黒田官兵衛と言えば、豊臣秀吉をも恐れさせた「天才軍師」として知られており、2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でも取り上げられましたが、どんな人物で、どのような人生を送ったのでしょうか?
今回は黒田官兵衛についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.黒田官兵衛(くろだかんべえ)とは
黒田官兵衛は、本名黒田孝高(くろだよしたか)で、官兵衛は通称です。出家後は「如水(じょすい)」と称しました。
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名で、「黒田節」で有名な筑前国福岡藩祖となりました。「キリシタン大名」でもあります。
軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広く活躍しました。竹中半兵衛(竹中重治)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称されました。
(1)生い立ち
黒田官兵衛(1546年~1604年)は、播磨国姫路城の城代・黒田職隆(くろだもとたか)(1524年~1585年)の嫡男として姫路に生まれました。
父の黒田職隆は、播磨城主小寺政織(こでらまさもと)の重臣で、小寺姓を名乗ることを許され、小寺職隆として支城・姫路城の城代となった人物です。
母は、小寺政織の養女(明石宗和の娘)岩姫です。
(2)播州時代
彼は1559年に母を亡くし、1561年には小寺政織の近習となり、1562年に初陣しています。
1567年には父から家督と家老職を継ぎ、播磨国志方城主・櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘・光姫を正室に迎え、姫路城代となりました。
翌年には嫡男・黒田長政(1568年~1623年)が誕生しています。
1570年代は、尾張国(現在の愛知県)を統一した織田信長(1534年~1582年)と安芸国(現在の広島県)の守護大名毛利輝元(1553年~1625年)が勢力を拡大し始めた時期です。
彼がいた播磨国は、地理的に織田家の勢力と毛利家の勢力の間に挟まれていました。
彼は主君・小寺政織に「守りの毛利よりも、攻めの織田に付く」よう進言し、1573年に小寺政織の使者として岐阜城を訪れ、信長に謁見しています。
この時、信長から褒美として「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を拝領したと伝えられています。
(3)織田家臣時代
1577年の織田信長の「中国征伐」では、彼が先鋒を務めました。居城としていた姫路城は中国征伐の重要拠点となったため、豊臣秀吉(1537年~1598年)に譲り、彼は姫路城から南に4.5kmの場所にある「国府山城(こうやまじょう)」(別名「妻鹿城(めがじょう)」)を修復して、父とともに居城としました。
彼は播磨国の武将達に対して、織田軍の味方に付くよう次々と説得しました。
しかし1578年、荒木村重(1535年~1586年)が信長に対し反旗を翻して有岡城に籠城(有岡城の戦い)し、小寺政織も呼応しようとしました。
そこで彼は荒木村重を説得するために10月、単身有岡城へ向かいましたが逆に捕らえられ、有岡城の土牢に幽閉されます。
これを信長は彼が村重方に寝返ったと勘違いして激怒し、彼の息子・長政を殺すように秀吉に命じました。
しかし1年後の1579年10月、有岡城は陥落し、彼は奇跡的に救出されました。頭髪は抜け落ち足腰は弱まって、変わり果てた姿となっていたそうです。
なお、主君・小寺政織は村重に続いて信長に謀反を起こしましたが、官兵衛が救出されたことを知ると逃亡し、その後病死しています。
秀吉は彼が寝返っていなかったことを知り、彼の息子・長政を処刑したことを泣いて詫びたと伝えられています。
しかし実は、秀吉が長政の処刑を命じた竹中半兵衛(1544年~1579年)が、長政を殺さずに匿っていました。
半兵衛が秀吉の命令に背いてまで長政を殺さなかったのは、「官兵衛が寝返ることはない」と確信していたからのようです。半兵衛は彼が救出されるのを見ることなく、6月に病死しました。
彼は半兵衛への感謝の気持ちを忘れないために、竹中家の家紋「石餅(こくもち)」を使うようになったと言われています。
(4)豊臣家臣時代
その後、彼は織田信長の家臣・豊臣秀吉の配下に入りました。
彼が稀代の智将を言われるまでには、さまざまな戦略を打ち出しました。
1578年~1580年にかけて行われた「三木合戦」では、三木城に籠城した別所長治に武力で対抗するのは難しいと判断し、食糧補給手段を断つ「兵糧攻め」を竹中半兵衛とともに秀吉に提案し、攻略しました。
また1581年の毛利軍との戦いでも兵糧攻め「鳥取の渇殺し(かつえごろし)」を行い、鳥取城を攻略しています。
1582年、備中高松城(現在の岡山県)攻略の際には、地形を見て「水攻め」が適切であることを秀吉に進言するなど、智将ぶりを遺憾なく発揮しました。
1582年に明智光秀による「本能寺の変」で信長が死去すると、信長の家臣たちは混乱しましたが、彼は秀吉に「天下が取れる好機」と囁いています。
そして彼は秀吉に「中国大返し」を促し、毛利氏との講和を進言しています。
1583年、秀吉による天下統一が胎動する中、大坂城の設計を担当しています。また同年、キリスト教の洗礼を受けて「ドン・シメオン」を名乗っています。
彼は後年、息子の長政に「神には祈ればよいし、殿には詫びを入れて謝れば、大概のことは何とかなる。しかし、家臣や民衆に疎まれると国を失うことになる。国を失えば、神に祈っても殿に謝っても、取り返しがつかない。それゆえ、家臣や民を大切にせよ」と諭しています。
1585年に秀吉が四国平定を進めた際にも智将ぶりを発揮しています。長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が讃岐植田城(香川県高松市)に敵を誘導し、阿波国に本陣を置いて夜戦で挟撃しようという策略を立てていました。
しかし彼は、元親の作戦を見抜き、阿波国への攻撃を最優先するよう秀吉に進言し、白地城(徳島県三好市)を攻略しました。
1586年に始まった秀吉の「九州平定」(島津義弘との戦い)では、作戦指揮を担当し、豊前国(現在の福岡県)の諸城を次々と攻略しました。1587年には島津氏が降伏し、九州平定は完了しました。
その後、秀吉は戦火で荒廃した博多の町の復興を官兵衛らに命令します。彼は「太閤町割」を行い、博多の区画ごとに「流(ながれ)」と呼ばれる集団を作りました。現在でも、この「流」単位で「博多祇園山笠」のような大規模な祭事が執り行われています。
1589年には、家督を長政に譲り、出家して「如水」の号を名乗っています。しかし出家後も、1590年の秀吉による「小田原征伐」の際には、交渉人として北条氏を説得し、無血開城させることに成功しています。
1592年に始まった「文禄の役」では、「築城総奉行」を命じられ、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城を設計しています。
1592年、「文禄の役」に、総大将・宇喜多秀家の軍監として参加しましたが、加藤清正・小西行長らの暴走で思うような指揮を執れず、病を理由に帰国しています。
1593年に再び朝鮮に渡りましたが、秀吉が画策した晋州城攻略計画に反対して、石田三成、増田長盛らと対立し、秀吉を直接説得するため帰国しました。
しかし秀吉からは、軍令に従わず戦線を離脱したと見なされ、秀吉への拝謁も許されないまま朝鮮に追い返されました。
1593年8月、剃髪して「如水軒円清」と号し、死罪を覚悟して長政らに遺書を残していましたが、秀吉によって赦免されています。
(5)関ヶ原の戦い
秀吉が死去すると、黒田家は徳川家康に従っています。
1600年に「関ヶ原の戦い」が始まると、息子・長政は黒田氏配下の軍勢を率いて「東軍」に参加しています。
彼は、もぬけの殻となった中津城に浪人9000人を集めて速成軍を作り、彼らをうまく統率して、九州内で「西軍」側に付いた大名を次々と撃破し、九州を制圧しました。「九州版関ヶ原の戦い」と呼ばれる「石垣原の戦い」では、大友軍を撃破しています。
「関ヶ原の戦い」が終わった時点で、彼は九州の大半を制圧していましたが、「天下を取るより、平穏な生活を送りたい」として、徳川家康に服従しています。
息子・長政は東軍に付いた功績により筑前国52万石の福岡藩主に抜擢され、彼は1601年に博多に移住し、「福崎」の地名を「福岡」に改称しています。
2.黒田官兵衛にまつわるエピソード
(1)天下を狙った野心家
1600年10月の吉川広家(きっかわひろいえ)(1561年~1625年)に宛てた書状で、「関ヶ原の戦いがあともう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで華々しい戦いをするつもりであったが、家康の勝利が早々と確定したために何もできなかった」と述べています。
ちなみに吉川広家は毛利家の家臣で、関ヶ原の戦いでは毛利家存続のために徳川方と内通したことで知られています。後に周防国岩国領初代領主となっています。
(2)「如水」の号の由来
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイス(1532年~1597年)は次のように記しています。
官兵衛は剃髪し、予の権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、それらすべては今や水泡が消え去るように去って行ったと言いながら、ジョスイ、すなわち水の如し、と自ら名乗った。 (フロイス日本史)
なお、「老子道徳経」の有名な一節「上善は水の如(ごと)し」(上善如水)から引用したという説もあります。手柄を立てながらも、過度に報償を要求しなかった姿勢に老荘思想の片鱗が伺えるためです。
(3)築城の名手
築城の名手として知られ、居住した妻鹿城・中津城や福岡城のほか、前野長康や浅野長政らとともに、姫路城・大坂城・讃岐高松城・石垣山城・名護屋城・広島城など、秀吉政権下の主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行っています。
同じく築城の名手として知られる加藤清正(1562年~1611年)も、「自分の城(熊本城)は3~4日で落ちるが、福岡城は30~40日は落ちない」と賞賛しています。
ただし、熊本城も1877年の「西南戦争」で西郷隆盛(1828年~1877年)率いる薩摩軍を苦しめた難攻不落の城です。
(4)倹約家
不要になった物は家臣に売り下げるなど蓄財に励んだそうです。関ヶ原の戦いの時に、九州攻略を行った「石垣原の戦い」(「九州版関ヶ原の戦い」とも呼ばれる)で、9000人の浪人を集めた速成軍を編成できたのも、そのためです。
(5)茶の湯
豊臣政権下では「茶の湯」が流行していました。彼は「武士がすることではない。主人と客人が狭い席に座り不用心すぎる」と、当初茶の湯を嫌っていました。
秀吉は密談の際に彼を招き、「こういう密談が茶の湯の利点である。何もない日にお前を呼んで密談をすれば怪しまれて面倒なことになりかねない。ここなら茶の湯という名目で怪しまれることはない」と説きました。
これには彼も感服し、「私は今日初めて茶の湯の素晴らしさを理解しました。名将(秀吉)が一つの考えに固執することなく、注意ができる点は非常に尊敬できることです」と言い、それからは茶の湯を好むようになったと伝えられています。
(6)秀吉に恐れられた才知
「名将言行録」によれば、本能寺の変で信長が死去した際、取り乱す秀吉に対して彼が「御運が開かれる機会が参りましたな」と述べたことから、秀吉は彼の智謀を恐れるようになったということです。
秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ?」と尋ねると、家臣たちは徳川家康や前田利家の名前を挙げたが、秀吉は彼の名を挙げ「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間に天下を取るであろう」と言ったということです。
側近が「官兵衛は10万石程度の大名に過ぎませぬが」と聞き返したところ、秀吉は「お前たちは奴の真の力量を分かっていない。奴に100万石を与えたならば、途端に天下を奪ってしまう」と語ったそうです。
これを伝え聞いた彼は、「我が家の禍なり」と直ちに剃髪し、如水と号したということです。