テレサ・テンは外国人の歌うまの元祖。歌の心を知っているから日本人の心に響く

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テレサ・テン

最近、中居正広さんがMCを務める「のどじまんTHE・ワールド!」という外国人歌うま選手権の人気番組があります。

中居正広さんの「Welcome to Japan!」という紹介で始まるこの番組を見ていると、インターネットの普及のおかげで、世界各国の人たちが日本の歌謡曲やポピュラーのヒット曲や名曲を上手な日本語で歌うのに感心させられます。

特に私が良いことだと思うのは、最近のヒット曲よりも、どちらかと言えば昔の「日本の美しいメロディーや歌詞の歌」を、「日本語をとても大切にしながら」歌ってくれることです。

こういうアマチュアの人が世界中に多くなって行けば、「日本の心」「日本人の心」をもっと世界中の人に知ってもらえることになって良いことだと、しみじみ思います。

ところで、「日本の歌を歌う外国人歌手」で私が最も好きなのは、テレサ・テンさん(1953年~1995年)です。

テレサ・テン-别れの予感

1.テレサ・テンの生い立ち

彼女は、本名が「鄧麗君(デン・リージュン)」で台湾出身の歌手です。1970年代から1990年代にかけて、中華文化圏全域および日本・タイ・マレーシアなども含めたアジアで広く人気を博し、「アジアの歌姫」と呼ばれました。

父親は、元国民党軍の軍人で、彼女自身も軍隊への慰問活動を熱心に行っていたことから、「軍人の恋人」というニックネームでも呼ばれていました。

2.テレサ・テンの「アジアの歌姫」への軌跡

10歳で歌謡コンテストに優勝し天才少女として注目を集め、14歳でプロ歌手としてデビューしています。日本の天才少女スターの美空ひばりと何だかよく似ていますね。

1973年に日本に進出し、「アイドル歌謡曲路線」で売り出しましたが、不発に終わります。そこで「演歌歌謡曲路線」に変更したところ、「空港」が大ヒットします。しかし、1979年「偽造パスポート事件」で国外退去処分となります。

1980年代には中国本土・香港での人気が拡大します。彼女の政治的影響力の大きさを嫌った中国共産党政府は、1983年に、彼女の歌を「放送禁止」にしています。しかし人々は夜に「ダビングテープ」で彼女の歌をひそかに聞いていたそうです。「昼は鄧小平、夜は鄧麗君」と言われるほどの人気になりました。

1984年には、日本の音楽ファンの強い要望もあって、再来日が許可されて日本再デビューを果たし数々の大ヒットを飛ばすことになります。

3.テレサ・テンの「政治活動」とその挫折

1986年、「改革開放路線」を進める中国において、彼女の歌が解禁されたことで、人気が再燃します。

1989年5月27日には、かねてから中国で起きていた「民主化要求」を支援する目的で、香港で開催された「中国民主化支援コンサート」に参加しています。そして、亡命した「民主化活動家」とも交流を持ちます。

しかし1989年6月4日には「天安門事件」が起きたため、中国本土で予定されていた初のコンサートも中止となります。当時の心境を彼女は、「夢は殺され、夢は見ることさえできなくなってしまった」と語っています。

4.テレサ・テンの謎の死

1995年5月8日、彼女は静養のため訪れていたタイで、「気管支喘息による発作」のため、亡くなったとされています。42歳の若さです。

真相はわかりませんが、中国共産党の影がちらつくのは私だけでしょうか?

いずれにしても、彼女は美空ひばりと同じように「歌の心」を持っており、日本の歌でもその「歌の心」を表現する才能があったということなのでしょう。だからこそ、日本人の心に響く歌が歌えたのだと思います。

ただ単に「声が良い人」や「歌がうまい人」がいますが、彼らの歌は、我々の心に響かず、素通りしてしまって、何も心に残りません。その点が、テレサ・テンや美空ひばりと違うところです。

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