大室寅之祐は本当に南朝の末裔だったのか?嘘だとすれば今の天皇家の祖先は?

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大室寅之祐の若い頃の写真

「南北朝時代」以降の近世以来、「南朝と北朝のどちらの皇統が正統か?」をめぐっては議論があり、特に「万世一系」と明記した大日本帝国憲法下の戦前には、「南北朝正閏(せいじゅん)問題」があり、「南北朝正閏論争」が行われました。

その中で「南朝正統論」は、北畠親房の「神皇正統記」や徳川光圀(水戸光圀)の「大日本史」(後に水戸学に引き継がれる)など多くの支持を集めていました。山崎闇斎と頼山陽も「南朝正統論」を唱えました。

ところで前に「明治天皇は即位直後に暗殺されて南朝系統の大室寅之祐にすり替わっていた!?」という記事を書きましたが、この大室寅之祐という人物の先祖は本当に後醍醐天皇で、彼は本当に「南朝の末裔」なのでしょうか?

もし「明治天皇すり替え説」が真実だとすれば、次に疑問が湧くのが、大室寅之祐(上の写真)の家系図がどうなっているのかということです。

和歌の名家でもある公家の冷泉家では平安時代からの家系図が残っていますので、天皇家の血統であれば当然きちんとした家系図が残っていてしかるべきです。

もし、大室寅之祐が「南朝の末裔」でなかったとしたら、今の天皇家の祖先は一体誰なのかという疑問が湧いてきます。

1.明治天皇暗殺疑惑(すり替わり疑惑)のもう一つの論拠

前の記事に書いた中丸薫の本の話だけでは、明治天皇暗殺疑惑(すり替わり疑惑)は「眉唾物」という感じが拭えません。

しかし「明治天皇すり替え説」は、昭和4年からあったようで、それは土佐藩出身で宮内大臣も務めた田中光顕(1843年~1939年)の衝撃の告白です。彼の話は三浦芳聖の「徹底的に日本歴史の誤謬を糾す」に掲載されています。こちらはかなり信憑性がありそうです。

それによると、明治天皇は後醍醐天皇の11番目の皇子・満良親王の子孫にあたり、長州藩の毛利氏によって守られていた人物だということです。

さらに薩長同盟が成功した根本理由について、桂小五郎が「南朝の御正系をお立てして王政復古」することを西郷隆盛に打ち明けたところ、西郷が南朝の忠臣・菊池氏(菊池武朝)の子孫であったことでこれに賛同したと語っています。

田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、「私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました」と前置きされて、
「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領し、代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。
吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。
明治天皇には明治維新になると同時に、『後醍醐天皇の皇子征東将軍宗良親王のお宮を建立してお祀りせよ』と仰せになり、遠州の井伊谷宮の如きは、明治二年本宮を造営せられ、同五年に御鎮座あらせられ、同六年には官幣中社に列せられた。
(中略)
睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。
明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2 歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。

元宮内大臣田中光顕氏、明治天皇陛下すり替え告白
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』から)

ただし、この本の著者である三浦芳聖(1904年~1971年)も、「熊沢天皇」こと熊沢寛道と同様に、第二次大戦で日本が降伏した後に「南朝正統の皇胤」であると主張した「自称天皇」の一人です。

ですから、この話も100%信頼できるとは断定できませんが、全く荒唐無稽な話でもなさそうです。

何事も頭から信用せず、疑うことを信条としている私ですが、「北朝の系統」であるはずの明治天皇が「自分は南朝方である」と発言したことと、「逆賊であるはずの南朝方の忠臣・楠木正成像を皇居前広場に設置させた」ことから、この話の信憑性は高いと思います。

明治天皇がすり替えられていなければ、上記のような発言や銅像設置は考えられません。「北朝系統の天皇がそんなことをすれば「自己の皇統の正統性を否定すること」になるからです。

2.明治政府の元勲たちと明治天皇にまつわるエピソード

なお、このほかにも明治政府の元勲たちが明治天皇を見下していたというエピソードも残っています。

(1)西郷隆盛は、わがままを言う明治天皇に対して、「昔の身分に戻しますぞ」などと叱っていたと言われています。

(2)西郷隆盛の弟の西郷従道は、明治天皇の命令を無視して台湾出兵などを行いました。

(3)伊藤博文は、明治天皇の前でも座ったままであったそうです。

(4)山岡鉄舟は、相撲で明治天皇を張り倒したそうです。

ちなみに山岡鉄舟は、元幕臣で、「勝海舟と西郷隆盛との江戸城無血開城の会談」の前に西郷隆盛との下交渉を単身で行い、事実上妥結させた人物です。明治維新後は侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任しています。

3.大室寅之祐の家系図

大室寅之祐は1850年生まれですが、睦仁親王は1852年生まれです。大室寅之祐の方が2歳年上ですが、すり替わるには問題ない年齢差です。

大室家の家系については、頼山陽が家系図を整備しています。山陽は大室家を、「23代500年以上続く皇統の系譜」とし、南朝の皇統は続いていると説きました。

4.大室家は実際は断絶していた?

しかしその一方で、過去帳を調べると大室家は途中で断絶しているとも言われています。

寅之祐の父親・作蔵は、地家吉左衛門の養子となり、地家作蔵となっています。1846年、20歳となった作蔵は寺娘のスヘと結婚します。スヘは京都浄土真宗大谷家の血筋だそうです。

その長男が虎吉で、後に寅之祐と改名し明治天皇になったとされる人物です。

虎吉が4歳の頃、作蔵とスヘは離婚し、虎吉はスヘに引き取られました。そしてその年にスヘが再婚した相手が大室弥兵衛です。ここで初めて「大室家」が登場します。

1854年に、大室弥兵衛とスヘの間に寅之助が生まれます。しかし寅之助は1歳数カ月で早世し、弥兵衛はその後再婚しましたが、子供ができないまま亡くなり、ここで大室家の血統は断絶しました

しかし虎吉は早世した異父弟・寅之助に成りすまし始めます。そして高杉晋作が組織した「奇兵隊」に参加したことで、寅之助に成りすました虎吉が「南朝の末裔」として注目され始めたのです。

この後、彼は伊藤博文らとともに、フルベッキの所へ行ったそうです。その時撮られたのが有名な「フルベッキ群像写真」(冒頭の右側の写真)です。

ちなみにフルベッキとは、オランダ出身の法学者・神学者・宣教師で、キリスト教オランダ改革派宣教師として日本に派遣された人物で、長崎英語伝習所の英語講師として幕府に雇用されました。

5.私の個人的な推理

明治維新の真相」は、「薩摩藩と長州藩による徳川幕府に対するクーデター・革命」と要約できると私は思っています。

明治の元勲となった薩摩藩と長州藩の下級士族たちの樹立した明治新政府にとって、「天皇」以外に後ろ盾となる「権威」はありませんでした

そこで彼らは、孝明天皇の実子である睦仁親王が明治天皇となると、またぞろ「攘夷」を言い出したり、実権を取り返そうと明治の元勲たちと対立して反旗を翻す恐れがあったため、睦仁親王を暗殺して、自分たちの「傀儡」として都合の良い操りやすい大室寅之祐という「偽物の天皇」を仕立て上げ、担いだのではないかと思います。

しかも、大室寅之祐は「本物の南朝の末裔ではなく偽物」だったというのが真相ではないかと思います。明治天皇が「写真」をことのほか嫌い、御真影も写真ではなく「肖像画」を写真に撮ったものだったのは、幼少年時代の睦仁親王を知っている公家などから、別人であることを見破られるのを恐れたからではないかと思います。

大日本帝国憲法が、天皇家を「万世一系」と言ったり、天皇を「神聖不可侵の現人神(あらひとがみ)」としてことさらに神格化したのは、明治の元勲たちが偽物の天皇を仕立て上げた偽装工作の発覚を恐れたためではないでしょうか?

私が高校生の時、歴史の教師だったと思うのですが、「今の天皇だって、元々はどこの馬の骨だかわからない」と不謹慎な、戦前なら「不敬罪」で逮捕されそうな話をしたことがあります。

この発言も、以上のようなことを考え合わせると荒唐無稽な話ではなく、あながち的外れでもないように思います。



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