夏目漱石の妻鏡子は本当に悪妻だったか?「漱石の思ひ出」等を読むと違う見方も!

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漱石と鏡子

古代ギリシャの哲学者ソクラテス(B.C.469年頃~B.C.399年)の妻クサンティッペは「悪妻」だったという話は有名ですが、夏目漱石(1867年~1916年)の妻鏡子にも「悪妻伝説」があります。彼女は「猛妻」「悪妻」で漱石は「恐妻家」であったというものです。

しかし、夏目鏡子(1877年~1963年)は本当に悪妻だったのでしょうか?誰がそのような伝説を広めたのでしょうか?

夏目漱石の長女筆子の夫の松岡譲(1891年~1969年)が、鏡子が述べた漱石の思い出話を筆録した「漱石の思ひ出」という興味深い本があります。また松岡譲の四女末利子の夫で作家の半藤一利(1930年~ )の「漱石先生ぞな、もし」や、漱石の次男で随筆家の夏目伸六(1908年~1975年)の「父・夏目漱石」「父・漱石とその周辺」という本を読むと、漱石の違った一面を知ることができます。

今回は、「漱石の思ひ出」なども繙きながら、鏡子の悪妻伝説について考えてみたいと思います。

1.夏目鏡子とは

夏目鏡子は、貴族院書記官長の中根重一の長女です。お金持ちの彼女は、尋常小学校卒業後は学校へは行かず、家で家庭教師について勉学に励んだそうです。

漱石とは「見合い結婚」ですが、漱石は鏡子の裏表のない性格に好感を持ち、鏡子は漱石の穏やかな容姿に惹かれたそうです。

お嬢様育ちのせいか彼女は家事が不得手で、朝寝坊することや、漱石に朝食を出さないまま出勤させることもしばしばだったそうです。

漱石が「お前のやっていることは不経済極まりない」と叱ると、「眠いのを我慢していやいや家事をするよりも、多めに睡眠をとって良い心持で家事をする方が、何倍も経済的ではありませんか?」と言い返し、漱石を閉口させたそうです。

慣れない結婚生活から、ヒステリー症状を起こすこともしばしばあり、自殺未遂事件まで起こしたことがあります。これが漱石を悩ませ、神経症に追い込んだ一因とも言われています。

漱石が英国留学後に神経症を悪化させ、鏡子や子供たちに「家庭内暴力」を振るうようになり、周囲から離婚を勧められた時は、「(漱石は)私のことが嫌で暴力を振るって離婚するというのなら離婚しますけど、今のあの人は病気だから私たちに暴力を振るうのです。病気なら治る甲斐もあるのですから、別れるつもりはありません」と言って、頑として受け入れなかったそうです。

そんならどうかお帰りになって、皆さんにおっしゃってください。夏目が精神病ときまればなおさらのこと私はこの家をどきません。なるほど私一人が実家へ帰ったら、私一人はそれで安全かもしれません。しかし子供や主人はどうなるのです。病気ときまれば、そばにおって及ばずながら看護するのが妻の役目ではありませんか。(中略)私一人が安全になるばかりに、みんなはどんなに困るかしれません。それを思ったら私は一歩もここを動きません。私はどこどこまでも此家にいることにいたしましたから、どうかこの上は何もおっしゃらずにだまって見ていてください。一生病気がなおらなければ私は不幸な人間ですし、なおってくれればまた幸福になれるかもしれません。(後略)

漱石の死後、鏡子が子供たちの前で失言し、それを子供たちにからかわれると、「お前たちはそう言って私のことを馬鹿にするけれど、お父様(漱石)が生きておられた時は、優しく私の間違いを直してくれたものだよ」と亡夫を懐かしむことがしばしばだったそうです。

2.漱石の門下生たちの鏡子に対する不満

漱石が有名になると、毎日のように彼を慕う若手の文学者や、かつての教え子たちが訪れるようになりますが、漱石は彼らを快くかつ暖かく迎えます。しかしその後小説家専業になると、仕事にも差し支えるほどになったので、毎週木曜に集う「木曜会」が開かれるようになります。やがて彼らは増長し、漱石夫妻に甘えることになったようです。

漱石夫妻は彼らの父親・母親代わりとして、物心両面から面倒を見ることがしばしばあったそうです。

漱石は経済的に苦しい立場にあるかつての教え子や門下生たちに、金銭的援助をすることも少なくなかったそうです。鏡子は漱石に言われた通りに、ポンと当時としてはかなりの額の金銭を貸与していました。

鏡子から金を借りることの多かった連中が、若者特有の反発心や大金を借りることへのバツの悪さから、鏡子悪妻説が生まれたとも言われています。ちなみに半藤一利の本によれば、門下生たちに貸した金の相当部分が「貸し倒れ」(借金の踏み倒し)となったそうです。

私は、門下生たちの「漱石に対する尊敬・崇拝の念」の裏返しとして、「漱石先生はこんなに立派ないい人なのに、それに気が付かない(あるいは気の利かない)奥さんを持って、先生は本当に気の毒だ」という感情を持つようになり、「悪妻説」が生まれたのではないかと思います。門下生たちには漱石の良い一面だけしか見えず、彼らは、漱石の「発作」が起こった時の妻や家族に対する「家庭内暴力」のことは知らなかったのかもしれません。

3.鏡子の漱石の門下生たちに対する不満

しかし、「漱石の思ひ出」を読むと、鏡子は漱石の病気のことをよく理解しており、深い愛情を持っていたことは上述の「離婚を勧める人への対応」を見てもわかります。また漱石に対して「坊っちゃん」における下女「清(キヨ)」のように深い慈愛の念を持っていたこともわかります。おおらかな性格から門下生たちに誤解されたのではないかと思います。

逆に、借金を踏み倒しても何とも思わない厚かましい門下生たちに憤慨・辟易していたようです。

「漱石の思ひ出」は、妻の目を通して見た家庭内の夫・漱石の赤裸々な姿を語っているので、漱石崇拝者から反感を買った書でもあります。

(1)内田百閒(1889年~1971年)

彼は「借金王」で、漱石からもたびたび借金をして踏み倒していたようです。著作にも「借金」を主題にしたものが多く、後年は借金を「錬金術」と称して、長年の借金で培われた独自の流儀と哲学をもって借金することを常としていたそうです。

(2)小宮豊隆(1884年~1966年)

彼は「三四郎」のモデルとして有名です。大正6年に始まった「漱石全集」の編纂に長く携わり、「夏目漱石」という伝記も書いています。

彼は漱石を崇拝するあまり神格視することが多く、「漱石神社の神主」と揶揄されることもありました。「夏目漱石」を読むと鏡子夫人を貶している記述もあるので、彼が「悪妻説」の張本人かもしれません。

なお、「東北大学附属図書館」には、夏目漱石の旧蔵書などを保管する「漱石文庫」があります。これは彼(東北大学教授も歴任)が、漱石の旧蔵書のほとんど(洋書1650冊、和漢書1200冊)をはじめ、日記・ノート・試験問題・原稿などの自筆資料等を収集したものです。

このことについては、鏡子は「小宮が勝手に持って行った」と快く思っていなかったようです。

(3)岩波茂雄(1881年~1946年)

彼は岩波書店の創業者で、岩波文庫・岩波新書などを出版して広く国民に安価な本を提供し日本の文化の発展に貢献した功労者です。

彼は旧制一高で漱石の教え子でした。同級生に「巌頭之感」を残して華厳の滝に身を投げた藤村操がいます。

当時古本屋を開いていた彼は漱石に「先生の本を出版させてください。ついでに出版費用も貸してください」と申し出ます。それまで漱石の作品は、それまで春陽堂か大倉書店から出版されていました。頼まれた漱石は困惑したでしょうが、結局承諾します。そういうわけで、最初の岩波書店からの出版は「ほとんど自費出版」のような形となりました。

「漱石の思ひ出」には次のように書かれています。

お貸しするのは差し支えないのですが、ともかく三千円といえば私どもにとっては大金です。なるほど夏目にも岩波さんにも当事者どうし双方まちがいがなければ何のことはないのでしょうが、人間のことですからいつ何時どういうことがないとも限らない。その時になって、万一おもしろくないことなどがあっては困るから、ともかくどちらかがかけても第三者にもわかるような契約をしていただきたいと、私が株券を持って出て、岩波さんを前にしてちょっと開きなおった形で申したものです。

漱石の次男夏目伸六の「父・漱石とその周辺」には岩波茂雄について、次のように書かれています。

ほんの子供の頃、母が、『岩波さんて頑固な人でね。お客が来て、店の本を一寸でも値切ったりすると、すぐ怒ってしまって、買ってくれないでもいいから帰ってくれっていうんだってさ。それがさ、自分ところの本は、もともと値切られるような値段はつけてないっていう意味なんだろう』と、語ったことがある。

彼は漱石の没後に漱石の一連の作品や「漱石全集」を出版して多大な利益を上げますが、鏡子は彼への金銭的援助をしていたこともあり、あまり快く思っていなかったようです。

漱石の次男の夏目伸六は、1946年末に漱石の著作権が切れることへの対処として「桜菊書院」から「漱石全集」を刊行しますが、それまで漱石の作品を刊行していた岩波書店が反発し、1947年1月から岩波版「漱石全集」を刊行します。さらにそれに反発した夏目家側では、漱石の長男のヴァイオリニスト夏目純一(1907年~1999年)が「漱石全集」などの商標登録を申請しました。しかしこれは1949年に却下されました。これがいわゆる「漱石全集事件」です。

(4)久米正雄(1891年~1952年)

彼は漱石の長女筆子に求婚し筆子は内諾しますが、その後彼女は松岡譲を好きになり結婚します。筆子への愛を巡って、久米は松岡と不倶戴天の敵となりますが、30年後に和解しました。

久米は筆子との一件をもとにして、「破船」「夢現」「敗者」など多くの作品を書いています。

(5)森田草平(1881年~1949年)

彼は、後に女性解放運動家として有名になる平塚明子(平塚らいてう)(1886年~1971年)との心中未遂事件を起こしています。事件後、漱石は彼を2週間自宅に引き取り、マスコミから隠しました。また事件の後始末として、漱石は馬場胡蝶とともに平塚家に対し、草平と明子の結婚を申し出ますが、結婚など全く考えていなかった明子に呆れられたそうです。

彼は心中未遂事件をもとにして、「煤煙」という小説を書いています。この小説は漱石の推薦で朝日新聞に連載され、評判を呼びます。

この縁で彼は朝日新聞の嘱託社員となって文芸欄を担当し、同じく朝日新聞に校正係として勤めていた石川啄木(1886年~1912年)と親交を結びます。その縁で漱石は啄木を知るようになります。その後啄木は、漱石や鏡子夫人にたびたび借金を申し込むようになったそうです。


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