忠臣蔵の四十七士銘々伝(その25)中村勘助正辰は討ち入り前に家族を奥州白河に送り届けた

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中村勘助

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.中村勘助正辰とは

中村勘助正辰

中村正辰(なかむら まさとき)(1659年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は勘助(かんすけ)です。変名は、山彦嘉兵衛。

家紋:丸に違い鷹羽

2.中村勘助正辰の生涯

万治2年(1659年)、越後村上藩松平直矩家臣のち姫路・山形などを経て白河藩・三田村小大夫の子として誕生しました。母は同家臣・井上源右衛門の娘です。

延宝4年(1676年)、播磨赤穂藩浅野家家臣の中村庄助(山鹿素行門下で兵学の達人として知られた人物)の娘婿となりました。家督を継いだのは、天和2年(1682年)と伝わりますが、正確には不明です。

赤穂藩では祐筆兼馬廻役100石)として仕えました。元禄2年(1689年)には長男忠三郎を儲けました。

元禄7年(1694年)の備中松山城受取の軍にも従軍し、そのまま一年半にわたり松山に在番しました。元禄8年(1695年)には養父・庄助が死去。元禄12年(1699年)には次男中村勘次が生まれました。

元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際、正辰は赤穂に居ました。4月19日の赤穂城開城後も藩政残務処理のため大石良雄のもとで働き、江戸幕府からもこの間7人扶持を支給されました。

9月下旬には大石から堀部武庸ら江戸急進派を鎮撫の特命を受けて原元辰、潮田高教、大高忠雄らとともに江戸へ下向しますが、逆に丸め込まれて急進派になってしまいます。

その後、業を煮やした大石自身の江戸下向があり、11月23日に大石が江戸を発つ際に中村もお供して、12月には京都へ帰っていきました。

12月9日に潮田高教とともに神文血判書を提出しました。

元禄15年(1702年)5月の東下に際し、赤穂には家族を託す所がないため出身地の奥州白河藩の甥・三田村十郎太夫(奥州白河城主松平大和守家臣)に家族を預けました。この時、路銀の五両を借用しました。10月21日、江戸下向中の大石と鎌倉で合流しました。

吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属し、主として11人で屋外にあって屋敷から逃げ出してくる吉良家臣と戦いました。

武林隆重が吉良を斬殺し、一同が事件後に出頭して、正辰は伊予松山藩主・松平定直の屋敷に預けられました。松山藩では義士を罪人として扱い、厳しい対応をした記録が松平家に多数残っています。さらにまだ処分も決まってない時期から、全員の切腹における介錯人まで決めてしまいました。

2月4日に松平家家臣大島半平の介錯により切腹しました。享年45

戒名刃露白剣信士で、主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られました。

3.中村勘助正辰にまつわるエピソード

(1)遺族

白河に預けた家族のうち、長男・忠三郎は連座して伊豆国大島へ流罪にされました。その後、浅野内匠頭長矩の正室・瑤泉院(ようぜんいん)の赦免運動によって、宝永3年(1706年)に桂昌院の一周忌にあたり大赦令が出され、8月に幕府は徳川家綱の二十七回忌法事による特赦として赦免されました。しかし白河に帰った3年後に病死しました。

次男・勘次は出家して浅草曹源寺の僧侶になり生涯を終えました。

長女とは、その夫・大野瀬兵衛に討ち入りを反対され、事件前に絶縁しています。

次女も絶縁して姫路に住みました。

4.中村勘助正辰の辞世・遺言

梅が香(か)や 日足を伝ふ 大書院

遺言:三田村繁右衛門と三田村十郎太夫宛の手紙

「男子は逃る可からざる処、予て覚悟の前に候。倅忠三郎儀、何方迄も召連れ申す可き儀に候へども、若年殊に性魯(おろか)につき覚束なく存候に付、残し置き候。

上の御処置次第勿論たる可く候。時に至り、品見苦しくこれ無き様御支配頼み存候。次男勘次は幼稚と雖も男子の事に候へば、是また逃れ難しと存候。然らば妻子かねて出家いたさせ候旨望み申す事に候。其時の了簡次第と存候。

さて女子はさしたる御仕置有るまじく候や。弥々以て恥に及ばざる様、一類中扶助下さる可く候」