江戸時代のトイレ事情。公衆トイレはあったのか?西洋や現代日本の事情も考える

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公衆トイレ

私は、現役サラリーマンのころ、ストレスから慢性胃炎になり、極度のストレスがある時は、神経性腸炎なのでしょうか、通勤電車の中でも便意を催して苦しくなることもありました。

2018年6月18日の「大阪北部地震」の時は、通勤途中でJRの電車の中に2時間15分も閉じ込められ、大変苦しい思いをしました。

あらかじめ2時間15分とわかっていれば、それなりの安心感が生まれ、我慢する覚悟も出来たのでしょうが、いつ外に出してもらえるのか全く見当がつかない状況は本当に耐えがたいものでした。

尾籠な話題で大変恐縮ですが、今回は江戸時代のトイレ事情について考えてみたいと思います。

1.江戸時代の公衆トイレ事情

江戸時代、トイレのことを関西では「雪隠(せっちん)」、関東では「後架(こうか)」と呼んでいました。

江戸時代には、果たして「公衆トイレ」のようなものがあったのでしょうか?

(1)長屋のトイレ

古典落語によく出て来る江戸時代の職人や町人が多く暮らしていた「賃貸集合住宅」である「長屋」には、各家にトイレはなく、惣後架(そうこうか)と呼ばれる「男女共用の共同便所」があるだけでした。10世帯に二つの惣後架というのが普通だったようです。

便所のドアは上半分が開いており、使用中かどうかがすぐわかるようになっていました。現代の我々から見ると、プライバシーがないこと甚だしいと思うのですが、江戸時代の長屋の住人には、「これが当たり前」だったのでしょう。

(2)辻々のトイレ

さて、気になる「公衆トイレ」ですが、京には江戸時代の初期から、「辻便所(つじべんじょ)」という公衆トイレが四辻(よつつじ)の木戸ごとに設置されていました。目的は肥料用に排泄物を集めるためです。

江戸では、江戸時代の後期になってから「辻便所」が設置されるようになったそうで、それまでは、道路のあちこちで用を足していたそうです。

現代のようにアスファルト舗装でない土の道ですし、牛馬の糞も普通に転がっていたでしょうから、あまり気にしなかったのかもしれません。

そして、糞拾いの少年がすぐに取って農家に売っていたのでしょう。「糞拾いの少年」と言えば「蒼穹の昴」という浅田次郎氏の小説を思い出します。これは、中国清朝末期西太后の時代に貧しい糞拾いの少年(後に西太后の宦官となる)の兄貴分だった少年が「科挙」に合格して出世して行く物語です。

江戸市中の10カ所に設けられた公衆トイレはかなり豪華なもので、間口が4.5mで奥行きが7.2mもあったそうです。しかも広々とした休憩所があり、利用者は腰掛にかけてお茶の無料接待も受けられたそうです。この公衆トイレの年間運営費は500両(約4000万円)と莫大な経費がかかりましたが、その費用は全て排泄物を売ることで賄えていたそうです。

江戸時代はそういう意味で「循環型社会」「エコロジー社会を先取りしていたと言えます。

それともう一つ、特筆すべきなのは、西洋に公衆トイレが登場する19世紀より200年以上前のことです。

(3)観光地の京の公衆トイレ

江戸時代後期の心学者の柴田鳩翁が書いた「鳩翁道話」に落語のような面白い話が載っているのでご紹介します。少し「くさい話」で本当かどうか分かりませんが・・・

京は花の都。花の頃になると嵐山・御室などは大勢に花見客でごったがえす。「出物腫れ物所嫌わず」の例え通り、途中で便所に行きたい者がいるのは当然。当然とはいうものの、これは困ったことである。

そこで八兵衛という小百姓が「貸し雪隠」ということを始めた。一回三文でお客は後を絶たない。これを見た隣の男が、無理な工面をして上等な有料便所を作った。しかし一回八文だというのでお客は入らず、女房はヒステリーを起こしてわめき出す始末。しかし亭主は泰然自若と構えている。

さて翌日、亭主が弁当持ちで出かけた後、入れ替わり立ち替わりお客が来るので、女房はびっくり、夕方のらりと戻って来た亭主に訳を聞くと、亭主曰く「何、大したことではない。今朝家を出てからすぐ、三文出して八兵衛の雪隠に入り、内から鍵をかけておき、人が戸を開けかかると、えへんと咳払いをしただけだ。ああ今日は仰山な咳払いをして声がかれてしまったわい。

2.近代以前の西洋の公衆トイレ事情

戦国時代の1565年に来日して京に入ったポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、京の町のトイレを見て驚いたそうです。

欧州人のトイレが家の後ろの方のなるべく人目につかない場所に設けられているのに、日本人のトイレは家の前にあって、すべての人に開放されている。

ただし、公衆トイレの起源は古代ローマ帝国と言われています。紀元前315年には144カ所、紀元前33年には1000カ所以上に無料の公衆トイレが設置されていたとする資料もあるそうです。古代ローマでは下水道も整備されていたため、市街中心部には水洗式の公衆トイレがありましたが、郊外は未整備だったようです。

しかし「西ローマ帝国」が衰亡(480年)すると、古代ローマのトイレ文化もほぼ失われ、トイレのレベルは古代文明を通り越して、ほぼ先史文明のレベルまで衰退したとも言われています。

「中世ヨーロッパの匂いは糞便の臭い」という人もいますが、これはあながち誇張ではなさそうです。ヨーロッパでハーブや香料が発達した背景には、欧州人の「体臭」を消す目的もありますが、「糞便の臭い」を消す目的もあったようです。

一方、排泄を恥ずかしいこととみなすキリスト教の考え方から、「個室トイレ」が発達するようになります。中世の修道院や城館では、「トイレはベッドと同数だけあるのが望ましい」とされました。

このように古代ローマの優れた公衆トイレ文化は元の木阿弥となり、長らく公衆トイレと呼ぶべきものが登場しなかったようです。

3.現代の日本の公衆トイレ事情

最近は公園や街頭など建物と離れた場所にある「公衆便所」という形態は、あまり見かけなくなりましたが、喫茶店やレストランに入って飲食をしない場合でも、用を足せる場所がたくさんあります。

(1)駅構内

大阪市営地下鉄の便所は、以前は大変汚いものでしたが、橋下徹氏が市長になってから、デパートのトイレかと思うようにきれいになりました。

以前、国鉄(現在のJR)のトイレも大変汚かったものです。私の最も印象が悪かったのは昭和30~40年代の芦屋駅の便所でした。芦屋のことだから「きっと綺麗だろう」という先入観があったから余計失望したのかもしれませんが、「駅員は何とも感じないのだろうか?」「お客さんもクレームを言わないのだろうか?」と訝しむほどの汚さでした。芦屋に住むお金持ちは「自家用車」を使い、国鉄などは使わないため、苦情が出なかったのかもしれません。

国鉄も民営化されて、徐々にトイレもきれいになって来たようです。

(2)コンビニ

最近一番便利で重宝するのが、コンビニのトイレです。コンビニは街の至る所にあるので、捜すのに苦労しません。またトイレ自体も全体的にきれいに掃除されています。「いつもきれいにお使いいただきありがとうございます」という張り紙のあるトイレもあります。これは「仕掛学」の手法だと思いますが、使用する人に「自主的にきれいに使う」ようにうまく誘導しているのです。

(3)大型スーパー

大型スーパーは、ファーストフード店、家電量販店、ホームセンター、スポーツ用品店などとの複合店舗になっていることが多く、特に買う予定がなくても暇つぶしに冷やかすのも面白いものです。

(4)デパート

東京・大阪・名古屋のような大都市や、高槻市のような中核都市にはデパートがあります。ウィンドウショッピングをしたついでに立ち寄ることができます。

(5)ホテル

ビジネスホテルは小規模なので、すぐ目の前にフロントがあるため、トイレだけを借りたいと言うのは勇気がいりますし、断られるかもしれません。しかし大都市のシティーホテルにはそのような心配は無用で、堂々と使えます。もし何か言われたら、「いつもこちらのレストランをよく使っています。今日はたまたまトイレだけお借りします」と言えばいいだけの話です。

(6)道の駅

(7)ガソリンスタンド

(8)車の販売店

私は2018年6月の「大阪北部地震」に通勤電車の中で遭遇し、JR吹田駅から徒歩で4時間以上かけて高槻市の自宅に帰りましたが、その途中で日産自動車の販売店が、「トイレを自由にお使いください」という張り紙を出していました。

(9)高速道路のSA、PA

上の(6)から(9)は、私が車に乗るようになってから利用することになったものです。

上記全てに共通することですが、最近は清潔な「ウォシュレット付きの洋式トイレ」が一般的になり、とても快適です。「和式トイレ」や「ウォシュレットなしの洋式トイレ」は役所などごく限られた場所の公衆トイレだけになりました。

4.スカトロジー(Scatology)

余談ですが、「スカトロジー」(糞便学)は、生物学、心理学、社会学、文化人類学、民俗学、考古学など様々な分野にまたがる特殊でニッチな学問です。

公衆トイレについての研究などは文化人類学・民俗学・考古学にまたがる学問分野でしょう。

東大の「高大接続研究開発センター・入試企画部門担当」の濱中淳子教授によると、「東大の推薦入試」に合格した人の中には、「理想的で名実ともに卓抜した業績・成果を挙げた学生」ばかりでなく、「トイレ研究に没頭した」個性豊かな学生も入学しているそうです。

これはひょっとして「水洗入試」と言うべきものでしょうか?

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