足利義教は残念な将軍。元僧侶でくじ引きで選ばれ、恐怖の独裁者となった!

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足利義教

足利尊氏(1305年~1358年)によって開かれた室町幕府も、三代将軍足利義満(1358年~1408年)の時代に全盛期を迎え、「北山文化」も開花しましたが、六代将軍足利義教は色々と問題のある将軍でした。

今回は足利義教についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.足利義教(あしかがよしのり)とは

室町幕府将軍系図

六代将軍足利義教(1394年~1441年、在職:1428年~1441年)は、三代将軍足利義満の四男で母は側室の藤原慶子で、四代将軍足利義持(1386年~1428年、在職:1394年~1423年)の同母弟です。

僧侶時代は義円(ぎえん)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗りました。

彼には「籤引(くじび)き将軍」「籤将軍」「還俗(げんぞく)将軍」「悪御所」「万人恐怖」など、あまり有難くない異名がたくさんあります。

2.天台座主

上に兄が二人いたため、生後すぐに青蓮院(しょうれんいん)に入れられました。僧侶として修行を積み、1419年に天台座主(てんだいざす)となり、一時大僧正にもなっています。

このまま僧侶として一生を終えれば平穏な人生だったかもしれません。

しかし兄の四代将軍足利義持が1423年に、16歳の息子の足利義量(あしかがよしかず)(1407年~1425年、在職:1423年~1425年)に将軍職を譲って五代将軍とし、引き続き政治の実権を握りました。

1425年に義量が急死した後も、法体の義持が引き続き政治を行いました。しかしその義持も3年後に「後継者の指名を拒否」したまま亡くなります。

3.くじ引き将軍

義持が危篤に陥っても「後継者の指名を拒否」したため、群臣が評議の結果、六代将軍は「石清水八幡宮でくじ引き」を行い、義持の弟である梶井門跡義承・大覚寺門跡義昭・相国寺虎山永隆・義円の中から選ぶことになりました。

朝廷でも過去に、後継天皇の指名をせずに崩御した後嵯峨上皇がいたため、「南北朝時代」というややこしい状況を招いたことがありますので、どうしても公平かつ円満に解決する必要があり、「神意によるくじ引き」という極めて異例の選定方法になったのでしょう。

くじ引きの結果、選ばれたのが義円(後の足利義教)だったので、彼は「くじ引き将軍」とも呼ばれるようになりました。

4.恐怖の独裁者

「天台座主」という最高位の僧侶出身の彼のことですから、理想的なことを言えば、「麒麟がくる」ような善政を敷いてもよさそうなものですが、権力欲に目覚めた彼は変身することになります。

余談ですが、正親町(おおぎまち)天皇の弟で天台座主の覚恕(かくじょ)(1521年~1574年)という僧侶がいました。大河ドラマ「麒麟がくる」で春風亭小朝が演じていました。

覚恕(春風亭小朝)

織田信長による「比叡山焼き討ち事件」(1571年)の時の天台座主です。彼は京にいて危うく難を逃れましたが、腐敗堕落した僧侶で、酒池肉林の豪奢な生活を送り、金の亡者で権力欲の塊だったようです。

なんだか足利義教は覚恕に似ているような気がします。

1430年に行われた「直衣初めの儀」の儀式中に笑い声を漏らした東坊城益長の態度を見て、「将軍を笑った」と激怒して、所領を没収し蟄居を命じたのをはじめ、前摂政・一条兼良邸で行われた闘鶏行列で彼の行列が通れないことに激怒して闘鶏を禁止しています。

暴挙はこのほかにも、恨みを持っていた側室日野重子の兄・日野義資の所領を没収して謹慎させ、1434年に重子が義勝を産んだ際に日野義資のもとへ祝賀に訪れた客を処罰したりしています。ちなみに、日野義資はその後何者かに斬殺されています。

また、「献上された梅の枝が折れた」「料理がまずい」と言った理由で、庭師・料理人を処罰したりしています。彼は相当酷薄で残忍な性格だったようです。

余談ですが、彼は将軍としての権力を誇示するためか、足利義満に続いて、「蘭奢待」の切り取りを行っています。

彼は鎌倉公方・足利持氏が、義持の後嗣になれなかったことを不満として1438年に起こした反乱(永享の乱)を鎮圧して持氏を自害させたほか、守護大名の相続問題に干渉するなど幕府権力の伸張を図るなど専制政治を行いました。

1440年には一色義貫・土岐持頼ら有力守護大名を討ち、また、興福寺・比叡山などの僧徒を攻めて屈服させました。

しかし、その策があまりにも厳しかったため、諸将の不満と不安を招きました。

5.暗殺

このような万人が恐怖におびえるような独裁を繰り返した彼は、1441年に播磨・備前・美作の守護であった赤松満祐(あかまつみつすけ)(1381年~1441年)に暗殺されました。赤松満祐が彼を自邸に招き、宴席の最中に斬殺したのです。これが「嘉吉(かきつ)の乱」です。

赤松満祐は彼に疎まれていた上に、弟の赤松義雅が彼に所領を没収されており、不満が鬱積していたものと思われます。

くじ引きで将軍になったというコンプレックスがあったのか、僧侶出身なのに慈悲深い善政を行うどころか、権力を笠に着た独裁を行いましたので、これは「身から出た錆」と言うべきかもしれません。

彼は僧侶の身でありながら、偶然の運命のいたずらで武家の棟梁たる征夷大将軍にされ、その後権力欲に目覚めたという意味では、十五代将軍足利義昭(1537年~1597年、在職:1568年~1588年)とよく似ています。

室町幕府は足利尊氏が1336年に幕府を開いてから、十五代将軍足利義昭が1573年に織田信長によって京から追放されるまで237年間続きました(名目上は、義昭が1588年に関白豊臣秀吉に従って参内し忠誠を誓うまで「征夷大将軍」でした)。

これは江戸幕府の十五代、265年間に次ぐ長期にわたる武家政権ですが、後半は「応仁の乱」以降戦国時代となるなど、安定度に欠けるものでした。



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