清水一学とは?堀部安兵衛と堀内道場の同門だった!?

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清水一学二刀流

「忠臣蔵」では、大石内蔵助以下の四十七士がヒーロー(hero)で、「敵役(かたきやく)」の吉良上野介や、上杉家から派遣された付け人を含む吉良家の「用人」などは「ヒール(heel)一味」としてあまり顧みられません。

しかし、私はこの「ヒール一味」と目される人々も、強欲で意地悪な吉良上野介浅野内匠頭の短慮による「松の廊下の刃傷事件」によって人生を狂わされた気の毒な人々だと感じるのです。

今回はその中でも有名な「清水一学」についてご紹介したいと思います。

1.「清水一学」

「清水一学」(1678年~1703年)は、吉良上野介の所領である三河国幡豆郡宮迫村(現:愛知県西尾市)の農家に生まれました。幼少から武芸を好み、「二刀流」だったと言われています。

1692年に吉良上野介の妻・富子の目に留まり、「士分取立て」の上、吉良家家臣として召し抱えられ「中小姓」となります。富子の目に留まった理由は、彼女の夭折した息子吉良三郎に似ていたためと言われています。

忠臣蔵の物語では、庭の池にかかる橋の上で、二刀流の清水一学が3~4人の浪士を相手に奮戦する様子が描かれることが多いですが、実際のところはよくわかりません。

台所口で少しだけ戦って討ち死にしたと記す「江赤見聞記」(「上野介用人、清水一学、台所口、四十歳」)もあります。ただこの赤穂方の落合与左衛門(瑤泉院の用人)が書いた「江赤見聞記」では「四十歳」と書かれていますので、これは別人のようです。

四十七士の大石内蔵助ら17名がお預けとなった細川家の家臣「堀内伝右衛門」(1645年~1727年)が書いた「堀内伝右衛門覚書」によれば、上野介の前に立ちふさがった二人が殊の外よく働いたとあります。この二人が誰なのかはっきりしませんが、巷説では清水一学と吉良家の家老小林平八郎(?~1703年)がよく奮戦したことになっています。

吉良方は16人が討ち死にし、20人余りが負傷したそうです。

清水一学と小林平八郎はともに剣の達人であったため、浪士乱入と同時に主君の身辺を守って安全な場所に主君の身を潜ませた後、浪士を近寄らせないようにかなり攪乱妨害をしたようで、完全に4~5人の浪士が引き付けられっぱなしだったようです。後日浪士たちが二人の働きぶりを褒め称えています。

「江赤見聞記」では、「小林平八郎は、槍を引っ提げて激しく戦い、上野介をよく守ったが、大勢の赤穂浪士と戦って遂に討ち取られた」とあります。余談ですが、小林平八郎の孫娘が生んだ子が、かの天才絵師葛飾北斎だと言われています。

いずれにしても彼らが「吉良家の忠臣」であり、「犠牲者」であったことは間違いありません。

しかし、彼らは「赤穂浪士の討ち入り」が99%以上の確率で予想される中、「いつ討ち入るのか?いつ来るのか?」と四六時中気の休まる時がなかったのではないでしょうか?そして、討ち入られたら、死ぬまで戦い続けなければならない立場なので、非常に気の毒な気もします。

もし吉良家の家臣でなかったら、天下太平の元禄の世で、こんな悲惨な最期を遂げることなく、別の安穏な人生が開けていたかもしれなかったでしょうに・・・

清水一学と小林平八郎の二人は「歴史に名を残した」「死に花を咲かせた」とも言えますが、その他の吉良家の家臣は名もなき「地上の星」として犬死にしたように見えます。「死んで花実が咲くものか」です。

2.「堀部安兵衛」との関わり合い

忠臣蔵では、清水一学と堀部安兵衛ととは剣術の堀内道場の同門で知り合いだったことになっています。そして討ち入りの時はお互いに清々しく戦うことになっています。

忠臣蔵は、「虚実綯い交ぜ」なので、この話は史実ではないかもしれませんが、ドラマとしてはなかなかよく出来ていると思います。



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