江戸風俗がよくわかる「川柳いろは歌留多」(その3)(よ~な)

フォローする



江戸風俗川柳いろは歌留多

前に「江戸いろはかるた」を紹介する記事を書きましたが、江戸風俗がよくわかる「川柳いろは歌留多」というのがあるのをネットで見つけましたのでご紹介します。

これは、Ahomaro Ufoさんが作られたものです。この「川柳いろは歌留多」は江戸川柳「柳多留」から、庶民の生活を詠んだ川柳を<現代語解釈>で表現した不思議な空間です。

江戸の庶民風俗を浮世絵と明治大正時代の手彩色絵葉書や昭和30年頃までの広告などを巧みに取り入れた時代絵巻は、過去例を見ない雰囲気を醸し出しています。

Ahomaro Ufoさんが作られたものを、私なりにアレンジしてご紹介します。

1.よ:宵越し(よいごし)の銭を惜しまず五十間(ごじゅっけん)

川柳江戸風俗いろは歌留多・よ

「宵越しの銭は持たない」というのが、江戸っ子の職人の誇りでした。その日に稼いだお金はその日に使ってしまうのが「粋(いき)」という考えが、江戸の職人たちにはあったようです。

そう言っても大丈夫なほど、仕事に不自由しませんでした。というのも、江戸は消費が盛んでしたし、大火があるたびに「大工」「左官(壁塗り職人)」「指物師(さしものし)」(家具職人)などの仕事が増えました。

そんな職人たちの給金は日払いで、特にお屋敷関係から大きな仕事が入った時などは、「えーもんだ」をもじって、土手八丁から吉原へ降りる「衣紋坂」を目指しました。

この「衣紋坂」から「大門」に続く曲がりくねった道は「五十間通り」と呼ばれました。「どーでぃ五十間ほどえーもんじゃないか」と仕事を終えた職人たちは、家で待つ女房のことも忘れて吉原に急ぐのでした。

2.た:大名もえへん咳(せ)き込み辻雪隠(つじせっちん)

川柳江戸風俗いろは歌留多・た

辻雪隠」(公衆トイレ)の戸を開ける時には、「えへん咳払い払いをしなければなりませんでした。

不意に入ると、怒った神(雪隠神、厠神)に身体を引っかかれ、蚯蚓腫れ(みみずばれ)ができると言われていたそうです。

ちなみに「雪隠」とは、禅寺の便所の扁額(門戸や室内に掲げる額)に由来する語と言われています。便所の位置により東司(とうす)、西浄(せいじょう/せいちん)、登司(とうす)(南)、雪隠(北)と呼び分けました。昔の家屋は南に面していることが多く、便所は一般に家屋の裏、北側に設置されたことから、雪隠の語が広く普及し、今でも残っているのです。

3.れ:霊峰(れいほう)は八百八講(はっぴゃくやこう)の築山(つきやま)に

川柳江戸風俗いろは歌留多・れ

江戸の人にとっては、富士山は常に仰ぎ見る存在でした。私は中学校の修学旅行で東京に行った時、本郷の旅館から遠くにかすかに見える富士山を見た記憶があります。

天に聳える富士山は、自然に信仰の対象となって行きました。元禄の頃、食行身禄(じきぎょうみろく)(*)は富士登山45回の大行者でしたが、貧乏人の苦しさを見て、食物が万民に行き渡るようにすべきだと幕府を非難し、享保18年(1733年)富士山の七合五勺目の烏帽子岩で断食行を行い、35日後にそのまま入定(にゅうじょう)しました。「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の富士山版のようなものです。

(*)食行 身禄(1671年~1733年)は、宗教家で「富士講」の指導者です。本名は伊藤伊兵衛(いとう いへい)で、食行身禄は行名(富士講修行者としての名前)です。

元禄元年(1688年)に江戸で角行の四世(あるいは五世)弟子である富士行者月行劊忡に弟子入りし、油売りを営みながら修行を積みました。身禄という名前は、釈迦が亡くなって56億7千万年後に出現して世直しをするという弥勒菩薩から取ったものです。同時代の富士講指導者である村上光清が私財をなげうって荒廃していた北口本宮冨士浅間神社を復興させる大事業を行うなどして「大名光清」と呼ばれたのに対して、食行身禄は貧しい庶民に教線を広げ「乞食身禄」と呼ばれました。

身禄の教えを受けた弟子たちが「身禄神社」を建立し、江戸市中に次々と「富士講」を成立させ、ついには「江戸八百八講」と謳われるほどの勢いで富士に似せた「霊峰新富士」が江戸中に築かれました。

6月1日の「山開き」には、これら新富士を有する富士神社が人々で賑わいました。

4.そ:袖の下やらぬと婆(ばば)あ長座(ながい)する

川柳江戸風俗いろは歌留多・そ

「婆」とは、「遣り手婆(やりてばば)」の略で、遊女の世話をしたり、取り締まりをしたりする女のことです。

欲の皮の突っ張った者が多く、祝儀の金品にありつくまでは意地の悪い振る舞いをすることが多かったそうです。

「遣り手婆」ではありませんが、私は旅館の仲居が「チップ」を暗に要求し、受け取れるまで粘るような場面に遭遇したことがあります。

5.つ:釣り落とす魚(とと)は噺(はなし)にひれがあり

川柳江戸風俗いろは歌留多・つ

江戸時代から魚釣りは四民平等の楽しみでした。古典落語にもしばしば登場します。

長屋のご隠居が向島に釣りに出かけ、魚のかわりに人骨を引っ張り上げたので、手向けの句を詠み酒をかけてやったところ、毎晩女の幽霊がお礼にやって来る「野ざらし」という落語もあります。

秋の彼岸からのハゼ釣りシーズンには、深川から本所にかけての河岸が釣り人で埋め尽くされたということです。

ハゼ釣りは、小型の魚なので女の髪の毛が釣り糸によく、落語のように女にまつわる逸話が多いようです。

今も昔も釣り人の話には、尾ひれがつくものです。

6.ね:年明け(ねんあけ)のこっぱたきたき根津のうさ

川柳江戸風俗いろは歌留多・ね

勤めの年季を終えて(年季明け)今は大工の女房となった根津の女(遊女)が、木っ端(こっぱ)を焚き焚き、苦界の憂さ・辛さをしみじみと語っている情景です。

根津遊里の客だった大工と所帯を持っていることを、工事現場から持ち帰った薪の木っ端によって暗示しています。

7.な:習うより盗んで馴(な)れろ技(わざ)の道

川柳江戸風俗いろは歌留多・な

江戸時代は「士農工商」の身分制度があり、大工の子は大工、鍛冶屋の子は鍛冶屋と決まっており、しかも徒弟制度によって何年も修行を積まなければ一人前にはなれませんでした。

絵師も同様に、絵師の師匠の門下に入らなければ、絵師として活躍はできませんでした。狩野派や歌川派などの絵師たちは、その手法を師匠や兄弟子の仕事を手伝いながら、見よう見まねで覚えたのでした。

「習うより馴れろ」は、「改まって人から教えてもらうより、実際に経験を積んだり練習を重ねたりして、体で覚えていくほうが、しっかりと身につく」という意味ですが、これはそんな下積み職人に先輩たちから浴びせられた言葉でした。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村