文覚(遠藤盛遠)とは?源頼朝に挙兵を促すなど「源平合戦の仕掛人」の一人だった!?

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文覚

「文覚(もんがく)」と言えば、今年(2022年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、市川猿之助さんが演じている謎の僧を思い浮かべる方が多いと思います。

朝廷と平家相関図

物語の最初の方で、源義朝の髑髏(偽物の髑髏?)を持って源頼朝に目通りして挙兵を促す場面があったり、最近では後白河法皇から祈祷(平清盛への呪詛や平家滅亡の祈祷?)を依頼されるなど得体の知れない怪しい僧ですね。

では、一体「文覚」とはどのような人物だったのでしょうか?

今回は「文覚」についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.文覚とは

文覚上人画像・神護寺

文覚(もんがく)(1139年~1203年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧です。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)です。

「文学」、あるいは「文覚上人」、「文覚聖人」、「高雄の聖」とも呼ばれます。弟子に上覚(じょうかく)、孫弟子に明恵(みょうえ)らがいます。

2.文覚の生涯

(1)もとは「北面武士」

「摂津源氏」傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、「北面武士(ほくめんのぶし)」(*)として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていましたが、19歳で武士をやめて出家し、「文覚」と称しました。

(*) 「北面武士」とは、京の朝廷にて、上皇を警衛した武士のことで、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰めていました。源義朝(源頼朝源義経の父)も北面武士。

(2)19歳で出家した理由「袈裟と茂遠」

遠藤盛遠を名乗っていた頃の若き文覚。人妻・袈裟御前に恋し、その夫を殺害せんために寝室に忍び寄る。月岡芳年画

遠藤茂遠は、従兄弟で同僚・渡辺渡(わたなべわたる)の妻である袈裟御前に横恋慕しました。ちなみに、 袈裟御前も鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていた女性です。

そして、袈裟御前から「夫の髪を洗い、酒を飲ませて酔いつぶれさせて寝かせます。そこへ忍んできて討ってください」という言葉を受けて、渡辺渡を殺害しようと、夜中に屋敷へ忍び込みましたが、誤って袈裟御前を殺してしまいます。

暗くてよく見えなかったのか?と思いきや、袈裟御前は、夫への操をたてるため、自分の髪を濡らして、夫の布団で寝ていたようで、その袈裟御前の思いを知った茂遠は、武士をやめて出家し、菩提を弔う道に進んだようです。

文覚は那智山にこもって滝行したり各地の霊山・霊場を遍歴して修行に明け暮れました。

文覚荒行

(3)後白河天皇に強訴して伊豆国に配流され、源頼朝の知遇を得る

文覚は、真言宗の開祖・空海(くうかい)を崇敬しており、真言宗の僧となって、荒廃した京都・高雄にある神護寺に住むようになりました。

空海とその弟子真済(しんぜい)を中心に整備された神護寺も二度の火災によって衰退の一途を辿り、ほとんど廃墟となったこの寺に、仁安三年(1168年)、空海を崇拝する文覚がその遺跡を慕ってやってきたのです。

文覚はこの寺を修復しようと勧進帳をささげて、方々で寄付を集めて歩きましたが思うようにはかどりません。ある日、文覚は後白河法皇の御所「法住寺殿」を訪れ、大音声で勧進帳を読み上げます。

ちょうど御前では太政大臣師長が琵琶をかきならし、大納言資賢は拍子をとって風俗・催馬楽(さいばら)を詠い管弦の遊びが盛り上がっている最中でしたので、後白河法皇は文覚の訴えを全く無視しました。

文覚は退出を命じられても退かず左手に勧進帳を右手に刀を持って大暴れしたため、北面武士によって捕えられました。

このように、神護寺を復興させようと、後白河法皇に荘園の寄進を強訴したため、1173年に渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守)へ配流となりました。

文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古谷(なごや)寺に住み、そこで同じく伊豆国・蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流の身だった源頼朝の知遇を得ます。ちなみに源頼朝は、約13年前の1160年から、伊豆に来ていました。

当時の流罪は、京から遠くに追放するという感じで、生活は保障されており、近隣への遠出も自由だったので、源頼朝を経済支援していた乳母・比企尼(ひきのあま)が、文覚と引き合わせたとされています。

1178年に、文覚が許されて帰京するまでの約5年間に、滝山不動堂(山木判官平兼隆屋敷の裏山)や、函南(かんなみ)にあった比企尼の屋敷近くの伊豆・高源寺などで、何回か会談を重ねたようです。

1179年、平清盛が、後白河法皇を幽閉したのを憤り、文覚は、伊豆の源頼朝に平氏打倒を勧めたとされています。

1180年、文覚が公卿・藤原光能(「鎌倉殿の13人」の一人である中原親能の父か?)に働きかけて、後白河法皇が、平氏追討を命ずる「院宣(いんぜん)」を出すと、源頼朝に挙兵を促しました。

(4)頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺などの復興に尽力

1183年頃から文覚は、後白河法皇や鎌倉に入った源頼朝の庇護のもとで、寺領の寄進を受けるようになり、神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復したりしました。神護寺の堂宇は1190年頃には完成しています。

また、京では、鎌倉幕府から派遣された中原親能(「鎌倉殿の13人」の一人)などによる、朝廷交渉の仲介役も、文覚が果たしています。

1185年、北条時政の捜索によって、平維盛(たいら の これもり) の遺児である平六代(平高清、六代御前)が捕らえられると、文覚は頼朝のもとへ弟子を遣わして助命嘆願を行い、六代を神護寺に保護しました

しかし平六代は結局、頼朝の死後に文覚が「三左衛門事件」に連座して流罪にされたときに再び捕らえられ、処刑されました。

(5)頼朝の死後、「三左衛門事件」に連座して佐渡国に配流される

頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていましたが、1192年に後白河法皇が死去、1199年に源頼朝が没すると、文覚を支援する者がいなくなりました。

そして将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、内大臣・源通親(みなもとのみちちか)の策謀にハマって、1199年「三左衛門事件」(*)に連座し、佐渡国へ配流されます。

(*)「三左衛門事件」とは、一条能保・高能父子の遺臣が権大納言・源通親の襲撃を企てたとして逮捕された事件です。「三左衛門」とは、捕らえられた後藤基清、中原政経、小野義成がいずれも左衛門尉であったことに由来します。

(6)後鳥羽上皇に謀反の疑いを受け対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死

通親の死後、建仁2年(1202年)に許されて京に戻りますが、六代はすでに処刑されており、翌建仁3年(1203年)に、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死しました。

なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。

3.文覚は古い形の密教的・修験道的な僧侶だった

文覚木像文覚木像の掲示

文覚は「都市型の教学に生きた僧侶」ではなく、「古い形の密教的・修験道的な僧侶」でした。

奈良時代に仏教は「国家公認の宗教」となりましたが、それは「大寺院中心の都市型仏教」でした。そして僧侶も教学的学問を重んじる都市型のものとなり、日本の法相宗の祖とも言うべき義淵や道昭など「山岳を修行の場として荒行によって大自然と一体化する中に悟りを求める古い形の密教的修行」を重んじる僧侶を排斥しました。

このような山岳に修行の場を求める僧侶の生き方は、真の密教に関心を持った空海に受け継がれて平安時代に至りました。

文覚は、この空海の生き方をよしとして、あえて都市型の僧侶となることを避けました。

これは京都の公卿社会に組み込まれている都市型の仏教を正統とする僧侶たちから見れば粗野に見えたことも確かですが、一方では「恐ろしい力をそなえた法力を持つ僧」という畏怖の念を抱かせました。

そして文覚は、配流先の伊豆の一般民衆から、「京から来た験(げん)高き高僧」と信じ込ませるような工作をしています。

その結果、文覚の験力はたちまち伊豆の住民の心を捉えてしまいました。

たとえば『源平盛衰記』によると、後白河法皇の御所に乱入して捕らえられた獄中で、文覚は何やら訳の分からない呪文を唱えました。すると世の中に次々と不吉なことが起こり、獄卒たちは「身の毛よだってぞ覚えける」状態でした。後白河法皇も「此の僧を京中に置きては悪(あ)しかりなん」と思ったということです。

伊豆へ送られることになった文覚は、摂津の渡辺の地から船に乗せられました。遠州灘あたりに差し掛かった時、海は時化(しけ)で船は木の葉のように揺れました。船中の人々が船酔いして苦しみ、かつ船が難破してしまうのではないかと慄(おのの)いていました。

ところが文覚だけは、一人静かでした。渡辺の地を出たときから、大願成就のための断食を行っていたのです。

船子たちは座って動かない文覚を見て、「皆がこんなに苦しんでいるのに、僧ともあろう者が何もしようともしない、全く役立たずだ」と不満を漏らしました。

すると文覚はやおら立ち上がり、船の舳先(へさき)に行って海上をにらみ、荒れ狂う海に向かって海龍を叱り飛ばしました。

「この船中には大願を発したる文覚が乗ったるなり。我昔より千手経の侍者として、深く観音の悲願をたのみ、龍神八部正しく如来説教の砌(みぎり)にして、千手の侍者を守護せんとの誓いを発するにあらずや」

「千手の侍者は龍神の八部衆が守ってくれるという約束であった。今、ここに文覚がいるのに海が荒れているのは許せない」と一喝したのです。

するとたちまち波は鎮まりました。目の当たりにこの法力を見せられた人々は驚き、これまで馬鹿にしてきたことを悔いて、多くの者がその場で文覚の弟子になることを申し入れたほどだったということです。

文覚はこのような験力・法力を持っている高僧と周囲の民衆に信じ込ませておいて、実際はこっそり頼朝の説得に当たっていたようです。

後白河法皇の「院宣」を取りに京へ行くにあたって、文覚は「これから堂に籠って七日間の禅定に入る」と民衆に宣伝しました。

ありがたい僧侶の「入定(にゅうじょう)」(*)を一目見ようと人々は集まりました。文覚は合掌して見つめる人々の前でお堂に入り、外から鍵を掛けさせました。

(*)「入定」とは、真言密教の修行のひとつで、精神を統一し、無我の境地に至るために瞑想することを指します。 この後、生きた空海の姿を見た者はいませんが、高野山奥の院では現在も空海が祈りによって人々を救っているとされ、毎日、衣服や食事が給仕されているそうです。

その後、文覚はそこから抜け出す「大魔術」(空中浮揚人体切断などのイリュージョン)のようなことをやってのけたのです。

七日間の行が明けると、再び文覚は民衆の見守る中、おもむろに堂から現れました。人々はありがたい行を成し遂げた僧侶と思って拝みました。

しかし、土牢に入れられても法力によって自由に出入りできたという文覚にとって、鍵が掛かったお堂からこっそり抜け出すことなど造作もないことでした。

民衆の目をくらましておいて、実際はこの七日間で伊豆と京を往復していたのです。

このような話を聞くと、「補陀落渡海(ふだらくとかい)」はともかく、「千日回峰」などはやはりインチキだったのではないかと思うのは私だけでしょうか?

4.文覚にまつわる人物評や逸話・伝承

現在では文覚は歴史を語る上でほとんど忘れ去られ、消えてしまった感がありますが、江戸末期から明治期にかけては「文覚ブーム」とも言えるほどもてはやされたそうです。

明治時代の彫刻家・荻原守衛(荻原碌山)(1879年~1910年)は、人妻の相馬黒光への激しい恋情と苦悩を文覚と重ね合わせて、「文覚」や「女」(下の画像)などの作品を創作しました。

荻原守衛・文覚荻原守衛・女

文覚が平安時代の最末期から鎌倉時代への、日本が大きく変動する時代に生き、その時代の移り変わりを内側から支えた人物であることが、その背景にあるのかもしれません。

私は、「文覚は、源平合戦の仕掛人で、幕末から明治維新にかけて表舞台ではなく裏舞台(舞台裏)で活躍(暗躍)した坂本龍馬と岩倉具視を足したような人物だったのではないか」と思っています。

坂本龍馬は、薩摩藩と長州藩の間を奔走して「薩長同盟」を結ばせ、武器商人・グラバーからの武器の調達を支援するなど明治維新(薩摩藩と長州藩による軍事クーデター)を側面支援しました。

一方岩倉具視は、不遇時代に薩摩藩と長州藩などの倒幕派の志士たちと交わり、朝廷への復帰後は天皇の側近として朝廷と倒幕派を結び付ける役割を果たしました。そして、「攘夷」に固執する孝明天皇の暗殺や、その息子の明治天皇の暗殺長州人の大室寅之祐へのすり替えにも深く関与しました。

文覚は袈裟御前を誤って殺害したことを悔いて仏門に入ったとはいえ、京・大原の里で静かに平家の人々の菩提を弔った建礼門院とは全く異なり、平氏の横暴に対する憤懣から源頼朝に挙兵を促し、真言宗寺院の復興の野心から後白河法皇に近づくなど政治的野心をむき出しにした人物でした。

(1)『玉葉』

九条兼実の日記『玉葉(ぎょくよう)』によれば、頼朝が文覚を源義仲(木曾義仲)のもと遣わし、平氏追討の懈怠や京中での乱暴などを糾問させたということです。

(2)『愚管抄』

慈円が著した『愚管抄(ぐかんしょう)』には、乱暴(荒聖)で、行動力はあるが学識はなく(行はあれども学なき僧)、人の悪口を言い、天狗を祀る(天狗の行をなす)などと書かれ、また、文覚と頼朝は四年間朝夕慣れ親しんだ仲であるとしています。

(3)『井蛙抄』

『井蛙抄(せいあしょう)』によれば、同時代の僧侶西行を憎んでいたとの噂があったということです。

(4)『平家物語』

平家物語』では巻第五の「文覚荒行」、「勧進帳」、「文覚被流」、「福原院宣」にまとまった記述があり、海の嵐をも鎮める法力を持つ修験者として描かれています。頼朝に亡父源義朝の髑髏を示して蹶起をうながしたり、配流地の伊豆から福原京の藤原光能のもとへ赴いて後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるように迫り、頼朝にわずか8日で院宣をもたらしました。

巻十二の「泊瀬六代」では頼朝に直接六代助命の許し文を受け取りに行きます。また後鳥羽上皇の政を批判したため隠岐国に流されますが、後に上皇自身も「承久の乱」で隠岐国に流される結果になったとしています。

いずれも史実との食い違いが多く、『平家物語』特有のドラマチックな脚色がなされていると言えます。

(5)『源平盛衰記』

『源平盛衰記』は、出家の原因は、従兄弟で同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻、袈裟御前(けさごぜん)に横恋慕し、誤って殺してしまったことにあるとしています。稀代の扇動者、文覚の前日譚が「文覚発心」です。

事件は創作とされますが、登場する袈裟御前絶世の美女で、孝道と貞節の狭間で死を選んだ貞女とされてきました。

盛遠は、同僚の渡辺渡の妻袈裟に密かに想いを寄せ、袈裟の母を脅して仲立を頼み、想いを遂げようとしました。袈裟は渡のことを想えば胸が張り裂ける気持ちでしたが、母の命には代えられず盛遠の申し出を承諾しました。

袈裟は盛遠に「本当に私を想うのなら、渡に髪を洗わせ、酒に酔わせて寝かせておくので、ぬれた髪を探って殺してほしい」と話します。盛遠は喜んで夜討の支度をし、日暮れを待ちました。

家に帰った袈裟は渡を酔いつぶして休ませ、自分の髪をぬらし、側に烏帽子を置くと「露深き浅茅が原に迷う身の いとど暗路に入るぞ悲しき」と辞世を詠み、燭台の火を消しました。

盛遠は闇夜にまぎれ、ぬれた髪を探り、一刀のもとに首をはね、袖に包んで持ち去りました。しかし、月明りに照らし出された首は愛しい袈裟のものでした。盛遠は自分の罪業深い身と世の無常をつくづくと感じ、出家して名を文覚と改めたということです。

袈裟の「露深き浅茅が原に迷う身の いとど暗路に入るぞ悲しき」という辞世は、わが身を犠牲にした「貞女」のものというよりも、どろどろした恋愛の淵に足を取られてしまったことを自覚した女の苦悩の歌と解釈するほうが素直です。

芥川龍之介が書いた『袈裟と盛遠』で、袈裟が盛遠の腕に抱かれた夜のことを思い出し、「殊にあの人の腕を離れて、又自由な体に帰った時、どんなに私は私自身を浅間しく思った事であろう」と心が揺れ、盛遠と共に夫を殺すことになっていたその日、自分が身代わりになって死のうと考え、それは「女としての操を守るためではなく、自分の立場を世間の非難から回避するための手段に過ぎない」と独白するのは、真相に近いように私は思います。

(6)「文覚井」伝承

和歌山県かつらぎ町笠田(かせだ)には文覚が開削したとする伝承が伝わる「文覚井(もんがくゆ)」があります。文覚井は紀伊国桛田荘(かせだのしょう)を灌漑した中世の用水路です。

(7)「文覚の滝」

文覚・那智の滝1文覚・那智の滝2・月岡芳年

①那智の滝

熊野三山の那智大社のご神体とされる大滝「那智の滝」の下流に、文覚が修行をしたという「文覚の滝」が存在し、滝に打たれる文覚の元に不動明王の使いがやってきて修行を成就するシーンがよく描かれます。

これは2011年(平成23年)の紀伊半島大水害で消滅しました。

②立山の称名滝

立山の弥陀ヶ原を水源にした称名川に、那智の滝を凌ぐ「日本一高い落差」を誇り、国指定の名勝天然記念物でもある「称名滝」があります。

③遠藤ヶ滝

福島県の吾妻朝日連峰の外れに、文覚上人が修行した行場であると言われる「遠藤ヶ滝」があります。

④洒水の滝

神奈川県の箱根連山のはずれには、「洒水の滝(しゃすいのたき)」があります。関東地方では日光の華厳の滝に次いで大きな滝と言われています。

⑤奈古谷の不動滝

伊豆の十国峠の麓には、「奈古谷(なごや)の不動滝」があります。

5.文覚が登場する作品

・近松門左衛門 人形浄瑠璃『平家女護島』

・明治期の長唄『鳥羽の恋塚』。夫殺しを勧められて、盛遠に覚悟の上で討たれた袈裟御前の悲話。

・上方落語『袈裟御前』

・芥川龍之介の小説『袈裟と盛遠』

・菊池寛の戯曲『袈裟の良人』

・吉川英治 小説『新・平家物語』

・手塚治虫の漫画『火の鳥乱世編』。遠藤盛遠と文覚が別人として両方登場する。

・永井路子 小説『北条政子』

・石井歓 オペラ『袈裟と盛遠』



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