皆さんも一度は伊藤若冲の絵をご覧になったことがあると思います。
江戸時代にこのような極彩色で奇想天外かつ斬新な絵を描いた絵師がいたというのは大変な驚きですね。一見写実的でありながら、サルバドール・ダリ(1904年~1989年)などのシュールレアリスム(超現実主義)にも通じる画風です。
伊藤若冲とは一体どのような人物だったのでしょうか?
そこで今回は伊藤若冲についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)とは
伊藤若冲(1716年~1800年)は、江戸中期から後期にかけての画家で、名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)です。斗米庵(とべいあん)・米斗翁(べいとおう)・心遠館(しんえんかん)・錦街居士(きんがいこじ)とも号しました。
「若冲」の号は、禅の師であった相国寺(しょうこくじ)の禅僧・大典顕常から与えられた居士号です。
これは「老子」45章の「大盈若冲(だいえいじゃくちゅう)」から取ったもので、「大いに充実しているものは、空っぽのように見える」という意味です。
(1)生い立ちから40歳で隠居するまで
彼は京・錦小路にあった青物問屋「桝屋」(通称「桝源(ますげん)」)の3代目桝屋源左衛門の長男として生まれました。
15歳頃から「町狩野(在野の狩野派」の大岡春卜に絵画を学びました。しかしこれに飽き足らず、京大坂の名刹にある宋・元・明の花鳥画を数多く模写してその写実力に驚嘆するとともに、尾形光琳(1658年~1716年)の画風を研究し、写実性を基調に装飾性を加えた独自の境地を開きました。
23歳の時、父が亡くなったため4代目桝屋源左衛門を襲名しています。
(2)若冲に影響を与えたキーパーソンの大典顕常
彼は画業とともに禅を相国寺の臨済宗の禅僧・大典顕常(だいてんけんじょう)(1719年~1801年)に学びました。
師の大典顕常が書き遺した記録「藤景和画記」によると、「若冲という人物は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかった。商売には熱心でなく、芸事もせず酒も嗜まず、生涯妻も娶らなかった。商人時代、若冲は家業を放棄して2年間丹波の山奥に隠棲してしまい、その間、山師が桝源の資産を狙って暗躍し、青物売り3千人が迷惑した」ということです。
大典顕常は異才の絵師である彼を支援し続け、相国寺の襖絵などを描かせています。
大典顕常は彼の後援者でもありましたので、跡取りにしようと考えていた末弟・宗寂が亡くなった1765年に彼は、「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進しています。
(3)若冲に影響を与えたもう一人のキーパーソンの売茶翁
売茶翁(ばいさおう/まいさおう)(1675年~1763年)(「月海元照」とも言う)は、黄檗宗の僧で、「煎茶の中興の祖」と呼ばれる人物です。相国寺の臨済宗の禅僧・大典顕常とも交流がありました。
彼は61歳で東山に「通仙亭」を開き、また自ら茶道具を担って、京の大通りに喫茶店のような簡素な席を設け、禅道と世俗の融解した話を客にしながら煎茶を出し、茶を喫しながら考え方の相違や人のあり方と世の中の心の汚さを卓越した問答で講じ、簡素で清貧な生活をするために次第に汚れて行く自己をも捨て続ける行を生涯続けようとしました。
売茶翁のなじみ客でもあった相国寺の大典顕常は売茶翁のことを「『仏弟子の世に居るや、その命の正邪は心に在り。事蹟には在らず。そも、袈裟の仏徳を誇って、世人の喜捨を煩わせるのは、私の持する志とは異なっている』として売茶の生活に入った」と書き遺しています。
親交のあった若冲が売茶翁を描いた絵(上の画像)が残っています。
(4)40歳で隠居し、絵師として自立
彼は青物問屋の長男として生まれましたが、商売には身を入れず、絵画と禅に傾倒し、「若冲」の居士(在家の仏道修行者)号を得た後、40歳で家業を3歳下の弟・宗厳に譲り、相国寺に移り住んで絵師として画業に専念しました。
彼は花鳥画、特に鶏(にわとり)図を得意としました。40歳ころから約10年をかけて完成した「動植綵絵(どうしょくさいえ)」30幅が代表作です。
最高級の岩絵具をふんだんに使って描いたため、彼の絵はほとんど褪色しておらず、現在も描かれた当時の極彩色が楽しめます。
濃艶な彩色と彼独自の形態感覚で大胆にデフォルメされた形が見事に調和して、特異な幻想的・超現実的とも言える世界を作り出しました。
彩色画だけでなく、水墨画も描いていますが、決して普通の禅画のような枯淡なものではなく、写実的でダイナミックなものです。
彼が「実物写生」を重視するに至った背景には、中国画の影響のほか、「本草学」(薬用とする植物・動物・鉱物の形態・産地・効能などを研究する学問)の流行に見られるような実証主義精神の高まりがあったようです。本草学の流行で、魚介類や鳥類、植物などの色鮮やかな図譜(図鑑・博物画)も盛んに作られるようになったのです。
こうして彼は、当時の京では円山応挙(1733年~1795年)と並び称される絵師となりました。
(5)「錦市場再開」をめぐり、町年寄として活躍
隠居後の彼は画業に専念する一方、「町年寄」として町政にも関わりを持ち、錦高倉市場存続の危機に際しては再開に奔走しています。
(6)晩年
1788年の「天明の大火」で自宅を焼失しました。大火で窮乏したためか、豊中の西福寺や伏見の海宝寺で大作の障壁画を手掛け、相国寺との永代供養の契約を解除したりしています。
2.「伊藤若冲ブーム」が起きた理由
2002年に「伊藤若冲ブーム」が起きて、一気に人気が高まりましたが、ほかの多くの国民と同様に私もそれまではほとんど知りませんでした。
その理由は、明治時代に京都・相国寺(しょうこくじ)から彼の代表的作品「動植綵絵」30幅が皇室に献納され、人々の目に触れなかったためです。
最初に彼を再評価したのは美術史学者の辻惟雄です。1970年に「奇想の系譜」の中で、「当時日本美術史の研究から忘れ去られていた江戸時代の奇想の画家6人」の1人として取り上げました。
ちなみにその6人とは、岩佐又兵衛・狩野山雪・伊藤若冲・曾我蕭白・長沢芦雪・歌川国芳です。
しかし爆発的な「伊藤若冲ブーム」が起きたのは、2002年に京都国立博物館で開かれた没後200年記念の「若冲」展がきっかけです。その絵が商品デザインや音楽のビデオクリップなどに使われ、若者を中心に現代人の心を捉えました。
2006年に東京国立博物館で開かれた「プライスコレクション 若冲と江戸絵画」展は1日平均約6500人が訪れ、2カ月弱で約32万人を集めました。
3.伊藤若冲の代表的作品