大江広元とは?京下り文官で頼朝の側近。後に北条義時の右腕となって幕政に関与

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大江広元

今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、「劇団四季」出身の俳優で、「真田丸」に続いて大河ドラマ2作目の栗原英雄さんが大江広元を演じることになっており、キーパーソンの一人である予感がしますが、どのような人物だったのでしょうか?

大江広元・鎌倉殿の13人

1.大江広元について

(1)大江広元とは

大江 広元(おおえ の ひろもと)(1148年~1225年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族です。

はじめは朝廷に仕える下級貴族(官人)で、「外記(げき)」(天皇への奏文作成や、儀式をとり仕切る役目)を担当していましたが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、1184年に鎌倉幕府の「公文所(くもんじょ)別当」となり、その後「初代政所(まんどころ)別当」を務め、幕府創設に貢献しました。以降、晩年まで約30年に渡り、幕政を主導しました。

頼朝の政治にも影響を与え、朝廷との交渉役もこなしました。頼朝死後は北条政子や北条義時とも協力した「鎌倉殿の13人」の一人で、鎌倉幕府にはなくてはならない存在でした。

もとの名前は中原広元で、同じく「鎌倉殿の13人」の一人である中原親能(なかはらのちかよし)(1143~1209年)の弟です。

三善康信(みよしのやすのぶ)(1140~1221年)や二階堂行政(にかいどうゆきまさ)(生没年不詳)と同じく「京下り文官」で、北条義時の右腕として「鎌倉殿の13人」となりました。

(2)生い立ち

広元の出自は諸説あり、その詳細は不明です。『江氏家譜』では藤原光能の息子で、母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたということです。しかし『尊卑分脈』所収の「大江氏系図」には大江維光を実父、中原広季を養父とし、『続群書類従』所収の「中原系図」では逆に中原広季を実父、大江維光を養父としています。

当初は中原姓を称し、中原 広元(なかはら の ひろもと)といいました。大江姓に改めたのは晩年の建保4年(1216年)に「陸奥守」に任官した以後のことです。

(2)兄・中原親能の縁で頼朝の側近となる

広元の兄・中原親能は源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っていました。寿永2年(1183年)10月に親能は源義経の軍勢と共に上洛し、翌元暦元年(1184年)正月にも再度入京して頼朝の代官として万事を奉行、貴族との交渉で活躍しました。

その兄・中原親能の縁で広元も頼朝の拠った鎌倉へ下り、「公文所」の別当となります。

(3)初代「政所別当(行政長官)」に昇進して幕政に広く関与

さらに頼朝が二品右大将となり、「公文所」を改めて「政所」としてからは、その政所別当(行政長官)として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与しました。

広元は御家人から出た意見を頼朝に届ける、取り次ぎ役となっていたことも知られています。

有名なのは、1185年、頼朝と弟の義経に不和が生じ、義経が鎌倉入りを拒否された時、義経はどうにか兄に話を取り付けてくれないかと、広元宛てに書状を送っているのです。

義経が腰越に滞在しているときに書かれたため、「腰越状(こしごえじょう)」と呼ばれているものです。

つまり広元は幕府でも数少ない、将軍に直接意見することを許された御家人だったということです。将軍に次ぐナンバー2といっても過言ではありませんでした。

(4)「守護・地頭」設置を頼朝に献策

吾妻鏡』文治元年11月12日の条によると、頼朝が守護・地頭を設置したのも広元の献策によるものであるということです。

正治元年(1199年)の頼朝死後は、後家の北条政子や執権・北条義時と協調して幕政に参与しました。「承久の乱」の際は嫡男・親広が官軍についたため親子対立します。『吾妻鏡』は、広元はあくまで鎌倉方に立って主戦論を唱えた北条政子に協調、朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して幕府軍を勝利に導いた功労者の一人と記しています。

「和田合戦」に際しては、軍勢の召集や所領の訴訟において、広元が執権の義時とともに「連署」をした文書が存在します。

また頼朝が強いつながりを持っていなかった太政大臣・関白を務めた九条兼実や権大納言・土御門通親(源通親)などの公卿とも独自の連絡網を持っていたことなども明らかになっています。

下級公家の出身でここまでのコネクションをもっていたのは、広元が朝廷でも有識者で通っていたからなのでしょう。

こうしたことから、広元の存在は単に鎌倉における京吏の筆頭であるばかりではなく政策の決定や施行にも影響力を行使し得る重要な地位を占めるものだったことが指摘されています。

(5)官位の上では北条義時をしのぐナンバー2

なお、頼朝の在世中、鎌倉家臣団は棟梁の最高「正二位」という高い官位に対し、実弟の範頼、舅の北条時政を含め最高でも「従五位下」止まりという極度に隔絶した身分関係にありました。

しかし頼朝の側近となる以前に既に「従五位下」であった広元だけは、早くから「正五位」を一人許されており、名実ともに一歩抜きん出たナンバー2の地位が示されていました。

頼朝死後も、最高実権者である北条義時を上回る「正四位」を得ており、少なくとも名目的には将軍に次ぐ存在として遇されていたといえます。

2.文官の必要性・重要性を認識し、京下り文官を重用した源頼朝と大江広元の功績

源平合戦のような軍事には、頼朝は自身に代わって軍を率いる代官を派遣しました。それが弟の範頼・義経でした。

弟たちに代官を任せたのは、ほかの御家人に任せると、兵が従わないことを懸念してのものです。

特に義経は戦術の天才として知られますが、大将として選出された理由は、単に頼朝の弟だからです。

二人の弟は1184~85年にかけて義仲や平氏勢を下し、長く続いた勢力争いを終結させることになります。

その間に、頼朝は大江広元や三善康信など、朝廷に勤めていた優秀な事務官を迎え入れ、幕府の基盤となる組織を構築していきました。

明治維新の場合は、欧米のやり方を取り入れる必要があったため、若い有為の人材を欧米に派遣したり留学させたりして学ばせました。

鎌倉幕府の場合は、長年の伝統がある朝廷の事務管理・内部管理を学んで取り入れる必要がありました。

その知識は坂東武者にはないため、朝廷から人材をスカウトする必要があったのです。

当時の社会を例えると、老舗の「朝廷総本家」と急成長した「平家本舗」がありましたが、坂東に「鎌倉本舗」ができたという状況です。「平家本舗」は最盛期を過ぎて左前になりつつあるのに対し、「鎌倉本舗」は新興企業ながら勢いがあります。

下級貴族であった大江広元にしてみれば、『このまま「朝廷総本家」に勤めていても大して出世は望めない。ここは一つ思い切って「鎌倉本舗」に「転職」して、新天地で活躍してやろう』という気持だったのかもしれません。

大江広元は、有力御家人の権力抗争からは自ら距離を取り、長きにわたって幕府に仕えた優れた政治手腕の持ち主で、北条氏と協調しながら武家政権の確立に貢献した人物でした。

1200年代に入ると源氏は没落し、幕府の権力は北条氏へ移っていくこととなります。

この混乱の最中でも広元は姿勢を変えず、黙々と行政を司っていきました。

北条氏を筆頭とした「十三人の合議制」においても、北条時政、義時に次ぐ3番目の序列でした。

トップが入れ代わり立ち代わりしても、安定した組織運営がなされていたことは、広元の功績とされています。

ちなみに1232年、頼朝期からの決まり事をまとめた御成敗式目が作られたのは、1225年に広元が亡くなってしまったことも関係していると考えられています。

優れた行政官がいなくなり、幕府の運営にも手引きが必要になったわけです。

3.大江広元の人物評・エピソード

・「成人してから後、涙を流したことがない」と、後年自ら述懐したという逸話があります。その真偽は定かではありませんが、彼の情に流されない冷静な人物像が反映された逸話です。

・鎌倉に大江広元の墓と伝えられるものがありますが、これは江戸時代に長州藩によって作られたものであり、広元の墓とする根拠はありません。地元の言い伝えによると鎌倉市十二所の山中にある五輪塔が本来の広元の墓とされています。

・「承久の乱」で後鳥羽上皇側に付いた嫡男・大江親広は、乱の終結後出羽国寒河江荘に潜居しますが、父広元の訃報に接し息子大江佐房に命じて阿弥陀如来を作らせ遺骨を納入して、寒河江荘吉川(山形県西村山郡西川町)の阿弥陀堂に安置したということです。親広も没すると阿弥陀堂の傍らに葬られました。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。



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