大奥を揺るがせた女たちの五大事件(その4)専行院(お美代)VS.水野忠邦

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水野忠邦

1.専行院(お美代)とは

「オットセイ将軍」との異名を持つ11代将軍家斉(1773年~1841年、在職:1787年~1837年)は、歴代将軍の中でも群を抜く漁色家で、正室広大院(1773年~1844年)のほかに少なくとも16人の側室がいました。

中でも側室お美代の方(専行院)(1797年~1872年)は家斉が最も寵愛した側室です。

実父は元正栄山仏性寺の役僧で、後に中山法華経寺の智泉院の住職となる「破戒僧」日啓です。養父は御小納戸頭取の中野清武です。

二人の父は、彼女の美貌と才知を見込んで1806年に、「旗本・中野清武の養女」として彼女を大奥へ送り込みました。彼女は持ち前の美貌と才気でたちまち家斉を虜にし、やがて家斉の側室となります。

彼女は、家斉の第36子で加賀藩に嫁いだ溶姫や広島藩主の正室となる末姫を産み、大奥での勢力を拡大して行きました。

養父の中野清武は2000石に加増され、実父の日啓も並々ならぬ法力を持つと評判をとりました。もちろんこれは、彼女の家斉へのおねだりやプロパガンダが功を奏したわけです。

2.専行院(お美代)VS.水野忠邦のバトル

お美代の方の実父は破戒僧の日啓(生没年不詳)です。

お美代の方が家斉の寵愛を受けたおかげで、日啓が住職を務める智泉院は「将軍家御祈禱所取扱」に昇格し、世人を驚かせました。

日啓は30数年間にわたって大奥の信仰を集め、複数の女中と密通していたようです。彼はそれだけで満足せず、お美代の方を通じて家斉に働きかけ、廃寺だった感応寺を七堂伽藍の壮麗な寺院として復興させて住職に収まりました。

感応寺は将軍家を筆頭に御三家・御三卿の家族が参詣するほどの賑わいを見せ、諸大名の絶大な信仰と喜捨を受けました。

大奥女中も足繫く通いましたが、こちらのお目当ては、もっぱら寺の美僧だったようです。大奥女中との女犯は、日啓のみならず孫の日尚も同様に行っていたというからあきれた「破戒僧」たちです。

感応寺における女中たちの淫行は、時の老中水野忠邦の耳にも届きました。

1841年に大御所・家斉が逝去すると、それを待ちかねたように老中水野忠邦は直ちに「感応寺をはじめ日啓が関与した全ての寺の取り潰し」を命じると同時に「住職の日啓を女犯の罪で遠島」に処しました。

しかしお美代の方は挫けませんでした。家斉の寵臣の林忠英・水野忠篤らと謀り、「家斉の遺言と称するお墨付き」を偽造し、お美代の方の娘・溶姫(やすひめ/ようひめ)が産んだ犬千代を将軍に就けようと画策しました。

ちなみに溶姫(1813年~1868年)は家斉の二十一女で、12代加賀藩主前田斉泰の正室です。犬千代は長男で、後の前田慶寧(13代加賀藩主)です。

しかし、この画策は失敗に終わりました。このお墨付きの公表を家斉の正室・広大院に頼んだのが間違いのもとでした。

広大院は、この「お墨付き」を陰謀の証拠として12代将軍家慶に伝えたため、林らは罷免され、お美代の方は前田家に押し込められた後、下谷池の端の借家で侘しい晩年を送りました。

僧侶の腐敗・堕落は、何も江戸時代に始まったことではありません。私は仏教伝来以降の僧侶の歴史は、腐敗・堕落と「横暴の歴史」だと思っています。

今も「京都の花街は僧侶で持っている」という話を聞いたこともあります。そういうこともあって、私は仏教や僧侶を全く信用できないのです。

3.水野忠邦とは

水野忠邦(みずのただくに)(1794年~1851年)は、江戸時代後期の幕府老中で、「天保の改革(1841年~1843年)」(*)の主導者として有名です。肥前国唐津藩主水野忠光の次子で、母は側室恂 (じゅん) 。幼名は於菟五郎(おとごろう)。松軒または菊園と号しました。

文化9 (1812) 年8月 19歳で襲封し、奏者番・寺社奉行を兼ねて幕政に参与しました。唐津を領する者は老中になれないという慣例で、文化14(1817)年転封を願い出て遠江国浜松藩主となりました。大坂城代、京都所司代を経て天保5 (1834) 年老中に任じられました。

天保12(1841)年 大御所・家斉の死後、「天保の改革」を宣言し、引続き十二代将軍家慶を助けて鋭意改革を推進しましたが、わずか2年で失敗。弘化2 (1845) 年老中を辞しました。

(*)「天保の改革」とは次のような政策でした。

(1)人事刷新

家斉の大御所時代に幕府の風紀は乱れ、賄賂が横行したため、頽廃した家斉時代の幕府高官たちを一掃しました。

(2)綱紀粛正

倹約令を施行し、風俗取締りを行い、芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えました。歌舞伎役者の7代目市川團十郎、人情本作家・為永春水や柳亭種彦などが処罰されました。

(3)軍制改革

アヘン戦争で、清がイギリスに敗れたことにより、従来までの外国船に対する打払令を改めて薪水給与令を発令し、燃料・食料の支援を行う柔軟路線に転換しました。一方で江川英龍、高島秋帆に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせました。

(4)経済政策

①人返し令

幕府への収入の基本は農村からの年貢でしたが、当時は貨幣経済の発達により、農村から都市部へ人口が移動し、年貢が減少していました。そのため、江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させ、安定した収入源を確保しようとしました。

②株仲間解散令

高騰していた物価を安定させるため、株仲間を解散させて、経済の自由化を促進しようとしました。しかし株仲間が中心となって構成されていた流通システムが混乱してしまい、かえって景気の低下を招きました。なお、この際に株仲間の解散を諌めた矢部定謙が無実の罪を着せられ、非業の死を遂げています。

③上知令(上地令)

上知令を出して江戸や大阪の周囲の大名・旗本の領地を幕府の直轄地とし、地方に分散していた直轄地を集中させようとしました。これによって幕府の行政機構を強化するとともに、江戸・大阪周囲の治安の維持を図ろうとしました。

しかし大名や旗本が大反対したため、上知令は実施されることなく終わりました。これが三代将軍・徳川家光の武断政治の世なら通用していただろうと揶揄され、将軍・家慶からも撤回を言い渡されるほど不評であり、さらに鳥居耀蔵が反対派に寝返ると、1843年(天保14年)に水野が退陣するきっかけになりました。改革の切り札となるはずだった上知令は、かえって改革自体を否定することになりました。

④金利政策

相対済令の公布とともに、一般貸借金利を年1割5分から1割2分に引き下げました。そして札差に対して、旗本・御家人の未払いの債権を全て無利子とし、元金の返済を20年賦とする「無利子年賦返済令」を発布し、武士のみならず民衆の救済にもあたりました。しかし貸し渋りが発生し、逆に借り手を苦しめることになりました。

⑤改鋳

また、貨幣発行益を得るために貨幣の改鋳を行いました。貨幣発行益を目的とする改鋳は江戸時代の多くの時期で行われ、それによってマイルドなインフレーションが発生して景気も良好となっていましたが、天保の改革においては以前とは異なり猛烈な勢いで改鋳を行ったため高インフレを招きました。



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