一大流派をなし、多くの逸材を輩出しました。

「好色一代男」や「日本永代蔵」「世間胸算用」などの「浮世草子」で有名な井原西鶴も、「浮世草子」の流行作家になる前、「貞門派」に入門し、俳諧師をしていました。

余談ですが、松尾芭蕉は「貞門俳諧」や「談林俳諧」を言葉遊びのような「月並み俳諧(俳句)」と見て、これに飽き足らず、実際に見聞した感動をダイナミックに表現する必要があると痛切に感じ、「蕉風俳諧」の確立を目指しました。

4.江戸時代における最後の徒然草注釈書

(1)北村季吟(きたむらきぎん)の『徒然草拾穂抄』

元禄17年(1704年)に刊行された北村季吟の『徒然草拾穂抄(つれづれぐさしゅうすいしょう)』が江戸時代における最後の徒然草注釈書となりました。

(2)北村季吟とは

北村季吟

北村季吟(きたむらきぎん)(1625年~1705年)は、江戸前期の俳人・歌人・和学者です。名は静厚。通称は久助。慮庵、七松子、拾穂軒、湖月亭などと号しました。祖父宗竜、父宗円とも近江野洲郡北村(滋賀県野洲町)の医師であり、連歌をよくしました。

彼は父の修業先の京都で出生したとされています。医業を学ぶかたわら早くから俳諧に関心を持ち、寛永16年(1639年)に安原貞室に入門し、やがて貞室の師松永貞徳の直門となりました。彼の古典注釈の素養は貞徳の指導によって学問として結実をみることになります。

貞徳の没後、かつての師であった貞室とは疎隔を生じましたが、その理由ははっきりしません。俳人および古典研究者としての活躍の場は広がる一方で、京のあらゆる階層の人々に古典を講釈し、俳諧を指導しました。

業績は次第に古典注釈の方に偏りをみせるようになり、講釈がそのまま注釈書として刊行されました。『大和物語抄』『土佐日記抄』『伊勢物語拾穂抄』『徒然草文段抄』『源氏物語湖月抄』『枕草子春曙抄』『八代集抄』『百人一首拾穂抄』など、その注釈は主な古典の大半に及んでいます。

諸説を手際よく整理して穏当な見解に落ち着くのが特徴で、『八代集抄』は近年までほとんど唯一の八代集全注として価値を有しました。新玉津島社の神官となる天和年間(1681~84)には俳業をほとんど廃して古典注釈に没頭し、元禄2年(1689年)には子息の湖春と共に幕府歌学方に召され、江戸に下っています。

以後北村家は代々歌学方を世襲し、幕臣の文化圏の一中心となりました。湖春に先立たれる(1697年)などの不幸もありましたが、功成り名遂げた満足感の中に一生を終えました。

俳人としては貞門の有力者のひとりですが、その指導力には限界があり、強烈な個性で門人を引っ張るようなところはありませんでした。和歌では『季吟子和歌』がありますが、本領はあくまで古典注釈にありました。

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