大河ドラマ「どうする家康」に登場する武田信玄とは?最強の戦国大名だが無念の病死。

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武田信玄

今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。

阿部寛さん(冒頭の画像)が演じることになった武田信玄は大変有名な戦国武将ですが、彼が天下を取れなかった理由について、私は大変興味があります。

そこで今回は、彼が天下を取れなかった理由とともに、武田信玄についてわかりやすくご紹介したいと思います。

なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

1.武田信玄はなぜ天下を取れなかったのか

武田信玄をはじめ、今川義元・織田信長・上杉謙信など多くの戦国大名たちが「天下取り」を目指しました。ここで言う「天下」とは、当時は「畿内」のことで、「日本全国」という意味ではありません。つまり「天下取り=全国統一」ということではありません。

これについては「三好長慶は戦国時代最初の天下人だった!高槻の芥川山城から天下に号令。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

武田信玄が天下を取れなかった理由としては、次のようなことが考えられます。

(1)地理的条件が都から遠く不利だった

最近「地政学」という言葉をよく聞きますが、地理的条件は非常に重要です。当時の「天下」は京の都を中心とする「畿内」です。

都から遠ければ遠いほど、そこに至るまでに多くの敵対する勢力を撃破しなければならず、不利となります。

その点で、尾張国の織田信長は京都に近く有利だったと言えます。

(2)周辺に上杉氏・北条氏・今川氏など強力な戦国大名がいた

武田信玄の領国である甲斐国の周りには北に上杉氏、東に北条氏、南に今川氏や徳川氏という戦国大名が控えており、西には織田氏がいて、絶えず戦いを繰り返したり、軍事同盟を結んだりする必要に迫られていました。

一方で織田信長は、武田信玄が病没したことに加え、「桶狭間の戦い」という奇襲作戦で今川義元を敗死させ、三河国の徳川家康を取り込んで「天下取り」に挑むことができました。

(3)将軍や朝廷との「伝手(つて)」(コネ)がなかった

武田信玄には「天下取り」に不可欠な将軍や朝廷とのコネがなかったようです。

一方で織田信長は、室町幕府15代将軍・足利義昭の側近でもあり朝廷にもコネのある明智光秀を召し抱え、将軍や朝廷との緊密な連携を可能にしました。

(4)病気を患っていた

武田信玄は若いころから「肺結核」(「胃がん」との説もあり)を患っており、何度も喀血していました。そして戦いの緊張と疲れによって持病が悪化したのではないかといわれています。「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」(1573年)後から、たびたび喀血するようになりました。

1572年(元亀3年)に、織田信長と対立するようになった室町幕府15代将軍・足利義昭の要請に応じて上洛を開始しましたが、信長との直接対決を目前にして、病に倒れてしまいました。

しばらくたっても病状は回復せず、上洛をあきらめて甲斐へ戻る途中で、信玄は53年の生涯を閉じました。これがまさに「致命的な理由」です。

武田信玄は、評判のよくなかった父に代わって家督を継ぎ、優れた戦略と政治手腕で戦国の世を勝ち続けました。実力を武器にのし上がる信玄の生き方は、戦国大名の代表格といってよいでしょう。

信玄がもう少し長生きしていたら、織田信長の天下統一も、徳川家康の江戸幕府も実現しなかったかもしれません。

2.武田信玄とは

武田信玄

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)(1521年~1573年)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる武田氏第16代当主甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信(みなもと の はるのぶ)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。

甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻します。

その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる「川中島の戦い」で抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領しました。

次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没しました。

2.武田信玄の生涯

(1)生い立ちと幼少期

武田信玄は、大永元年(1521年)11月3日に、甲斐の守護大名・武田信虎の嫡男として生まれました。

信玄は、文武ともに優れており、立派な跡取りと周囲から期待されていました。しかし、父の信虎は信玄を疎んじ、廃嫡(はいちゃく)を目論んでいたようです。

その理由は、大永5年(1525年)に生まれた弟・次郎(武田信繁)に父の寵愛が移ったためです。

(2)父を追放して家督を相続

また、信虎は後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けるなど他国への侵攻に熱心で、戦(いくさ)に駆り出される家臣たちは疲弊していました。

天文2年(1533年)、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられました。これは政略結婚ですが、晴信との仲は良かったと伝えられています。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で「上杉の方」も子も死去しています

これ以上、父に国を任せられないと考えた信玄は、策略によって信虎を国外に追い出してしまいます。

強引にも見える信玄の行動ですが、当時は、家督をめぐって親子が殺し合うことは珍しくありませんでした。信玄は父を追放はしたものの、生活費を送っていたといいますから、民や家臣を守るための最終手段だったと考えられています。

(3)「三国同盟」で勢力を強める

三国同盟

甲斐の当主となった信玄は、手始めに甲斐の北側の「信濃(しなの、現在の長野県)」を攻めて領地としました。しかし「越後(えちご、現在の新潟県)」の上杉謙信が、北信濃の領主に頼まれて救援に乗り出し、信玄とにらみ合うことになります。

信玄は天文23年(1554年)に、謙信を抑え信濃を維持するために、甲斐に隣接する「相模(さがみ、現在の神奈川県)」の北条氏と、「駿河(するが、現在の静岡県)」の今川氏との間に同盟を結びます。これが、甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)と呼ばれるものです。

当時、北条氏は東へ、今川氏は西へ勢力を広げようとしており、互いに手を組めば、背後を気にせず、それぞれの目的に集中できる状況にありました。

利害が一致した三国は、お互いの娘を相手の嫡子に嫁がせ、同盟国となります。隣国を気にする必要がなくなった信玄は、順調に領国経営を進め、ますます力をつけていきました。

(4)上洛途中で病に倒れる

駿河侵攻

永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」で今川義元が討ち取られた後、信玄は三国同盟を破って、弱った今川氏を滅ぼします。駿河を手に入れた信玄は、戦国最強大名として他の大名から恐れられる存在となりました。

元亀3年(1572年)には、織田信長と対立していた室町幕府15代将軍・足利義昭の要請に応じて上洛を開始します。しかし、信長との直接対決を目前にして、病に倒れてしまいました。

しばらくたっても病状は回復せず、上洛をあきらめて甲斐へ戻る途中で、信玄は53年の生涯を終えました。

3.武田信玄の有名な戦い

武田信玄は、生涯で何十回もの戦を行いながら、ほとんど負け知らずだったといわれています。戦上手(いくさじょうず)の信玄を象徴する、有名な戦いをご紹介します。

(1)上杉謙信との「川中島の戦い」

「川中島の戦い」は、天文22年(1553年)~永禄7年(1564年)の間に、信玄と上杉謙信との間に起こった合戦の総称です。川中島は、現在の長野市にある三角州です。

両軍は北信濃の支配をめぐり、川中島周辺を舞台に、5回も合戦を繰り広げました。なかでも永禄4年(1561年)の合戦は激しく、乱戦の中で謙信と信玄が一騎打ちしたとの伝説が残っています。

謙信もほとんど負けたことがない戦上手で、戦力もほぼ互角でした。このため相手に決定的なダメージを与えられず、決着がつかないまま終わっています。

(2)徳川家康を圧倒した「三方ヶ原の戦い」

信玄は亡くなる直前に「三方ヶ原の戦い」で徳川家康に圧勝し、存在感を見せつけています。三方ヶ原は、静岡県浜松市の北部に広がる台地です。

上洛のため、甲斐を出発した信玄は、大軍を率いて徳川家康の領地・遠江(とおとうみ、現在の浜松市周辺)に侵入します。織田信長と同盟関係にあった家康は、必死に抵抗するものの力及ばず、浜松城に立てこもって籠城戦に備えていました。

ところが、信玄は浜松城を素通りして、進軍を続けます。信玄に無視されて腹を立てた家康は、城を出て追撃しますが、三方ヶ原で待ち構えていた武田軍の返り討ちに遭ってしまいます。信玄は面倒な城攻めを避けるため、家康の行動を予測して、わざと素通りして見せたのでした。

勝敗は2時間ほどで決まり、家康は命からがら浜松城へ逃げ帰っています。

4.武田信玄にまつわる逸話

武田信玄は、一代で戦国最強と呼ばれる地位まで登りつめた人物です。彼のカリスマ性や先見性は、現在も多くの人を惹きつけています。信玄にまつわる有名なエピソードをご紹介します。

(1)「風林火山」の軍旗と家臣団

信玄は、人材育成の能力に優れており、有能な家臣を多く抱えていました。甲斐は馬の産地でもあり、鍛え抜かれた武将が率いる武田の騎馬隊は、圧倒的な攻撃力を誇るようになります。

また信玄は中国の兵法書「孫子(そんし)」の一節を記した軍旗をつくり、出陣の際に使用しました。濃紺の布に大きな金色の文字が映える「風林火山(ふうりんかざん)」の軍旗です。

風林火山

一般的に、軍略は敵に知られないよう隠すものですが、信玄はあえて軍旗に記し、国内外に広く宣伝します。信玄の作戦は、味方の士気高揚と敵の戦意喪失にとても効果がありました。

まさに「疾如風(はやきこと風のごとし)」を実践しながら迫る騎馬隊を見ただけで、震えあがる敵兵も多かったようです。

(2)温泉好き

信玄は、領内にたくさんの「隠し湯」を持っていました。温泉を所有する目的は、やはり戦に勝つためです。合戦に明け暮れた信玄にとって、兵の傷が早く回復する温泉は欠かせなかったのです。

なお、温泉の近くで採れる硫黄(いおう)は、鉄砲で使う火薬の原料となります。このため隠し湯には、戦国大名にとって貴重な資源である硫黄を独占する目的もあったと考えられています。

信玄自身も温泉が好きで、疲れや傷を癒(い)やしに各地の湯を訪れていました。地元の甲斐だけでなく、侵略先でも温泉を活用したため、長野県や静岡県にも信玄の隠し湯と伝わる場所があります。

(3)内政にも尽力

信玄の父・信虎は、内政をおろそかにしたために人心が離れ、追放の憂き目に遭いました。一方、信玄は国を豊かにする政策を次々と実行し、民衆の支持を得ます。

信玄が行った主な政策は、以下の通りです。

・漆(うるし)や和紙など特産品の生産を推奨
・金山の開発
・街道の整備
・釜無川(かまなしがわ)の治水工事

特に治水工事は、完了までに20年を費やす大事業でした。このとき造った堤防は「信玄堤(しんげんづつみ)」と呼ばれ、今でも甲府市の治水に役立っています。

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