徒然草40段「栗しか食わない娘」。小林秀雄の謎かけ解釈と島内裕子の新解釈

フォローする



評論家・小林秀雄

1.徒然草40段「栗しか食わない娘」

(1)原文

 因幡国いなばのくにに、何の入道とかやいふ者の娘、かたちよしと聞きて、人あまた言ひわたりけれども、この娘、たゞ、栗をのみ食ひて、更に、よねの類を食はざりれば、「かゝる異様ことやうの者、人に見ゆべきにあらず」とて、親許さざりけり。

(2)現代語訳

 鳥取県の砂漠に何とかの入道とかいう人の娘がいた。すごくかわいいと噂がたったので、大勢の男の子がちょっかいを出しにやってきた。しかし、この女の子は、栗ばかり食べていて、全くお米などの穀物を食べなかったから、お父さんは、「こんなに変態な娘は、よそ様にお嫁さんとしてあげられません」と言って嫁ぐのを許さなかった。

2.小林秀雄の「謎かけ解釈」とは?

これは、「ただ栗をのみ食ひて、さらに米の類を」食わないという奇矯な嗜好を持つ娘を、父親が「『かかる異様の者、人に見ゆべきにあらず』とて」結婚させなかったという話です。

徒然草には、滑稽な話も含めて人生訓や教訓になるような話が多いのですが、この段は異色です。兼好法師は何を言いたかったのでしょうか?

この40段の解釈をめぐっては、大別して三つの説があります。

一つ目は、「単なる珍談に過ぎない」「特に教訓はない」という解釈です。徒然草を専門に研究している学者の大半はこの考え方のようです。

「日本古典全集 徒然草 橘純一校注 朝日新聞社」の第40段の注にも「この段はただ奇談逸聞として投入したもの」と書いてあります。

二つ目は、小林秀雄の「これは珍談ではない。徒然なる心がどんなに沢山な事を言わずに我慢したか」という解釈です。「鈍刀を使って彫られた名作のほんの一例」(*)として「これこそ徒然草、これが吉田兼好だ」と高く評価しています。

(*)徒然草229段

<原文>

 よき細工さいくは、少しにぶき刀を使ふと言ふ。妙観めいくわんが刀はいたく立たず。

<現代語訳>

 名匠は少々切れ味の悪い小刀を使うという。妙観が観音を彫った小刀は切れ味が鈍い。

では、どこが「これこそ徒然草、これが吉田兼好」なのでしょうか?丸谷才一や橋本治なども「これでは何もわからない」と述べています。

彼の文章は総じて難解で、福沢諭吉の言う「猿でもわかる文章」とは程遠いものです。彼が兼好法師の言いたいことがわかるというのなら、それをわかりやすくもっとちゃんと説明すべきです。

「どう解釈するかは読者に任せる。しっかり読み解け」と突き放して「謎かけ」をしているようでもあります。

彼は随筆『徒然草』の中で、兼好のことを「物が見え過ぎる眼」をもった「空前の批評家」であると賞賛しています。そして、「彼(兼好)は、モンテエニュがやった事」を、「モンテエニュが生れる二百年も前に」、「モンテエニュよりも遙かに鋭敏に簡明に正確に」「正確な鋭利な文体」をもってやった、つまり「様々な人間の興味ある真実な形を一つも見逃してやいない」で観察し批評したと評価しています。

ところが彼は兼好が「物が見え過ぎる眼」「利きすぎる腕」を持つがゆえに、「沢山の事」を感じつつも、それを「言わずに我慢した」と批評しつつ、その「沢山の事とは具体的にはどのような事理を指しているのか?」については、各読者に向け、ご自身で読み解いてみなさいといった「挑戦状」を突き付けるように、この随筆の中で全く述べていません。

「自分の腕前を隠す心得があることこそ、大きな腕前である」(La Rochefoucauld)という自負があるのか、あるいは兼好が意図して「我慢」した内容を読み解き、暴露することは「野暮」だと考えたのか、その理由は定かではありません。

しかし彼は、兼好の観察眼が「正確・鋭利」なもので、その文体も「鋭敏・簡明・正確」と評価しているのですから、各読者がそれなりに人生経験を積み、それなりの読解力を持っていれば、「作者と同じ」視線に立って徒然草(40段を含む)を読み込むことで、すなわち「ある特定の視点」に立って読みさえすれば、誰もが、兼好が「何を言わずに我慢したか」という第40段の本旨について、同じ理解・同じ結論に到達するという確信を持っていたのでしょうか?

3.島内裕子氏の「40段と41段の合わせ読み」による新解釈

三つ目は、ちくま学芸文庫の『徒然草』の著者島内裕子氏の説で、「40段は次の41段(*)の意味をはっきりさせ、41段があってはじめて40段はただの奇談ではなくなる」というものです。

島内氏は、「この41段を40段と合わせて読むことで、この日から兼好さんは変わったということがわかる」と言っています。なにが変わったのか?それまでの兼好さんは書籍のなかに友人を見出すほどの、本ばかりを読んで他人との交渉はほとんど持たない人だったのが、加茂神社の競べ馬での、このなにげないひとりごとがその契機となり、人々の間に入っていくようになったのだというのです。つまり40段の栗しか食べない娘は、それまでの兼好さんを象徴的に描いたものだったということです。そして、この41段は徒然草の転換点になっているのだと言います。

ちなみに島内裕子(しまうちゆうこ)氏(1953年~ )は東京大学文学部国文科卒の放送大学教授で、「徒然草文化圏の生成と展開」で文学博士号を取得しています。

(*)41段とは次のようなものです。

<原文>

 五月さつき五日、賀茂かもくらべべ馬を見侍りしに、車の前に雑人ざふにん立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、らちのきはに寄りたれど、ことに人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。

かかる折に、向ひなるあふちの木に、法師の、登りて、木のまたについゐて、物見るあり。取りつきながら、いたうねぶりて、落ちぬべき時に目をます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ物かな。かくあやふき枝の上にて、安き心ありてねぶるらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしまゝに、「我等が生死しやうじの到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、うしろを見返りて、「こゝに入らせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。

かほどのことわりたれかは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石ぼくせきにあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。

<現代語訳>

 五月五日、上賀茂神社で競馬を見た時、乗っていた車の前に小市民どもが群がっており、競馬が見えなかった。仕方がないので、それぞれ車からおりて競馬場の鉄柵に近づいてみた。けれども、そこは黒山の人だかりで人々をかき分けて中に入って行けそうになかった。

そんなときに、向こうにあるセンダンの木に坊さんが乗っていた。木に登り枝に座って競馬を見ている。枝に抱かれて居眠りもしている。何回も枝から落ちそうになって、そのたびに目を覚ます。これを見て人は坊さんを小馬鹿にしている。「珍しいほど馬鹿ですね。あんな危険なところでボケッと寝ているとは」なんて言っている。その時、思いついたことをそのままに、「我々だっていつ死ぬかわからないんですよ。今死ぬかもしれない。そんなことも知らないで見せ物を見て暮らすなんて、馬鹿馬鹿しいことは世界一です」と言ってやった。そうしたら、前にいる人たちは「いやあ、本当にそうですね。とっても馬鹿馬鹿しくなってきました」なんて言いながら、後ろにいる私を見つめた。「さ、さ、ここに入ってください」と言って、場所を空けてくれたので割り込みしたのであった。

こんな、当たり前のことは、誰も気づかない訳がないが、今日は競馬の日だから思いがけなく身につまされたのであろう。やっぱり、人は木や石じゃないから時には感動したりする。

3.私の個人的解釈

「徒然草」は、兼好法師が最初から「教訓書」として書いたものでは決してありません。「教訓書」として解釈しようとすると、どうしても無理が出てきます。「曲解」の恐れすらあります。陶淵明の「歳月人を待たず」の意味の「意図的な曲解」のように・・・

小林秀雄にとって徒然草は人生訓でも人生論でもなく、彼の目には吉田兼好は遁世者でも厭世論者でもなかったのです。「世の中の物が見え過ぎ物が解りすぎて、何をしても気が紛れることがなくて困った人」が、吉田兼好だったと感じていたようです。

兼好法師は、方丈記を書いた鴨長明のような「世捨て人」ではなく、都にも時々出てきて、「恋文の代筆」までするような「極めて世俗的な人」でもありますので、小林秀雄の見方は一面では当たっていると思いますが、40段の解釈としては説明が不十分です。

ただ島内裕子氏の説のように「40段から41段」で人が変わったように、「本の虫の世捨て人」から「世俗に交わる人」に急変したと考えるのは極論だと私は思います。

彼は俗世間と没交渉にはなっておらず、「恋文の代筆」をしてみたり、旅に出てみたり、違う地域で暮らしてみたりと、自由気ままに生きたようです。

徒然草は、彼の没後に弟子の命松丸や友人の今川了俊(1326年~1420年?)が編纂したという次のような面白い逸話が残されています。

今川了俊は、足利氏の二代、三代に仕えた武将で、且つ冷泉家の歌風に立つ歌詠みとして聞こえていましたが、兼好法師の没後に、兼好の弟子の命松丸(みょうまつまる)という歌詠みに行き会い、「なにか兼好法師の形見が残っていないか。あの法師のことだ。書き残した物でもあれば、さぞ面白かろうに」と訊ねたところ、命松丸はそれに答えて、「はい、お師匠さまは筆まめな方でしたが、一つも世に残そうなんていうおつもりはなかったようで、反古はそばから紙衣(かみこ)や何かに使ってしまい、残っている物といえば、旧(もと)の草庵の壁やら襖紙に貼った古反古ぐらいしかございませぬ」、「ほう、それは見つけものだ。面倒をかけるが、ひとつその反古を剥がして、わしに見せてくれんかの」。そこで、命松丸も、それはよい偲び草ともなり、またあれほどなお方の文字を勿体ない事だとも考えて、双ヶ丘や吉田山の旧草庵の物を丁寧に剥がして、やがて今川了俊の手元へとどけた。それは分厚い一ト束にもなる反古の量だったので、ふたりしてこれを整理翻読(ほんどく)したすえ、帖に編集したものが、すなわち後世に読み伝えられてきた『徒然草』になったという

以上のことから考えて、徒然草40段はあまり穿った見方をせず、素直に単なる「珍談・奇談」と考えた方がよいと私は思います。

なお、本題とは無関係ですが、「眞子さんと小室圭さんの結婚騒動」についての秋篠宮の「多くの人が納得して喜んでくれる状況でなければ」という言葉は、言外にいろいろな思いを込めた意味深長なものだと感じました。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする