河東碧梧桐は「新傾向俳句」の旗手として、「自由律俳句」の提唱者である荻原井泉水が主宰する「層雲」にも参加しましたが、その後袂を分かちました。
その原因は何だったのでしょうか?今回は河東碧梧桐について考えてみたいと思います。
1.河東碧梧桐とは
「河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)」(1873年~1937年)は愛媛県出身の俳人・随筆家です。本名は秉五郎(へいごろう)です。
正岡子規(1867年~1902年)の高弟として、高浜虚子(1874年~1959年)とともに「子規門下の双璧」と謳われた「俳句革新運動」の代表的人物です。
1888年、伊予尋常中学の時、帰郷した子規に野球を教わったことがきっかけで、同級生の高濱清(後の高浜虚子)を誘って俳句を学び始めました。
1893年に旧制三高に入学しますが、後に旧制二高に転じます。1894年に子規が「俳句革新運動」を始めると、高浜虚子とともに学校を中退してこれに参加しています。
彼は上京後、子規が主張する「写生」を推し進め、1896年には印象明瞭な作品として結晶させています。1900年、結婚しています。
1902年に子規が没すると、新聞「日本」の俳句欄の選者を子規から引き継ぎます。
しかし1905年頃から、従来の五七五調の形に囚われない「新傾向俳句」に走り始め、1906年~1911年にかけて新傾向俳句の宣伝のために、「三千里」と言われた二度の全国俳句行脚を行いました。
俳誌「ホトトギス」に拠って守旧派として伝統的・客観的な五七五調を擁護する「ホトトギス派(趣向派)」の虚子に対し、彼は新聞「日本」に拠って五七五調に囚われない写実を重んじる主観的な新傾向俳句の「日本俳句派」を形成しました。
1911年には、荻原井泉水が創刊・主宰した自由律の俳誌「層雲」に参加しました。しかし、1915年に荻原井泉水は「季語無用」を主張し、自然のリズムを尊重した「無季自由律俳句」を提唱しました。
その結果、季語を捨てることを拒んだ碧梧桐は「層雲」を去ることになります。
1933年、還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明し、1937年に亡くなりました。
2.河東碧梧桐の俳句
・赤い椿白い椿と落ちにけり
・角力(すもう)乗せし便船(びんせん)のなど時化(しけ)となり
・蕎麦白き道すがらなり観音寺
・雪チラチラ岩手颪(おろし)にならで止(や)む
・ミモーザを活(い)けて一日留守にしたベットの白く
・曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ
・撫子(なでしこ)や海の夜明けの草の原
・ひたひたと春の潮うつ鳥居かな
・空をはさむ蟹死にをるや峰の雲
・雪を渡りてまた薫風の草花(そうか)踏む
・から松は淋しき木なり赤蜻蛉
・この道の富士になり行く芒(すすき)かな
・ひやひやと積み木が上に海見ゆる
・思わずもヒヨコ生れぬ冬薔薇(ふゆそうび)
・上京や友禅洗ふ春の水
・田螺(たにし)鳴く二条御門の裏手かな
・苗代(なわしろ)と共にそだつる蛍かな
・菜の花に汐(しお)さし上る小川かな
・夕暮のほの暗くなりて蚕棚(かいこだな)
3.河東碧梧桐の「新傾向俳句」と荻原井泉水の「無季自由律俳句」について
(1)「新傾向俳句」とは
「新傾向俳句」とは、河東碧梧桐を中心とする新傾向の俳句および俳句運動のことです。
彼は自然主義の影響下で、子規流の平面的写生を脱却し、「定型の打破」「季題趣味の打破」「生活描写・心理描写による主観尊重」「実感描写による個性発揮」を唱え、明治末から大正初めにかけて流行した俳句です。
この「新傾向俳句」は、俳人「大須賀乙字(おおすがおつじ)」(1881年~1920年)の論文「新俳句界の新傾向」に端を発したものです。
(2)「無季自由律俳句」とは
「無季自由律俳句」(自由律俳句)とは、五七五の定型俳句に対して、定型に縛られずに作られる俳句のことです。季題にとらわれず、感情の自由な律動(内在律、自然律などとも呼ばれる)を表現することに重きが置かれます。
「文語」や、「や」「かな」「けり」などの「切れ字」を用いず、「口語」で作られることが多いのも特徴です。
これは「新傾向俳句」の考え方をさらに先鋭化して推し進め、「定型を全く破壊し」「切れ字や季題を無用とする」俳句です。
自由律俳句は「あくまでも定型から自由になろうとすることによって成立する俳句」です。
17音より短い作品は「短律」、長い作品は「長律」と呼ばれます。定型の意識を保ったまま作られる「字あまり」「字たらず」「句またがり」「破調の句」とは区別されます。
(3)私の考え方
尾崎放哉の「咳をしても一人」という句や、種田山頭火の「まっすぐな道でさみしい」という句は、「無季自由律俳句」を象徴するような俳句です。
ただこれらの句は、ツイッターの「つぶやき」のようなもので、俳句本来の「季節感」や「味わい」「余韻」が感じられず、孤独感や無常観を吐露しただけの独りよがりの自己満足のように私は感じます。
荻原井泉水は河東碧梧桐の「新傾向俳句」を不徹底なものとして批判しましたが、「季語・季題」や「定型」を無用として破壊した「無季自由律俳句」は、もはや俳句とは言えないものになってしまったように思います。
旧来の伝統を打破し、新味を出そうとして「俳句という建物の柱」である「季語・季題」や「定型」「切れ字」をまで取り払ったことで、「俳句という建物」が崩壊して「俳句とは似ても似つかぬもの」になってしまいました。
「角を矯めて牛を殺す」ということわざがありますが、「少しの欠点を無理に直そうとして、そのもの全体をだめにしてしまう」「枝葉末節にこだわって、そのものの良さをなくしたり肝心の本質を見失う」愚を犯しているように感じます。
そういう意味で、私は河東碧梧桐の「新傾向俳句」を不徹底とする荻原井泉水の批判は正鵠を得ていないと思います。