勝海舟と言えば、西郷隆盛との会談によって「江戸城無血開城」を決め、江戸の町を戦火から救った大恩人として知られています。
しかし一方で、自らも認めているように「大ほら吹き」という噂もあり、咸臨丸で一緒に渡米した福沢諭吉などは勝海舟を厳しく批判するなど毀誉褒貶の多い人物です。
そこで今回は、勝海舟の人物と人生について少し詳しく振り返ってみたいと思います。
1.勝海舟とは
勝海舟(1823年~1899年)は、旧幕臣で幕末から明治時代にかけての政治家です。旗本小普請組勝小吉の長男です。
幼名及び通称は麟太郎で、明治維新後に安芳(やすよし)に改名しています。これは幕末に武家官位として「安房守(あわのかみ)」を名乗ったため勝安房として知られていましたが、維新後は「安房」を避けて同音の「安芳」に代えたものです。本人は「あほう」とも読めると語っています。
海舟は号で、幕末の思想家・兵学者である佐久間象山(1811年~1864年)直筆の書「海舟書屋」から取ったものです。佐久間象山は勝海舟の妹を妻にしていますので義弟にあたります。
幼少時に12代将軍徳川家慶の五男の一橋慶昌(1825年~1838年)の遊び相手として江戸城に召されたことがあるそうです。一橋家の家臣として出世する可能性もありましたが、慶昌が13歳で早世したためその望みは消えました。
10代の頃から島田虎之助に入門して剣術・禅を学び、直心影流剣術の免許皆伝となります。16歳で家督を継ぎ、1845年から永井青崖に蘭学を学んで、赤坂田町に私塾「氷解塾」を開きました。
老中首座の阿部正弘(1819年~1857年)が主導した「安政の改革」で才能を見出され、「長崎海軍伝習所」に入所し、1860年には幕府使節とともに「咸臨丸の事実上の艦長」として渡米し、幕府海軍育成に尽力しました。
1863年には「神戸海軍操練所」設立の許可を得て、諸藩士、坂本龍馬(1836年~1867年)ら脱藩浪士の教育に当たりました。
1864年に「軍艦奉行」となりますが、「禁門の変」以降の幕府保守路線に触れて同年免職となりました。しかし1866年「第二次征長戦争」に際して復任し、会津・薩摩間の調停や長州との停戦交渉に当たりました。
1868年「鳥羽伏見の戦い」に敗れた徳川慶喜(1837年~1913年)が江戸に帰還した後は、「軍事総裁」となって軍事取扱いに転じ、旧幕府の後始末に努めました。
「鳥羽伏見の戦い」に始まる「戊辰戦争」(1868年~1869年)の時には、徹底抗戦を主張する小栗忠順(1827年~1868年)に対して早期停戦と江戸城無血開城を主張しました。
そして薩摩藩や長州藩などの東征軍(新政府軍)の江戸総攻撃予定日の前夜に、西郷隆盛(1828年~1877年)と談判して戦闘回避に成功しました。
明治維新後は、「参議」、「海軍卿」、「枢密顧問官」を歴任し、「伯爵」に叙せられています。
2.勝海舟にまつわるエピソード
(1)幕末の三舟
勝海舟は、山岡鉄舟(1836年~1888年)(下の画像左)・高橋泥舟(1835年~1903年)(下の画像右)とともに「幕末の三舟」と呼ばれています。
幕末に徳川慶喜から戦後処理を一任された勝海舟は、官軍の西郷隆盛との交渉役に高橋泥舟を推薦しましたが、高橋は慶喜の身辺警護にあたる「遊撃隊」隊長を務めており、江戸を離れることができなかったため、高橋の義弟である山岡を交渉役に指名しました。
1868年4月1日、山岡は西郷との会談で、江戸城開城の基本条件について合意を取り付けることに成功しました。その後、勝が単身で西郷と会談し、1868年5月3日に江戸城は無血開城されることになったのです。
江戸を戦火から救った勝・山岡・高橋の名前にいずれも「舟」がつくことから、この三人を「幕末の三舟」と呼ぶようになったのです。
「江戸城無血開城」については、一般に勝海舟と西郷隆盛との直前の直談判で劇的に決まったように描かれますが、実際は山岡鉄舟と西郷隆盛との綿密な事前交渉によって事実上決着していました。
(2)咸臨丸の艦長
幕府は1860年に「日米修好通商条約」の批准書交換のために、アメリカ海軍のポーハタン号で遣米使節(正使:新見正興、副使:村垣範正、目付:小栗忠順)を派遣しました。
この時、護衛という名目で軍艦を出すことになり、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに派遣されました。
咸臨丸には、軍艦奉行・木村喜毅(1830年~1901年)、木村の従者として福沢諭吉(1835年~1901年)、教授方頭取として勝海舟、通訳としてジョン万次郎(1827年~1898年)らが乗船しましたが、米海軍から測量船フェニモア・クーパー号艦長だったジョン・ブルック大尉も乗り込みました。
咸臨丸の航海を福沢諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自賛していますが、実際には日本人乗組員は船酔いのためほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったとも言われています。
勝海舟は船酔いのため、船室に閉じこもったままで、実際には艦長の役目は果たせなかったそうです。
昔から勝海舟は咸臨丸艦長として渡米したと言われていますが、福沢諭吉はこれに反発して「福翁自伝」の中で、木村を「艦長」、海舟を「指揮官」と書いています。
余談ですが、福沢諭吉は勝海舟が徹底抗戦しなかったことを「単なる腰抜けだった」と非難し、旧幕臣にもかかわらず明治維新後に新政府に仕えたことを「痩我慢(やせがまん)が足りなかった」と批判しています。
(3)野良犬強襲事件
海舟が9歳の頃、野良犬に襲われて陰嚢を噛み切られる事件がありました。このことがトラウマとなって犬の大きさに関係なく晩年まで犬を苦手としたそうです。
なお父親の勝小吉が書いた「夢酔独言」にも、この事件についての記述があります。
(4)父親の勝小吉は破天荒で有名な人物
父親の勝小吉(1802年~1850年)は破天荒で有名な人物だったようです。
旗本勝甚三郎の末期養子となりますが、喧嘩好きで学問を嫌い、たびたび問題を起こしたそうです。
1815年に江戸を出奔して上方を目指しましたが、途中で護摩の灰(盗賊)に路銀と服を奪われて無一文になり、乞食をしながら伊勢参りをしました。旅の途中で病気になりますが乞食仲間や賭場の親分に助けられ,江戸へ無事に戻りました。
1819年に甚三郎の実娘・信と所帯を持ちますが、1822年には再び江戸を出奔し、道中「水戸の家来だ」と身分を偽り宿屋や人足をだまして旅を続けました。遠州の知り合いのところにしばらく逗留していましたが、江戸から甥が迎えに来たため仕方なく江戸に戻りました。
江戸に帰ると父親に座敷牢に入れられ、そこで21歳から24歳まで過ごしたということです。その間に長男の麟太郎(後の海舟)が生まれます。
麟太郎が3歳になった頃「隠居して3歳になる息子に家督を譲りたい」と願いましたが、父から「少しは働け」と諭され、就職活動を始めます。しかし日頃の行いが悪いために役に就くことができませんでした。
その後は喧嘩と道場破りをしながら、刀剣の売買や町の顔役のようなことをして過ごしました。
37歳で家督を麟太郎に譲って隠居しています。1843年には、中風発作の後遺症もあったため鶯谷に庵を結び、以前より静かな生活に入り、「平子龍先生遺事」と「夢酔独言」を書いています。48歳で亡くなりました。
「夢酔独言」は、子孫に自分のようにはなるなと伝える目的で書かれたもので、「けして俺のまねをするな」と書いています。「俺のまねをするな」と言いつつも、やりたい放題の八方破れな自分の半生をおおっぴらに誇張を交えて書き残したもので、「ほら吹き男爵の冒険」のような面白さがあります。
この父親の気質は勝海舟にも遺伝しているようで、彼の談話をまとめた「氷川清話」なども面白おかしい自慢話のようなところがあります。
3.勝海舟の言葉
・何でも大胆にかからねばならぬ。難しかろうが易しかろうが、そんなことは考えずに、いわゆる無我の境に入って断行するに限る。
・外国へ行く者が、よく事情を知らぬから知らぬからと言うが、知って行こうというのが良くない。何も用意しないでフイと行って、不用意に見て来なければならぬ。
・事を成し遂げる者は愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない。
・人には余裕というものが無くては、とても大事はできないよ。
・その人がどれだけの人かは、人生に日が当たってない時にどのように過ごしているかで図れる。日が当たっている時は、何をやってもうまくいく。
・人の一生には、炎の時と灰の時があり、灰の時は何をやっても上手くいかない。そんなときには何もやらぬのが一番いい。ところが小心者に限って何かをやらかして失敗する。
・世の中に無神経ほど強いものはない。
・自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。
・生死を度外視する決心が固まれば、目前の勢いをとらえることができる。難局に必要なことはこの決心だけだ。
・急いでも仕方がない。寝転んで待つのが第一だと思っています。
・もし成功しなければ、成功するところまで働き続けて、決して間断があってはいけない。世の中の人は、たいてい事業の成功するまでに、はや根気が尽きて疲れてしまうから大事ができないのだ。
・機先を制するというが、機先に遅れる後の先というものがある。相撲取りを見てもただちにわかる。
・俺など本来、人(生まれ)が悪いから、ちゃんと世間の相場を踏んでいる。上がった相場はいつか下がるときがあるし、下がった相場もいつか上がるときがあるものさ。その間、十年焦らずじっとかがんでいれば、道は必ず開ける。
・世人は首を回すことは知っている。回して周囲に何があるか、時勢はどうかを見分けることはできる。だが、もう少し首を上にのばし、前途を見ることを覚えないといけない。
・学者になる学問は容易なるも、無学になる学問は困難なり。
・時勢の代わりというものは妙なもので、人物の値打ちががらりと違ってくるよ。
・生業に貴賤はないけど、生き方に貴賤があるねえ。
・天下の大勢を達観し、時局の大体を明察して、万事その機先を制するのが、政治の本体だ。
・外交の極意は、誠心誠意にある。ごまかしなどをやると、かえって、こちらの弱点を見抜かれるものだよ。
・行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない。
・人間の精根には限りがあるから、あまり多く読書や学問に力を用いると、いきおい実務の方にはうとくなるはずだ。
上の二つのの言葉は、勝海舟を批判する人々、特に福沢諭吉に向けた彼の主張と思われます。政治を行う「実行派」のプライドを持つ彼は、政治思想家・評論家で実務にうとい「理論派」の福沢諭吉への反論です。
前にNHK朝ドラ「エール」の主人公のモデル「古関裕而」の記事を書きましたが、彼は時代が大激変した戦前・戦後を「一身二生」を身を以て生きた人です。戦時中は戦意高揚のための「軍歌」の流行作曲家で、戦後は平和を祈る「長崎の鐘」などの「歌謡曲」、「六甲おろし」(阪神タイガース応援歌)、「オリンピックマーチ」、「栄冠は君に輝く」(高校野球)などのスポーツの「行進曲」を数多く作曲しました。
勝海舟も、無節操な変わり身の早さという批判や多少の「はったり」や「ほら」もあると思いますが、時代が大激変した幕末と明治維新後の時期に、「一身二生」を身を以て生きた人と言えると思います。