伊藤左千夫門下の歌人で、「新思潮」同人の土屋文明とはどんな人物だったのか?

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土屋文明

土屋文明について詳しくご存知の方は少ないのではないかと思います。

私も学校で習いましたが、「文明(ぶんめい)」という名前(本名で、読み方も「ふみあき」ではない)が珍しく、妙に印象に残っている程度でした。

1.土屋文明とは

土屋文明(つちやぶんめい)(1890年~1990年)は、伊藤左千夫門下のアララギ派の歌人です。

彼は群馬県西群馬郡上郊(かみさと)村(現高崎市)の貧しい農家に生まれました。祖父の藤十郎は賭博で身を持ち崩し強盗団に身を投じて北海道の集治監で獄死したと伝えられており、家族は村人たちから冷たい目で見られ、幼い文明にとって故郷の村は耐えがたい環境でした。

父の保太郎は農家の傍ら生糸や繭の仲買で生計を立てていましたが、村に居づらく、村を出入りして商売をしていました。3歳から伯母・のぶの嫁ぎ先の福島家で育ち、幼少期にのぶの夫・福島周次郎から俳句を教わりました。

旧制高崎中学在学中から、「蛇床子(じゃしょうし)」(*)のペンネームで俳句や短歌を『ホトトギス』に投稿し、卒業後に恩師・村上成之の紹介により伊藤左千夫を頼って上京しました。

(*)蛇床子(じゃしょうし)は漢方薬の名前で、セリ科のオカゼリの成熟果実を乾燥したものです。

最初、歌人伊藤左千夫のもとで牛舎の労働に従おうとしましたが、左千夫から学資の提供を受けて旧制一高を経て、1916年(大正5年)に東京帝国大学哲学科を卒業しました。

東大在学中に、芥川龍之介・久米正雄らと第3次『新思潮』に参加しています。

一高在学中に『アララギ』初期同人となり、初め清新な叙情的歌人として出発しました。長野県の諏訪(すわ)高等女学校・松本高等女学校教師、校長などを務めたのちふたたび上京、法政大学予科、明治大学文芸科の教鞭(きょうべん)をとりながら、1930年(昭和5年)に斎藤茂吉から『アララギ』の編集発行人を引き継ぎます。

1925年(大正14年)第一歌集『ふゆくさ』を刊行。その後『往還集』(1930年)、『山谷(さんこく)集』(1935年)、『六月風(ろくがつかぜ)』(1942年)などの歌集を重ね、昭和初期から、戦争に向かう日本の一時代を背後に知識人としての生き方の苦渋を歌う現実主義的な独自の歌風を展開し注目されました。

第二次世界大戦中、中国戦線を視察、『韮菁(かいせい)集』(1946年)を刊行、東京空襲後群馬県に疎開、敗戦を迎えました。

戦後1951年(昭和26年)に帰京し、『山下水(やましたみず)』(1948年)、『自流泉(じりゅうせん)』(1953年)などと時代を凝視する思索的世界を深め、昭和歌壇を指導する老大家の一人となりました。また、『万葉集』研究者として『万葉集私注』20巻(1949年~1956年)のほか、『短歌小径』などの歌論集も多く出しています。1986年(昭和61年)文化勲章を受章しました。

2.「人生100年時代」を先取りするように百歳の天寿を全うした

十といふ ところに段の ある如き 錯覚持ちて 九十一となる

終りなき 時に入(い)らむに 束(つか)の間(ま)の 後前(あとさき)ありや 有りてかなしむ

百年は めでたしめでたし 我にありては 生きて汚き 百年なりき

1990年(平成2年)9月、彼は100歳を迎えました。10月、代々木病院に入院しベッドの上での生活となりました。付き添った娘の草子に話すことは故郷・上郊村のことばかり。そして、眠りから覚めた彼の「ああ生きていたか、ありがたいなぁ」という言葉を幾度も聞いたといいます。彼は同年12月8日、心不全で亡くなりました

3.土屋文明の代表的短歌

土屋文明の短歌

青き上に 榛名をとはの まぼろしに 出でて帰らぬ 我のみにあらじ

これは70歳の時に詠んだ故郷を想う歌です。彼には故郷に帰れないわけがありました。「博奕に身を持ち崩した挙句、強盗の群れに投じ徒刑囚として北海道の監獄で牢死した」祖父・藤十郎の噂のためでした。

故郷の渋民村を追われ石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なしと詠んだ石川啄木を彷彿とさせるような境遇ですね。

榛名丘陵に広がる桑畑、井野川や沢でドジョウやカニを取った原風景が、彼の中にありました。彼の人間愛、やさしさ、激しさ、厳しさ、寂しさは、こうした風土に育まれました。上記のような生い立ちによって、故郷は辛く悲しい場所でもあり、高崎中学を卒業し上京して以来、数えるほどしか、故郷の土を踏みませんでした。

道の上の 古里人に 恐れむや 老いて行く我を 人かへりみず

この歌を作ったのは、文明が61歳のときです。幼い思い出のように古里人に恐れを抱いています。

このほか、貧しい生活に根ざした次のような短歌を詠んでいます。

・ただひとり 吾より貧しき 友なりき 金のことにて 交(まじはり)絶てり

・吾(わ)がもてる 貧しきものの 卑しさを 是(こ)の人に見て 堪(た)へがたかりき

・小工場に 酸素熔接の ひらめき立ち 砂町四十町(しじっちゃう)  夜ならむとす

・この谷や 幾代(いくよ)の飢(うゑ)に 痩せ痩せて道に 小さなる媼(おうな)行かしむ

・垣山(かきやま)に たなびく冬の 霞あり 我にことばあり 何か嘆かむ

4.土屋文明の言葉

短歌と作歌の指標ともなる土屋文明の言葉としては、「活即短歌」「生活即文学」が有名です。

短歌は生活の文学だ。生活の表現などというようなまぬるいものでなく、生活即文学だ。短歌は選ばれた少数者文学だが、少数有閑者の具ではなく、一人の英雄、スターを予想しない、真剣な生活者、広い意味での勤労者の文学、勤労者同志の叫びの交換だ。( 土屋文明「短歌の現在及び将来について」より)

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