不沈戦艦と呼ばれた史上最大の戦艦大和の「大艦巨砲主義」が失敗した原因は何か?

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戦艦大和

私が子供の頃、「戦艦大和」のプラモデルは、「零(ゼロ)戦」(零(れい)式艦上戦闘機)と並んで人気の的でした。私も当然プラモデルを作りましたが、「戦艦武蔵」に比べても「戦艦大和」は立派で格好よく見えました。

戦艦大和

若い世代の人は「アルキメデスの大戦」というアニメ(7月26日からは、これを実写化した東宝映画が公開されます)や、「この世界の片隅に」という映画に出て来る「戦艦大和」を思い出されるか、あるいは「宇宙戦艦ヤマト」の方が馴染み深いかもしれませんが・・・

1.世界最大の「戦艦大和」はなぜ建造されたのか

1941年に呉海軍工廠で建造された戦艦大和は、史上最大の戦艦で、唯一46センチ砲を搭載していました。「不沈戦艦」と呼ばれた戦艦大和の誕生です。

(1)軍縮条約による「戦艦建造制限」

1922年の「ワシントン海軍軍縮条約」および1930年の「ロンドン海軍軍縮条約」によって、日本海軍の装備はアメリカ・イギリスの6~7割までとすることが決定され、主力艦の建造が中止されました。

ロンドン海軍軍縮条約締結により、「条約妥結やむなし」とする米内光政や井上成美などの「条約派」(海軍省側)とこれに反対する「艦隊派」(軍令部側)の対立構造が生まれ、のちに「統帥権干犯問題」に発展しました。

なお、山本五十六は、米内光政や井上成美と盟友関係にあったことから、「条約派」とされることが多いですが、ロンドン軍縮会議に海軍の次席随員として参加した時には「対米7割」を強硬に主張して若槻礼次郎全権を困らせ、「艦隊派」に近いと見られていました。

この海軍軍縮条約の期限は、1936年末まででしたが、その後各国の軍艦建造競争が始まった場合、国力の劣る日本は不利にならざるを得ません。アメリカの戦艦は太平洋に出るためにはパナマ運河を通る必要があるため、主砲は41センチ未満となります。そこでアメリカの戦艦を上回る46センチの主砲を備えた軍艦を建造することになったわけです。

(2)時代錯誤の「大艦巨砲主義」

戦艦大和・前向き

ここに、巨大戦艦の建造を推進しようとする「大艦巨砲主義派」と航空母艦の建造を推進しようとする「航空主兵主義派」の対立が生まれます。

山本五十六は、「航空主兵主義派」で、航空母艦の建造を主張しましたが、結局「大艦巨砲主義派」に押し切られることになります。

しかし、時代は航空母艦と戦闘機による「空軍の時代」へと変わっていました。皮肉にもそれを証明したのが、山本五十六連合艦隊司令長官率いる日本軍によるハワイ真珠湾攻撃などの太平洋戦争の緒戦です。

1941年12月8日、空母6隻を柱とする機動部隊が、ハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を奇襲し、二度にわたる攻撃で停泊中の戦艦8隻のうち4隻を撃沈、3隻を大破させました。

そのわずか2日後には、日本海軍航空部隊が、マレー沖でイギリス東洋艦隊の主力戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈しています。

(3)航空母艦と戦闘機による「空軍の時代」への認識不足

この太平洋戦争開始時点ですでに、「戦艦による艦隊決戦」自体が行われない時代に突入していたのです。「航空母艦と戦闘機による空軍の時代」の到来です。

「日本刀」対「鉄砲隊」の勝負のようなもので、「日本刀」に勝ち目はありません。

古い石頭の軍令部首脳の判断ミスと言わざるを得ません。

(4)秋山真之の先見の明

司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」で有名になった秋山兄弟(秋山好古・秋山真之)の弟で、海軍軍人の秋山真之(1868年~1918年)は、日露戦争前に海軍で戦術を講義した際、教壇に立つや次のように言ったそうです。

ナポレオンは一戦術の有効期限を10年とした。海軍戦術の有効期限は2年を超えない。飛行機と潜水艦が発達。これから海軍は無用の古物になり、空軍万能の時代が来る。巡洋艦が空中を飛行し、戦闘艦が水中を潜航する戦場は平面的でなく立体的だ。いまから教える平面戦術は役に立たなくなる。

この教えを昭和の軍人が拳拳服膺(けんけんふくよう)していれば、歴史の展開は違っていたかもしれません。

2.戦艦大和の悲劇的な最期

戦艦大和の最後

戦艦大和は、1942年6月の「ミッドウェー海戦」、1944年6月の「マリアナ沖海戦」、1944年10月の「レイテ沖海戦」で戦いますが、いずれも「対空戦闘」に終始したため、46センチの主砲が威力を発揮することはありませんでした。

連合艦隊の旗艦である大和は、1945年4月7日、九州坊ノ岬沖での海戦で、多数の米軍戦闘機・爆撃機・雷撃機により、自慢の46センチ砲を使用しないままハチの巣状態になる猛攻撃を受けて撃沈されてしまいました。生き残った乗組員はわずか276名で、艦長以下3056名が戦死しています。

3.企業の経営や勉強の仕方についての反面教師

「不易流行」とは、いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れて行くことです。また、新味を求めて変化を重ねて行く流行性こそが、不易の本質であるということです。

海軍軍令部や当時の政府首脳も、冷静な目で時代の変化を捉えていれば、時代錯誤の「大艦巨砲主義」に陥ることもなかったのではないかと思います。

このことは、企業の経営や勉強の仕方についての「反面教師」になるのではないかと私は思います。


戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫) [ 吉田満 ]


戦艦大和最後の乗組員の遺言 (Wac bunko) [ 八杉康夫 ]


吉田満 戦艦大和学徒兵の五十六年 [ 渡辺 浩平 ]