スポーツの世界では、テニスの錦織圭選手や大坂なおみ選手にもコーチがおり、ゴルフのタイガー・ウッズ選手やフィル・ミケルソン選手にもコーチがいます。プロ野球にもコーチはいます。
しかし、「役員のコーチ」というのはあまり耳慣れない言葉だと思います。もちろん「監査役」や「社外取締役」「第三者委員会」のことではありません。
日本ではまだあまり知られていませんが、元フットボール監督で、「一兆ドルの男」と呼ばれたシリコンバレーで有名な「役員のコーチ」がいました。
1.「一兆ドルの男」とは
(1)ビル・キャンベルとは
その男の名は、ビル・キャンベル(Bill Campbell)です。彼は2016年に75歳で亡くなりましたが、元コロンビア大学のアメリカンフットボール部監督でした。Appleの元CEOのスティーブ・ジョブズやGoogle共同創業者のラリー・ペイジ、Facebook創業者のマーク・ザッカーバーグ、TwitterCEOのジャック・ドーシーらの「メンター」として知られています。
「メンター」とは、仕事上の助言者・指導者・顧問・相談相手のことです。
「メンター制度」は、企業において、新入社員などの精神的なサポートをするために専任者を設ける制度のことで、1980年代にアメリカで人材育成の手法として制度化され、日本でも「OJT制度」「指導員」として活用されています。
(2)ビル・キャンベルの基本的な考え方と人物像
①何よりも人を大事にする
②従来の指標以外にも評価基準を持っている
彼は4つの指標で社員を評価するシステムを考案しました。それは、「従来の指標、仲間との人間関係、社員を向上させるための貢献度、どれくらい革新的であるか」の4つです。
③現実離れしたビジョンを立てない
彼はCOO(最高執行責任者)を立てないようにアドバイスしました。彼はビジョンはとても大事で、実行できるものが最高だと考えていました。CEO(最高経営責任者)とCOOがいると、COOは幹部から受けた報告をCEOに伝える役割なので、CEOが社内の現実から離れてしまうことを懸念したのです。
④イノベーションに価値を置く
彼は常に「研究開発の予算」を増やすように求めました。キャンベル自身は、技術的なことは知りませんでしたが、エンジニアをとても高く評価しており、素晴らしいイノベーションを生み出せるように、自由な時間やリソースを与えたそうです。
⑤全幅の信頼を置かれている
多くのトップ経営者たちが、彼をメンターとして全幅の信頼を置いていました。
⑥表彰も賞賛も要らない
彼は表舞台に出たがりませんでした。コーチ、メンターとして黒子に徹したということでしょう。
⑦ありのままの自分でいる
彼はシリコンバレーのピカピカのオフィスにはおらず、「コーチの場所」というプレートの掛かったパロアルトの古いスポーツバーで仕事をしていました。
彼はシリコンバレーの創業者・経営者たちにとって、精神的支柱のような存在だったのでしょう。古代中国の諸葛孔明や日本の戦国時代の竹中半兵衛や黒田官兵衛のような「軍師」にも似ています。戦後日本の保守政治家や財界人の精神的指導者として大きな影響を及ぼした安岡正篤のような存在とも似ていますね。
2.「役員のコーチ」の必要性
では、新入社員でもないベテランの役員に「コーチ」あるいは「メンター」がどうして必要なのでしょうか?
GoogleのCEOのエリック・シュミットも、キャンベルをコーチにするよう勧められた時、「優秀なブレーンを何人でも集められる私に、なぜコーチが必要なのか?」と首を傾げたと語っています。
しかし、彼を役員会議に同席させるようになってからは、問題解決が進むだけでなく、役員チーム全体の人間関係の質が改善したそうです。
IT企業のような時代の最先端を行く企業で、役員のコーチが必要になって来た理由は、「専門的な能力に秀でた幹部社員を集めれば集めるほど、お互いがライバルになりやすく、組織が動かなくなるから」ということのようです。
キャンベルの功績は、エグゼクティブ同士の理解を促進させ、マネジメントの全体品質を改善したことです。彼はよく役員たちに「同僚はあなたをどのように見ていると思うか?」という質問を投げかけたそうです。
彼が役員のコーチとして本格的に活躍し始めたのは50代になってからです。彼の人生経験が、組織の潤滑油の役割を果たす上で大きな力になったのでしょう。「老いたる馬は道を忘れず」ということでしょうか?
デジタル革命によって、仕事では同僚と対面しなくてもよい環境が当たり前になって来ましたが、人間関係が疎遠になり意思疎通に支障が出て来るようになったということでしょう。
3.ビル・キャンベルに対するシリコンバレーの経営者たちの評価
GoogleのCEOのエリック・シュミットは、「ビル・キャンベルは巨大なハートの持ち主で、会う人全員を抱きしめ、メンターを超えた存在だった。我々がGoogleを作るのを数えきれない方法で手伝い、成功をもたらした。我々は彼を外部コーチとしてスタートしたが、すぐに彼は経営のエキスパートになった。スタッフミーティングに参加し、幹部と会い、会社のリーダーたちと長い時間を過ごした。取締役会設立を手伝い、会社のカルチャー構築にも手を貸してくれた。わが社のファウンダー(創業者)たちとは非常に密接にあらゆる方法でともに仕事をした」と述べています。
Apple社は、「Appleの多くの人々にとってコーチであり、メンターであり、何十年にもわたって幹部としてわれわれ家族の一員であり、アドバイザーであり、最終的には取締役だった。彼は他の人が信じない時にAppleを信じた。良い時にも悪い時にも。彼がわが社に与えた貢献は言い尽くせない。彼の英知、友情、ユーモア、そして人生への愛を忘れることはできない」との声明を出しています。
通り一遍の「形式的な賛辞」ではなく、心底からの賞賛・感謝であることがよくわかります。