大奥を揺るがせた女たちの五大事件(その3)脇坂安董VS.延命院日道

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延命院日潤

1.脇坂安董VS.延命院日道のバトル「延命院事件」

「オットセイ将軍」との異名を持つ11代将軍家斉(1773年~1841年、在職:1787年~1837年)の治世、厳しい規律に縛られ、禁欲生活を強いられる「大奥」の女中たちの満たされぬ欲望につけ込んで、自らの性を満足させていた男がいました。

それは江戸谷中の延命院住職・日道(にちどう)(「日潤(にちじゅん)」とも)です。

延命院・日潤

日道は美男子で、初代尾上菊五郎の隠し子とも噂されました。剃髪後、延命院で説教上手の美僧として売り出し、32歳の若さで延命院住職を受け継ぎました。

そして、その美貌を餌に、参詣に来た大奥や諸藩の奥女中を隠し部屋に招き入れては、日夜淫行に耽っていたということです。

延命院に通った女中の数は、とても一人で相手にできる数ではなく、日道は歌舞伎役者を動員して女たちの相手を務めさせていたとも言われています。

当然のように江戸市中で噂になりましたが、延命院は長らく放置されていました。

それは御中臈の梅村など、幕政をも動かす大奥の女中が絡んでいるだけに、「寺社奉行」といえども手が出せなかったのです。

そんな「女郎屋」ならぬ「男郎屋」(今でいう「ホストクラブ」?)に初めて捜査のメスを入れたのが、寺社奉行の脇坂淡路守安董(わきさかあわじのかみやすただ)でした。

「寺社奉行」は「町奉行」「勘定奉行」の三奉行中では最上位の要職です。しかも、従来「譜代大名」が務めることになっていた「寺社奉行」に、初めて「外様大名」として抜擢されたのですから、その敏腕ぶりが窺えます。

そんな安董も、延命院に正面から手を付けることはできませんでした。

そこで彼は一計を案じ、家臣・三枝右門(さいぐさうもん)の妹お椰(なぎ)を「女スパイ」(「囮(おとり)捜査」?)として「奥女中」に仕立てて延命院に送り込み、「通夜参籠(つやさんろう)」を何度もさせて日道の秘密を探らせたのです。

日道の「女犯」の動かぬ証拠となったのは、大奥の女中らが日道宛に送った「艶書(えんしょ)」(いわゆる恋文)で、お椰の決死の囮捜査で無事に確保できました。ほかにも金銭処理書や建物の仕掛けなど数々の秘密もわかりました。これで、日道の日頃の行いが証明できたのです。

動かぬ証拠を掴んだ安董は、1803年5月26日未明、延命院を包囲して一斉検挙に及びました。

寺社奉行の脇坂安董ほか、部下ら多数が、延命院へと声を上げながら踏み込みました。

しかし、煙のように日道の姿は消え去っていて、いくら探してもどこにもいません。焦った脇坂らは、僧侶の柳全を捕縛し、尋問しました。すると、どうやら抜け道を通って、玄関先の「長持ち」(下の画像)に隠れているとの情報を得ました。

長持ち・衣裳入れ

問題の長持ちを取り囲み、蓋を開けようとしますが動きません。中から必死の抵抗が感じられるので、数人がかりで蓋を開けると、そこには、震えながら隠れていた日道の姿がありました。何だか日産自動車元会長・ゴーン被告の楽器ケースに隠れての逃亡劇を思い出しますね。

引きずり出された男には、色気の「い」の字もなく、結局、縄をかけられ、寺社奉行所へと連行されました。

日道は市中に晒された上、死罪となりました。

しかし、日道と関係した女性は59人にも上りましたが、罰せられたのは、尾張家や一橋家の女中数名に過ぎませんでした。さすがの安董も、「大奥女中」にまでは手が付けられなかったのです。

この大捕り物で一躍名を馳せた安董ですが、大奥女中の讒言で失脚し、その後十数年間は自領の播磨龍野藩の藩政に没頭したそうです。

僧侶の性犯罪は「女犯(にょぼん)」刑で、「遠島(島流し)」が普通ですが、日潤には「密通」のほか、「堕胎」や忍者屋敷まがいの違法な家屋があり、関係した女が59人など、女犯刑を超えており「死罪」になったのです。

一方、安董は大奥からは御中﨟梅村の部屋方「ころ」を「押込」にしただけで、20人近い大奥と大名家の奥女中は不問にしました。

しかし事件決着後、御中﨟梅村は自害し、また延命院通いした12人の奥女中は大奥から追放され、武家奉公禁止になりました。延命院事件を身をもって探ったお梛は、裁きが出る前に自害しました。

2.脇坂安董とは

脇坂安董の書

破戒坊主を恐れさせた敏腕の寺社奉行「脇坂淡路守安董(わきさかあわじのかみやすただ)」(1767年~1841年)は、播磨竜野藩主で後に老中となりました。脇坂安親の次男で、母は上田義当の娘です。通称中務大輔。

外様大名ながら奏者番、寛政3(1791)年寺社奉行となります。文化10(1813)年病気辞職しますが、文政12(1829)年復職しています。

寺社奉行時代、大奥女中に流行していた谷中延命寺僧侶の紊乱を摘発しました。また但馬出石藩の御家騒動である仙石騒動は、老中を巻き込んだ疑獄事件に発展しましたが、普化宗の虚無僧に扮した神谷転の吟味に厳正な判決を下したと評価され、天保6(1835)年12月将軍から印籠を賜っています。翌年には外様では破格の西ノ丸老中昇進となり、譜代席に改められました。

天保8(1837)年には本丸老中となり、潔白な政治が期待されましたが、在職のまま病死しました。急死だったため、西ノ丸派の毒殺との風聞が流布しました。

3.延命院日道とは

「延命院日道」(1764年?~1803年)は、江戸谷中の日蓮宗延命院の住職です。参詣(さんけい)の女性を誘惑、堕胎もしたとして享和3(1803)年7月29日死罪となりました。

彼は美男子で、初代尾上菊五郎の実子と噂されました。

なお、この事件直後に元幕府奥右筆に侍奉公していた品田郡太が、この件の顛末を《観延政命談(かんえんせいめいだん)》16冊の書本につづり、貸本屋に売却、回覧したことが文化2(1805)年に発覚し、作者ほか関係者が罰せられました。

明治11年河竹黙阿弥がこの事件を題材に「日月星(じつげつせい)享和政談」を書きました。

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