「ノモンハン事件」とは?なぜ日本軍はソ連・モンゴル連合軍に敗れたのか?

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ノモンハン事件・戦場の平原

皆さんは「ノモンハン事件」をご存知でしょうか?名前は聞いたことがあっても具体的な内容は知らないという方が多いのではないかと思います。

そこで今回は「ノモンハン事件」についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.ノモンハン事件とは

ノモンハン事件地図

「ノモンハン事件」とは、1939年5月11日から同年9月15日にかけて、当時の「満州国」と「モンゴル人民共和国」との国境地帯で起きた地域紛争です。

日本にとっては、日露戦争(1904年~1905年)以後初めての本格的な近代戦争でした。

「日本・満州連合軍」と「ソ連・モンゴル連合軍」との間で展開された戦闘でしたが、実質的には日本軍とソ連軍との戦いでした。

この戦いで日本軍は、壊滅的な打撃を受けました

(1)事件の背景

1917年にレーニン(1870年~1924年)が主導する「ロシア革命」が起こり、ロシア帝国が崩壊しました。

日本は共産主義革命が満州や自国に広がることを恐れ、1918年から「シベリア出兵」(1918年~1922年)を行いました。

これはロシア革命に干渉するために、イギリス・フランス・イタリアと共同でシベリアに陸軍を派遣したものです。

しかし「シベリア出兵」は失敗に終わり、1922年に世界で初めての社会主義国家「ソビエト連邦」(ソ連)が誕生しました。

そして1924年にはモンゴル人民共和国を事実上の支配下に置きました。モンゴルは名目上は独立国でしたが、ソ連の影響を強く受け、「ソ連の16番目の共和国」と呼ばれるほどでした。

1931年、日本の関東軍が「満州事変」を起こし、満州国を建国しました。翌1932年には日本と満州国との間で「日満議定書」が締結され、防衛のために関東軍が満州に駐留することになりました。

この関係は、ソ連とモンゴル人民共和国との関係によく似ています。

日本とソ連の支配圏は隣り合い、当初は国境紛争として小規模な争いが起こりましたが、徐々に回数が増え、規模も大きくなっていきました。

そしてついに大きな衝突が起こったのです。これが「ノモンハン事件」です。

余談ですが、戦後フランスに帰化した画家の藤田嗣治は、この「ノモンハン事件」を題材にした戦争画「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」(下の画像)を制作しています。

藤田嗣治・ハルハ河の戦い2藤田嗣治・ハルハ河の戦い

(2)事件の経過

10日あまりの戦いで、ノモンハン事件の帰趨は決しました。関東軍第23師団はその7割が損耗し、事実上壊滅しました。

ソ連側の死傷者数は2万5千人だったのに対し、日本側は2万人で、死傷者数ではソ連の被害が甚大でしたが、作戦目的を達成したのはソ連でした。

関東軍は、ソ連・モンゴルの主張する国境線の外に完全に追いやられたのです。

2.なぜ日本軍はソ連軍に敗れたのか?

ソ連軍の指揮官ジューコフは、スターリン(1878年~1953年)から日本軍の評価について尋ねられて、次のように報告しています。

「我々とハルハ河で戦った日本兵はよく訓練されている。特に接近戦闘でそうです」

「彼らは戦闘に規律を持ち、真剣で頑強、特に防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは極めてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦います。

若い指揮官は決まったように捕虜として降らず、『腹切り』を躊躇しません。

士官たち、特に古参・高級将校は訓練が弱く、積極性がなくて紋切型の行動しかできないようです。(後略)」(出典:「ジューコフ元帥回想録」)

乏しい装備で物量に勝るソ連軍と対峙し、最善を尽くした現場の兵士たちに対し、軍の中枢を担う将校たちは官僚化して己のメンツを守ることに汲々とし、敵の姿はおろか、自軍の姿さえよく見えてはいなかったようです。

日本軍は己を知らず、敵を侮り、無謀な作戦を実行に移しました。祖国から遠く離れた辺境の地ノモンハンで、大勢の日本兵が命を落としました。その遺骨は、今も風雨に晒されたまま残されています。

3.ソ連が急に停戦に応じた理由

1939年9月14日にソ連は突如停戦に応じ、9月15日に停戦協定が締結されました。

ノモンハン停戦から2日後の9月17日に、ソ連はドイツに続いてポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まったのです。

スターリンは、この大戦に備えるために「ノモンハン事件」を早く終結させたかったわけです。

4.「捕虜になるな」という太平洋戦争中の日本軍の対応を先取り

1941年1月に陸軍大臣東条英機が示達した訓令「戦陣訓」に、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という有名な一節があります。

この考え方は、日清戦争中に第一軍司令官であった山縣有朋が、清国軍の捕虜の扱いの残忍さを問題にし、「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令を出したことに遡ります。

さらに、日露戦争時に捕虜となった兵士が敵軍に自軍の情報を簡単に話したため、これが問題となって以降、「捕虜になっても、敵軍の尋問に答える義務はない」ということが徹底されたそうです。

「ノモンハン事件」の悲劇は、戦いに敗れただけでなく、「捕虜になるな」という太平洋戦争中の日本軍の対応を先取りしていたことです。

ノモンハンで戦い生き残った兵士の長野近松さんは、自決用にあらかじめ上官から手榴弾を渡されていたと語っています。

捕虜になったら自殺して、そのために手榴弾をポケットに取っといてね。それだけに厳しいんだよ。最初から日本軍は絶対に捕虜になってはいかん自殺しろって。それで手榴弾をみんな持ってる。もう自殺者は多いですよ。

ただし、「陸軍刑法」には、捕虜になった者を処罰する法的な裏付けはありませんでした。

ちなみに、太平洋戦争末期のサイパン島や沖縄の戦いでは、軍人だけでなく一般住民にも自殺が強要されるようになりました。

私の見た動画51『ノモンハン事件に見る責任なき大本営システム』



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